研究発表集会報告 パネル2

パネル2 「〈知覚〉の経験」
報告 : 加治屋 健司

11月19日(日) 10:30-12:30 研究講義棟213教室

パネル2 「〈知覚〉の経験」

群舞の知覚と経験について/斉藤尚大(都立豊島病院)
臨床の「聴取の技法」:間接聴診法の歴史における技術と身体の地位/福田貴成(東京大学大学院)
「サスペンス」と映画の自意識/三浦哲哉(東京大学大学院)

【司会】加治屋健司(東京大学非常勤)

「〈知覚〉の経験」と題する本パネルでは、斉藤尚大氏、福田貴成氏、三浦哲哉氏の三名による発表が、筆者(加治屋健司)の司会のもと行われた。表題中の「知覚」という言葉に括弧が付いているように、いずれの発表も、知覚の持つ厚み、すなわちその媒介性や歴史性、メカニズムに対する関心を共有していたと言える。

最初の発表者の斉藤氏は、都立病院に勤務する精神科医であり、脳科学の知見を活かして群舞(集団の舞踊)を分析する発表を行った。斉藤氏は、舞踊における「引き込み」現象、すなわちダンサー、音楽、観客の間に見られる同調現象に注目し、この現象に関与する脳機能の考察を行った。身振りの視覚的知覚におけるミラーニューロンの活性化、リズムの聴覚的知覚における意識下の情報処理を検討した後、舞踊の知覚における情動の役割、そして情動と行為を結び付ける報酬の予測について考察した。

会場からは、現象や行動に対して脳の部位が行う「関与」のあり方や、学習機能における「報酬」の意味を問う質問が出た。それは、用語の含意に対する理系と文系のアプローチの違いを映し出しているという印象を受けた。

二番目の発表者は、聴覚メディアの研究を専門とする福田氏である。福田氏は、聴診器を用いた間接聴診法の発明者であるラエンネックを取り上げ、その診断法の標準化(音響の言語化)の問題を検討した後、新しい科学技術に基づいて作られた機器類(電気聴診器、フォノグラフ、波形記録装置など)の導入を、聴診の主観性を排除しようとする試みとして論じた。「「共感の共同体」を超える試み」と福田氏が呼ぶこうした企ては、今日の臨床診断において主要な地位を占めるに至らなかったものの、技術と身体が交差する興味深い具体例であり、メディア論的な検討に値するものであることを福田氏は十分に示した。

質疑応答では、聴診法に関する言説分析や、同時代の他技術との比較が重要であるという指摘があり、ジョナサン・クレーリーの『知覚の宙吊り』等も引き合いに出され、知覚と技術の関わりの歴史に対する聴衆の高い関心を感じさせた。

最後は、映画の観客論に関心を持つ三浦氏の発表である。三浦氏は、視覚的情報を、登場人物よりも先に観客に提示した上で生じるというヒッチコックの「サスペンス」概念に注目する。三浦氏によれば、ヒッチコックの映画では、見る主体と行動する主体が分離し、従来であれば連続的に表象されていた感覚と運動の一連の流れが、故意に引き延ばされる。また、このような構成は画面内に複数のフレームを重ねるレイヤー構造によって可能になる。自然的知覚に立脚した古典主義映画と対比させながら、ヒッチコックの映画が、知覚の場に感覚と運動のズレを持ち込んだ点に映画のモダニズムを見出そうとする発表であった。

聴衆からは、自然的知覚を論じる際に参照したJ・J・ギブソンの扱い方や、言及されなかったドゥルーズの『シネマ』に関する質問が出た。三浦氏は、『シネマ』の分類学を参考にしつつも、これが観客論の視座とは相容れないものであることについて言及したうえで、今回の発表ではサスペンスにおける「知覚の経験」を論じるために、ドゥルーズではなくギブソンを援用したのだと応じた。

三名の発表はいずれも、理系の議論を取り入れた意欲的なものであり、他の芸術系の学会では見られない斬新さと面白さがあった。当日は小雨が降る肌寒い日であり、また午前中のパネルであったせいか、最初は客足が鈍くて心配したが、徐々に集まってきた。質疑応答では次々と質問が出て、文理を横断する学際的な研究発表に対する聴衆の関心の高さをうかがわせた。

加治屋 健司

斉藤 尚大
群舞の知覚と経験について

古代の祭式から現代のレイヴ・パーティに至るまで、集団での舞踊はどのように知覚され、またどのような経験をもたらしているのか。本発表では、認知や情動および記憶に関する脳科学の知見を援用して、群舞に舞踊する身体が巻き込まれていく過程や、群舞に外部から眼差しを注ぐ際の認知の機構について推論的な考察を試みる。まず、様々な群舞に共通して認められる特徴である反復的な動きのユニゾンとその「引き込み」効果について、ミラーニューロンの関与および脳の各部位の機能的なカップリングという観点から考察する。次に、引き込みによって生じる強い情動である「恍惚」という感覚について、宗教舞踊の研究またレイヴ・パーティでしばしば服用される薬剤であるMDMAを用いたラットの実験を参照して、脳の報酬系の作用として考察する。また、群舞は民族の歴史や指導者の威光を讃える政治的表象の場面でしばしば用いられている。ここで舞踊は、モニュメンタルな出来事を集団的記憶として喚起したり、個人の記憶に植え付けたりする装置として期待されていると考えられる。最後にこの機能について、記憶のマルチプルトレースセオリーなどを援用して考察する。

福田 貴成
臨床の「聴取の技法」:間接聴診法の歴史における技術と身体の地位

聴診器 stethoscope 及びそれを用いた診断技法である間接聴診法 auscultation mediate は、19世紀における聴覚表象技術と認識とのかかわりを考察する上で、重要な位置を占めていると思われる。1810年代に生まれた聴診器は、医師と患者の身体とを「媒介」し、診断という名の認識を可能にするという点で、「メディア技術」の原初的形態のひとつであったと見なしうる。一方で、聴診器・間接聴診法誕生の時期はまた、今日的な聴覚メディア技術の基本的属性である、音響の記録・再生がいまだ不可能であった時期でもあり、およそ60年後、フォノグラフの名の下にエディソンによって実現されるが、そのことが、この器具・診断法にかかわる認識のあり方に、ある独特な様相を与えている。本発表では、聴診器・間接聴診法の確立者であるラエンネック(E. T. H. Laennec, 1781-1826)の業績以降、19世紀末葉までのその技術的・診断技法的変遷を、音響の記録・再生にかかわる工学史、及び音響の分析にかかわる音響学史との関連のなかに位置づけ、臨床のいわば「聴取の技法」が、聴覚メディア技術の進展との接続によって経ることになった変容の様相を明確化する。とりわけ、聴取する身体の地位、およびその身体が聴取する徴候の存在様態の変化とその意味を明らかにし、「聴くことの近代」を考察するためのひとつの視点を呈示したい。

三浦 哲哉
「サスペンス」と映画の自意識

本論考は、映画の表現形式としての「サスペンス」を対象とし、この形式が20世紀中葉におけるいわゆる「古典映画」から「現代映画」への移行においていかなる役割を果たしたかを考察する。 まず第一に、アルフレッド・ヒッチコックが1910年代以降ハリウッドで作られていた「古典映画」を飽和点に導き、フランスのヌーヴェル・ヴァーグに代表される批評家主導の「現代映画」を準備したという映画史的な見取り図を確認したうえで、形式としての「サスペンス」が、「古典映画」の臨界点を露呈させる内的な必然を有していたことを明らかにする。すなわち、1)空間と時間の分節化、イメージの因果的な構築において、「サスペンス」は常に「限界」と戯れ、「限界」を意識化させることで、映画をメタレベルに至らせる。今日作られる多くの映画がヒッチコックの模倣に見えてしまう理由もここにある。2)多くのヒッチコック作品には「観客の形象」が填め込まれているが(cf.『裏窓』)、「サスペンス」は観客の「心理」を係数として含みもつ形式であり、その限りで、「見る」行為を二重化させ、顕在化する。 以上を踏まえて、本論稿が最終的に提示するのは、ヒッチコックが完成させた「サスペンス」形式こそが「古典映画」を飽和させ、また映画理論史的観点からは、特に「観客論」の分野において、カテゴリーとしての「古典」を俯瞰しうる地点を準備したという見解である。

会場風景

斉藤 尚大

福田 貴成

三浦 哲哉

加治屋 健司