研究発表集会報告 パネル6

パネル6 「20世紀前半の政治―芸術運動」
報告 : 中島 隆博

11月19日(日) 13:30-16:10 研究講義棟214教室

パネル6 「20世紀前半の政治―芸術運動」

中国の"ローカルカラー"とシュルレアリズム:李仲生による1930年代東京でのシュルレアリスム絵画をめぐって/呉孟晋(東京大学大学院)
世紀転換期におけるアナキズム的なものの想像力の射程:エマ・ゴールドマンの軌跡/小田透(東京大学大学院)
気分というこの深い淵:ハイデガーに沿って/串田純一(東京大学大学院)
イタリア・ファシズムにおける文化政策のアポリア:ジョゼッペ・ボッタイと1920年代末の芸術論争/鯖江秀樹(京都大学大学院)

【司会】中島隆博(東京大学)

最初の発表は、呉孟晋(東京大学大学院)「中国の"ローカルカラー"とシュルレアリスム:李仲生による1930年代東京でのシュルレアリスム絵画をめぐって」であった。日本的シュルレアリスム受容に深く規定されたことで、李仲生のシュルレアリスム作品はブルトンというよりは、ドイツ新表現主義に連なるものとなった。しかし、同時に、日本的なシュルレアリスム作品が「絵画上の地方色彩」を持ち得た以上、その作品が「日本的」であればあるほど、「中国的」でなければならないという宿命を帯びてしまった。その作品が、「抽象の不在」もしくは「抽象の失敗」と評せられたのは、こうした背景があったからである。

会場からの質問は三つであった。

1)李仲生は、その同時代の中国人たちとどのようなネットワークを築いており、その関係は如何なるものであったのか。
2)シュルレアリスムが受容されたときには、写真という表現媒体も重要であったが、中国でのモダニズム絵画の展開と写真の展開はどのような関係にあったのか。
3)1930年代の日本における美術批評は、国策的な影を色濃くしていったが、その中にあって、李仲生はどう評価されたのか。

それに対する答えは次の通り。

1)日本独立美術協会にならって、中華独立美術協会が設立され、シュルレアリスム絵画を担っていたが、実際にはキュビズムを実践していた。このような動きがあったが、李仲生はそれとは独立に活動しており、二科展のような日本的な文脈で作品を発表していた。
2)モダニズム写真のために日本に留学した中国人はおそらく少ないであろう。しかし、日本人写真家が上海等で展覧会を開いており、そこから何らかの影響があったことはうかがえる。
3)李仲生は、キム・ハンギと同様に、日本人画家と同列に扱われていたために、国策的な批評の餌食にはならなかったが、それがかえって、日本への批判を弱めてしまったかもしれない。

最後に、司会者から、李仲生が目指したローカルカラーは具体的にはどのようなものであったかという質問があり、それに対しては、西洋でも日本でもない、中華民国のためのローカルカラーであったという答えであった。

二番目の発表は、小田透(東京大学大学院)「世紀転換期におけるアナキズム的なものの想像力の射程:エマ・ゴールドマンの軌跡」であった。この発表では、アナキズムが政治的な次元では、社会主義や共産主義と離れていき、最終的にはテロリズムと同一視されるような袋小路に陥ったと捉えた上で、しかし、アナキズムには別の未だ実現されなかった可能性としての、自由な結びつきによる共同性があったのではないかということを、政治的な次元とは別の、文学的な次元で回復しようとした。その際、米国のモダニズム文学雑誌を引き合いに出し、アナキズムが世紀転換期におけるヨーロッパ文化の継承であることを強調した。

会場からの質問とコメントは三つであった。

1)可能性としてのアナキズムを回復するときに読み直されたクロポトキンの相互扶助論には有機体の比喩がつきまとっているが、それはファシズムにも繋がるものものでもある。いったい、ファシズムに向かわずに、アナキズムの共同体論を救うにはどうすればよいのか。
2)エマ・ゴールドマンとフェミニズムの関係はどうなのか。社会主義の実現を先行させたために、フェミニズム運動は後回しになったが、1930年代にゴールドマンはフェミニズム運動に影響があったのか。
3)米国では、ホイットマンやエマソンのようにライフを強調する流れが別にあったが、その背景には文化的パトロンの資金援助があり、ゴールドマンもまたプロパガンティストとしてそのような文脈にあった。こうしたことが、等閑視されていないか。

それに対する答えは次の通り。

1)クロポトキンの場合は、有機体といっても、純粋に生物学的な比喩であるので、必ずしもそうした帰結になるわけではない。
2)ゴールドマンの影響力は急激になくなり、その後は忘れられた思想家となる。
3)コメントとして今後の課題にしたい。

三番目の発表は、串田純一(東京大学大学院)「気分というこの深い淵:ハイデガーに沿って」であった。この発表は、ハイデガーの「退屈」という「根本気分」を通じて、その感性論を扱いながら、最終的には「退屈」を扱うことができないという不可能性を呈示する。その上で、「ドイツ大学の自己主張」を位置づけなおし、さらにはベンヤミンのアウラ概念との通底性を検証しようとした。

会場と司会者からの質問とコメントは、次の三つであった。

1)ハイデガーの感性論を扱う場合に、感情と情態性を注意して区別しなければならないのではないか。
2)「気分というこの深い淵」を論じるのであれば、まず『存在と時間』の「不安」概念がどう設定されていて、それと「退屈」の関係を論じておかなければならないのではないか。聞いている限りでは、『存在と時間』の「不安」の構造が、「退屈」の構造を規定し続けているのではないか。
3)発表者の議論が成り立つためには、「不安」とは異なる「退屈」の構造そして、その上に展開する別の時間性が呈示されなければならない。そうしてはじめて、ベンヤミンのアウラ概念との対照や総長就任講演での過去への参照が意味をなすのではないか。

それに対する答えをまとめて述べるとおおむね次の通り。

不安と退屈は、前者がスパンの短い感情であるのに対して、後者はよりスパンの長い、深い情動性である。『存在と時間』とここで扱った『形而上学の根本諸概念』は、用語法も似通っており、別の問題系に属しているわけではない。しかし、「不安」に還元されない「退屈」の構造があり、それを理解しなければ、後のハイデガーの試み(ヘルダーリン読解等)も十分には掴めない。

最後の発表は、鯖江秀樹(京都大学大学院)「イタリア・ファシズムにおける文化政策のアポリア:ジョゼッペ・ボッタイと1920年代末の芸術論争」であった。この発表のポイントは、政治的にはファシズムを支持していたボッタイが、その文化政策において芸術の社会性を強調することで、結果的にはファシズムが称揚していた芸術とは別のものを擁護することになったこと、またボッタイと対極にあって反ファシズムを主張していたリオネロ・ヴェントゥーリが、「精神の表出」そして「プリミティブ」という芸術主張を通じて、かえってイタリアの伝統を回復し、ファシズム芸術の理論的基礎に接近してしまうというアイロニカルな交叉を指摘したところにある。

会場からの質問とコメントは次の四つである。

1)ボッタイの共同体国家構想は、資本主義でもなく、共産主義でもない共同性を模索したものだが、実はスターリズム期のソ連でも、そのような試みがあったのではないか。
2)未来派とりわけ第二未来派のフィリア(ルイジ・コロンボ)のような画家とヴェントゥーリの関係はどうであるのか。
3)ボッタイによる有機体的共同体論は、それは他国(たとえばフランス)でもやはり同じように論じられていたのではないか。
4)ボッタイとヴェントゥーリを鏡像関係において、反ファシズムがファシズムになり、その逆も同様というのはあまりに凡庸な図式ではないか。

それに対する答えは、次の通り。

1)今後の研究に待ちたい。
2)フィリアはトリノを中心に活躍したわけだが、ヴェントゥーリもまたトリノである。詳細な検討を行いたい。
3)有機体論全般に解消されない、ボッタイにとってのイタリア的モデルは何かを突き詰めなければならない。
4)今後の課題にしたい。

最後に、四人の意欲的な発表を通じて、1920年代から30年代にかけて、芸術と政治に関する問題系が、地域的な隔たりにもかかわらず、かなりの程度、同時代的に共有されていたことが再確認できたことを喜びたい。

中島 隆博

中国の"ローカルカラー"とシュルレアリズム:李仲生による1930年代東京でのシュルレアリスム絵画をめぐって
呉 孟晋

本報告の狙いは、中国・広東出身で1949年に台湾に移った李仲生(1912-1984)が1930年代の東京で制作したシュルレアリスム絵画を手がかりに、20世紀中国でのモダニズム絵画運動の再検討を目指すことにある。李仲生は渡台直後から数年間、台湾で精力的に前衛的な絵画を提唱しており、誤解を恐れずに喩えるならば、岡本太郎ばりの大衆向けパフォーマンス精神と具体美術協会で若手美術家を統率した吉原治良の指導力をあわせもった画家であった。これまでの台湾での李仲生研究は後年の抽象表現主義的な作品への考察が中心であるが、李の芸術観をたどるうえで30年代の作品群は現存しないものの不可避の命題である。報告者は、まず、当時の雑誌記事や写真図版などから李のシュルレアリスム理解のなかに、日本で初めてシュルレアリスム絵画を紹介した美術評論家・外山卯三郎の影響を指摘する。そして、東京で師事した藤田嗣治や東郷青児、阿部金剛ら二科会に終結した画家たちの作品と李本人の後期現存作品への分析をもとに、李のシュルレアリスム作品はブルトンの説くそれではなく、ドイツの新表現主義に連なる魔術的リアリズムを継承したものであったことを示したい。李仲生は本来コスモポリタンな性格をもつシュルレアリスムに中国の独自性を主張していた。こうした意図的な「誤読」がどのように近現代中国の美術運動を牽引する原動力となったのか、その一事例を明らかにしたい。

世紀転換期におけるアナキズム的なものの想像力の射程:エマ・ゴールドマンの軌跡
小田 透

19世紀末、西洋社会は転換期にあった。近代国家システムが構築され、市場経済が世を席巻しつつあり、退化論などの終末論が流行していた。しかしその裏では、袋小路へ向かう社会を変革しようとする思想や運動が渦巻いていた。そのひとつにアナキズムを挙げることができよう。本発表ではロシアに生まれ、移民として渡米し、アメリカでアナキストとして自己形成を果たしたエマ・ゴールドマン(1869-1940)の歩みを範例的に読み解き、世紀末を俯瞰するためのパースペクティヴの提示を試みる。まずは当時におけるアナキズムの射程を多角的に捉える必要がある。世紀末アナキズムは暗殺テロリズムからの転換であり、見境のない暴力性への反省であった。だがそれは自画像であり、国家の描く肖像画はむしろ社会における敵対異分子というイメージであった。しかしアナキズムの磁場に引きこまれた言説は政治経済的なものをはみ出し、もっと包括的な文化的領域へ拡がっていた。いかなる社会像を思い描くかの想像力の問題が争点だったのである。アナキズムを基点としてそのようなパースペクティヴを想定するならば、世紀末におけるユートピア思想やコミュニズム的なものは複数的な可能性だったのであり、そこではオルタナティヴな可能性への希求が共有されていたことが明らかになるだろう。世紀末を絶望と否定性に横切られた希望と肯定性の時代として語ることが可能になるはずである。

気分というこの深い淵:ハイデガーに沿って
串田 純一

 私たち全てにとって極めて身近で重要であるにもかかわらず、いわゆる学問的方法の適用が著しく遅れている現象として、感情、気分、情動などと呼ばれる一群の事象領域がある(いま仮にこれを感・気・情と総称しておく)。ハイデガーは既に『存在と時間』において、了解・語りと並ぶ現存在の根本規定の一つとして「情態性(Befindlichkeit)」を取り出しており、これは彼の哲学の革新性の一端を示すものであるにもかかわらず、従来十分な注意を払われてきたとは言い難い。この問題が最も大規模に扱われるのは1929年度冬学期の講義『形而上学の根本諸概念』であるが、そこでハイデガーは、感・気・情を何らかの理論や体系によって記述・説明しようとするのではなく、そもそも哲学は一つの根本気分において生起するものであり、第一に必要なのは、我々の根本気分を呼び覚ますことだという。そして彼によると、その我々の哲学することの根本気分とは「深い退屈」である。本発表では、このハイデガーの議論を逐次追って紹介すると共に、それが最終的に或る先鋭なアポリアへと行き着いてしまうことを示す。ハイデガーのいわゆる「転回」はこの難局からの撤退としても解釈できるのであるが、私たちはむしろこの困難に粘り強く留まり、感・気・情を学問的に取り扱う方法と環境の整備に努めるべきではないのか、と主張してみたい。

イタリア・ファシズムにおける文化政策のアポリア:ジョゼッペ・ボッタイと1920年代末の芸術論争
鯖江 秀樹

近年、プロパガンダや抑圧、大衆の同意獲得といった用語では捉えきれない、イタリア・ファシズム文化の多様性が指摘されている。しかしそれは、傾向の異なる芸術・思想の潮流の折衷として形成されたのではなく、その時々の逼迫した状況で下された決断の集積あるいはその帰結として成立している。ジュゼッペ・ボッタイ(1895-1959)は、この決断に貢献し、全体主義国家における芸術の重要性を擁護した体制側の為政者である。彼が『クリティカ・ファシスタ』誌上で展開した文化論は、以下の二つの問題点に貫かれている。第一に、ロマン主義以降の近代芸術が伴う「悪趣味な顕れ」(断片趣味、非人間化、デカダンスなど)と、「生の永続的な流れ」である古典的伝統とをいかに共存させるか。第二に、政治と平行関係にある芸術をいかに活動状態(in azione)にとどめおくか、という二点である。こうした矛盾を孕むボッタイの文化構想は、当時の芸術・文化の顕れに大きく作用している。発表者は、ボッタイ主導の芸術論争が激しさを増す1927年から29年に考察時期を絞り、彼の文化構想とローマを中心とする芸術環境との複雑な絡み合いを分析する。ただし合理主義建築やノヴェチェント派の作品分析ではなく、伝統や古典的なものが芸術論争の中でいかに解釈されたかという美学的問題に力点を置いて報告する。従来とは別の切り口からイタリア・ファシズム文化の多元性を提示し、その意義を再検討することが今回の発表の目的である。

会場風景

呉 孟晋

小田 透

串田 純一

鯖江 秀樹