研究発表集会報告 パネル3

パネル3 「表象と/の哲学」
報告 : 小林 康夫

11月19日(日) 10:30-12:30 研究講義棟214教室

パネル3 「表象と/の哲学」

ジル・ドゥルーズの芸術論における「プラン」概念について/石岡良治(東京大学大学院)
論述の二つの体制:デカルトとスピノザ/國分功一郎(東京大学21世紀COEプログラム「共生のための国際哲学交流センター」研究拠点形成特任研究員)
「表象」への懐疑:ラランド『哲学辞典』とベルクソン/星野太(東京大学大学院)

【司会】小林康夫(東京大学)

このパネルは、「表象」概念の批判的考察に集中したと言ってよいだろう。朝早くからほぼ満員の聴衆を集めて熱気のある発表・討論が行われた。冒頭、司会より、学会発表という性格上、時間厳守がルールであることをあえて申し上げ、その通りに行われたことを強調しておきたい。

あえてひと言述べておくと、学会発表においてはその形式的な要件が重要な意味を持つ。レジュメや資料を用意し、引用箇所が聴衆にも明確に伝わる努力は必須であろう。ハンドアウトがないということはほとんど考えられない(場合によっては原文テクストを明示する義務もある)。その意味では、このパネルでは修士課程の学生でありながら星野太さんの発表は模範的なものであった。司会かつ学会企画委員長としてあえて付記して大方の注意を喚起したい。

発表の最初は石岡良治さんの「ジル・ドゥルーズの芸術論における『プラン』概念について」――ドゥルーズ哲学における「プラン」という概念の展開をとりわけ映画論における「ショット」の多様的な統一の記述に即して具体的に追うという論旨であったと思う。いくつかの映画作品の実例を映写しながらの説明はよく整理されていたが、ドゥルーズ哲学の「解説」に終始したのではないか、という疑問は残った。

次いで國分功一郎さんの「論述の二つの体制:デカルトとスピノザ」――30分という時間の枠のなかでは整理しきれない大きな問題をエスキスしたとも言える。しかし、デカルトの『方法序説』は物語的な「論述」で「表象」的であり、他方、スピノザの『知性改善論』は「表象」的ではないとした上で、それ故にスピノザの場合は、「真理が著作の中に生成し、現前することをもくろむ」「現前」の体制であるという論理展開は、かなり荒っぽい二元対立論で、聴衆からの熱い反発を、とりわけデカルトの取り扱いに関して、引き出した。この観点から見たときスピノザ哲学がどのような新しい解釈を受けるかというところに論が及ばず、デカルとスピノザの対立図式だけが際だつところに難点があったが、学会らしい白熱した議論になったところはよかったと言うべきかもしれない。

最後の星野太さんの「『表象への懐疑』:ラランド『哲学辞典』とベルクソン」――すでに述べたように、発表としてはよくまとまっていた。「表象」 representation という概念がかならずしも「再―現前」の意味ではなく、「再―」とは異なって、むしろ「主体と客体との対立」を徴づけているとするベルクソン―ラランドの議論の展開をテクストを追って跡づけた発表であった。ベルクソンの「イマージュ」概念と「表象」概念との錯綜する関係が浮かびあがってきたところが収穫であると言える。学会のスタートにあたって、思い出しておくべき重要事が提起されたと受けとめられよう。

(以上のまとめと評はあくまでも司会個人のものである。発表者の反論もありうると思うが、司会とは、そのような個人的な要約と評を学会から負託されたものでもあるとわたしは思う。批評の可能性をはじめから放棄した「愛想のよさ」は学会にはいらないというのがわたしの考えである。)

小林 康夫

「ジル・ドゥルーズの芸術論における「プラン」概念について」
石岡 良治

ジル・ドゥルーズにとって芸術は、科学と共に、哲学的思考に関わる重要な活動であり、独自の位置付けがなされている。フェリックス・ガタリとの共著『哲学とは何か』によれば、これら諸活動はそれぞれの「平面」を形成する。哲学の「内在平面」、科学の「準拠平面」に対して、芸術は「合成=創作平面(plan de composition)」に関わっており、芸術作品はそこで、音や色彩、言葉といった素材を用いて、被知覚態(percept)や変様態(affect)からなる感覚のブロックを打ち立てる。だが他方で、ドゥルーズの芸術論において「平面=プラン(plan)」は、以上のような共通規定のみならず、具体的な規定を有している。その興味深い事例として、『シネマ:運動=イメージ』における「シークエンス・ショット」をめぐる議論が挙げられよう。ここでドゥルーズは映画における「被写体深度」の問題を論じつつ、ハインリヒ・ヴェルフリンの絵画論における「平面性と深奥性」の分析を参照している。このような絵画論の映画への適用は、フランス語における「プラン」が映画の「ショット」をも意味することに由来しており、一見すると恣意的な印象を与えるものとなっている。だが本発表では、むしろ「プラン」概念にみられるような様々なレベルの議論の交錯こそが、ドゥルーズにおける芸術と思考の関係の規定にとって積極的な重要性を持つことを示したい。

「論述の二つの体制:デカルトとスピノザ」
國分 功一郎

デカルトの『方法序説』とスピノザの『知性改善論』はどちらも17世紀を代表する方法論であることから比較されることが多い。内容も驚くほどに一致する。『方法序説』は著者の修業時代の経験から語り起こされているが、『知性改善論』の冒頭に書かれているのも著者の経験である。その後で真理探究の決意を語るところ、真理発見までの暫定的生活規則を立てるところも同じだ。 だが、興味深いのは、一致の後に訪れる不一致である。デカルトは、決意を述べた後、自らが行った真理の発見の瞬間を語る。ところが、スピノザは、決意を述べた後、いつまでたっても真理の発見の瞬間を語らない。それをはぐらかす表現が現れ、なし崩しで議論が続く。 デカルトはかつて現前(present)した探求なり真理なりを、著作に再=現前(re-presente)しているのであり、その意味で、『方法序説』の論述の体制を、表象(representation)の体制と呼ぶことができる。対し、スピノザはおそらく真理を表象の対象と見なすのを拒むが故に、真理の発見の瞬間について語らない。スピノザは、真理が著作の中に生成し、現前することを目論んでいるのであって、その意味で、彼の目指す論述の体制を、現前(presentation)の体制と呼ぶことができる。 本発表は、この仮説をもとにして真理と表象の関係を論じるとともに、論述の体制というテーマを立てることの意味について考える。

「「表象」への懐疑:ラランド『哲学辞典』とベルクソン」
星野 太

フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859‐1941)は、『フランス哲学会誌』に掲載された1901年の会議録において、フランス語における哲学用語としての「表象」の曖昧さを指摘している。このベルクソンの発言によれば、当時の「表象」(representation)という言葉はしばしば「精神にはじめて呈示された知的対象を指すもの」としても用いられていた。この事実は、歴史的に見ればヴォルフやライプニッツがラテン語の perceptioのドイツ語訳として「表象」(Vorstellung)という語を当てたことの影響であると考えることができる。だがベルクソンはまさにここで、そうした曖昧さを払拭し、「純粋かつ端的に精神に対して呈示されたあらゆるものを一般的な仕方で指し示すために」、心理学の用語である「presentationという語を導入する」必要性を強調する。ここには、「現前(プレザンタシオン)」に対して「表象=再現前(ルプレザンタシオン)」を下位に置く思考の萌芽を見ることができるだろう。ただし一方で、ベルクソンは「表象」という言葉における「re」という接頭辞が、元来「複製的な」価値を持っていたという考え方には懐疑的だった。本発表では、比較的注目されることの少ないこのベルクソンの発言を手がかりとして、20世紀初頭のフランスにおける「表象」の概念に新たな光を当てることを試みたい。

会場風景

石岡 良治

國分 功一郎

星野 太

小林 康夫