第3回研究発表集会報告 研究発表3

11月15日(土) 14:00-16:00 18号館4階コラボレーションルーム3

研究発表3:メタファー/メディアの知覚と政治

アーレント『精神の生活』三部作における「存在」と「隠喩」の問題
溝口万子(立命館大学)

映画的知覚の論理——西田幾多郎における叡智的自己
小田桐拓志(スタンフォード大学)

E・ユンガーと複製技術をめぐって
大泉大(早稲田大学)

【司会】森田團(東京大学)


セッション3は「メタファー/メディアの知覚と政治」と題され、三つの発表が行なわれた。

溝口万子(立命館大学)さんは、『精神の生活』がカントの三批判の独特な読み直しであり、そこで中心を形成するのは、アーレントの著作においては必ずしも前景化していない崇高の概念であるという見通しのもと、『精神の生活』の読解を試みた。発表では読解の方法論的アプローチについての議論に時間がさかれ、読解そのものが充分に展開されたわけではなかったが、誤解を怖れず言えば、溝口さんは、アーレントの試みがカントを歴史哲学として読み替えるものであり、その軸になるのが構想力の論理であると主張しているように映った。それ自体は非常に可能性のある読解の方向性だと思う。

小田桐拓志(スタンフォード大学)さんは、『一般者の自覚的体系』の一論文「叡智的世界」において鍵概念となる「叡智的自己」の概念の分析を、ベルクソンの「映画的知覚」の概念を参照しながら解明しようと試みた。ほかの西田の概念同様、多くの矛盾と齟齬を孕む「叡知的自己」であるが、小田桐さんは、西田読解の困難を正面から受け止め、諸概念やテクストに含まれる齟齬をも包括するような視点から西田を解釈するためには、通常の哲学的な前提的知識を一度括弧に括ったうえで、逆説的にももう一度西田を哲学史から読み直すことを試みたと言えるかもしれない。このような西田読解は精密なテクストの検討が必要となろうが、発表では読解の見取り図と解釈の方向性は明快に示していたものの、具体的にテクストを分析するまでには至らなかったことが残念であった。もちろん、時間的な制約という問題などもあった。具体的な展開が論文として結実することを期待したい。

大泉大(早稲田大学)さんは、ユンガーの思想のフォーマットを明快に示しながら、そこにおいて写真というメディアがいかなる役割を担ったかを論じた。ユンガーにとっては労働者としての個体ないしはその集合としての大衆をいかに「動員」し、ひとつのタイプに、ひとつのゲシュタルトに統合するのかという手段への問い(=技術への問い)に、写真、具体的に言えば写真集の編集という実践は関わっていると大泉さんは主張していた。このような問いは、20世紀初頭の思想に共通のものであり(たとえばナチは「民族」のもとに大衆を統合しようとした)、タイプの生存の仕方と、タイプへの統合の仕方の分析において、ユンガーの写真に注目したことは、発表者のオリジナルな功績であった。

「メタファー/メディアの知覚と政治」と題されたセッションだったが問題となったのはむしろ知覚と政治を媒介するメディウムであったと言うべきだろう。それは技術であり、想像力である。このメディウムの機能と歴史の分析を深めることは表象文化論にふさわしい課題であるように思われる。

溝口 万子

小田桐 拓志

大泉 大

森田 團


森田團(東京大学)

発表概要

アーレント『精神の生活』三部作における「存在」と「隠喩」の問題
溝口 万子

アーレントの著作には矛盾が散見されるということは、しばしば指摘されている。アーレントの『精神の生活』三部作(『精神の生活』第1部・第2部、『カント政治哲学の講義』)は、カントの三批判をモデルとしているが、カントが『純粋理性批判』で扱ったアンチノミー論は、真理の最高決定機関であるはずの理性が、「極限」をテーマにしたさいに陥る弁証性(自己矛盾)を指摘するものであった。ここでは、「極限」をテーマに対立する2つの命題の、対立それ自体が仮象矛盾であることが示され、アンチノミーの解決が導かれることとなる。ここでこの解決は、単に肯定判断(Aである)/否定判断(Aでない)の、対立する2つの判断を論理的に反省することで成立するのではない。現象の実在性を考慮に入れること(超越論的反省)により成立するのである。石川文康によれば、カントのこの解決には、カントが判断表の「質」の項で示した無限判断(非A〔Aでない何か〕である)が介在する。

ところで、ハイデガーは『物への問い』で、カントの「質」のカテゴリーにおける「知覚の予料(先取的認識)」をカントにおけるコギトの出現それ自体(それ以前)の原初的な条件であるとみなした。本発表では、この「知覚の予料」、及びこれに関連する無限判断に注目することで、『精神の生活』三部作における「極限」と矛盾に目をやりながら、アーレントがこの著作で重要視する隠喩の問題を考えたい。

映画的知覚の論理——西田幾多郎における叡智的自己
小田桐 拓志

西田は「叡智的世界」の中で、判断的、自覚的、叡智的という三種の一般者を区別しているが、中でとりわけ知的叡智的自己とその世界は、どのような現象的事実を表現しているのであろうか。判断的自己の世界が抽象的(論理)判断を、自覚的自己の世界が知覚ないし自己意識をそれぞれ論理化しようとしたものとすると、叡智的世界は道徳的ないし美的な経験の一般的性格を記述したものであると言える。それを一言で特徴づけると、単なる認識論的な体験世界でなく、「悩める自己」「迷える自己」を記述する世界であるとも言える。自己省察(self-reflection)はつねに可謬的(fallible)であるので、我々の(道徳的ないし美的な)意識は単なる自覚として限定的に把握できない。それ故、我々はつねに「迷える」存在であるのである。つまり、叡智的自己はその可謬性(fallibility)と非限定性(openness)において特徴づけられる。しかしさらに、西田は後にそうした叡智的自己の体験をたえず「変ずるもの」ないし「運動」として論じなおしている(『哲学の根本問題』)。ベルグソンが、『創造的進化』の中で映画的知覚体験を幻想(cinematographic illusion)と呼んで批判したのは、運動知覚の緊密な統一性を把握しようとしたからである。西田の「運動」概念は、運動知覚を可謬的で非限定的なものとして理解しようとした点で、ベルグソンがむしろ否定した映画的知覚の論理そのものである。それはやはり知的叡智的自己の道徳的ないし美的性格と共通する面があるのである。

E・ユンガーと複製技術をめぐって
大泉大

エルンスト・ユンガー(1895-1998)は、『労働者』(1932)において生と技術との新たな関係が開示する現実を技術による世界の動員と名付けた。ユンガーはこの表現を同時に進行する2つの事態をあらわにするために使用しているように思われる。すなわち、一方で技術によって生が均質化され動員=可動化(mobil machen)されること、他方で一元的になった生が技術によって自らを動員=可動化し、多様化していくこと。ユンガーが前者をニヒリズムの完成形と認識しながら総動員を肯定したのは、後者の側面を見逃さなかったからではないだろうか。このように生を可動化すると解された技術には複製技術も含まれ論じられている。だがユンガーはベンヤミンのように複製技術論に取り組むことはなかった。理論を実践へと移したかのように彼がなしたのは、写真を動員すること、つまり写真集の編集であった。彼が関わった写真集は1930年前後に5冊出版された。さまざまな事故写真とその報告を組み合わせた『危険な瞬間』(1931)を除くと、それらは明白なプロパガンダとみなすことのできる極めて「実践的」な書である。特に「古い」西洋と「新たな」西洋との姿を並べそれぞれにキャプションやコメントを付した『変貌した世界』(1933)は『労働者』の可視化とも考えられる。本発表で私は、ユンガーの複製技術への取り組みを総動員と関連付けそれがどのような内実をもつかを、芸術の政治化を主張したベンヤミンとの比較も行いながら、考えたい。