シンポジウム 「世界」を引き受ける詩人・吉増剛造
日時:2024年7月6日(土)13:30-16:15
司会 柳澤田実(関西学院大学)
今年の夏は例年と比べてもひときわ暑かったが、夏の記憶には、いつも時間を超えているかのようなカイロス的な感触がある。詩人の吉増剛造を招いて行ったシンポジウム当日の、どの時間にも属し得ないような鮮烈な記憶を辿っていると、その作業自体が吉増の詩作に連なっていくような不思議な感覚に襲われる。思えば企画段階から、登壇者が吉増の作品を分析するよりも、吉増の詩作/思索に連なる形で自身の思考を展開するのが最良に思われた。元より企画者である筆者自身が、詩や文学の専門家ではなく、芸術、あるいはより大きな「体験」として吉増剛造の詩や朗読に圧倒されてきたことも理由なのだが、それ以上に、常に現在進行形の吉増の詩作/思索のどこかを取り出し解析することは難しく、少々不自然にも思われたのだ。このような考えから、今回のシンポジウムは、吉増剛造の現在進行形の詩作/思索に対峙し、登壇者がそれぞれの専門的立場から思考をつなぎ、延長し、展開していくような形で構成された。
シンポジウムは吉増剛造の語りと朗読から始まった。今回のシンポジウム以前に、吉増は、今年の初めから慶應義塾大学のアートセンターの依頼もあって土方巽の再読を始め、すでに様々な機会に土方について語ってきたこと、そして今回のシンポジウムに当たっては土方のテキスト『病める舞姫』を二十日間かけて精読してきたことを説明した。精読の過程で原稿用紙にびっしりと書き込まれた手書きのテキストの複写が、当日の聴衆たちには配布された。『病める舞姫』の再読のなかで、土方巽が亡くなった際に香典返しとしてもらったEPレコードの冒頭で土方が語っている言葉(「ジュースばっかり飲んでるでしょ…さみしネくてね」(ネは東北弁の言い回し))がカフカの『断食芸人』に接続されたと言う。舞踏のために肉体を削ぎ落としていた土方は、まさに断食芸人だったということだ。断食芸人としての土方による幻視(「死んだ者に殴られてるような姿で」柿や梨を食べる人たち、椀の中の蛾、子供の頭のようなスイカ)を通じて、吉増は、土方と同様に「孤独に澄んだ耳の力」を持つ者として、夏目漱石の『硝子戸の中』を再読して見せた。共に大人たちに放置され、不機嫌な赤ん坊だった土方、漱石(そしておそらくカフカや吉増も)が、文学、舞踏などと分類できる事柄よりずっと手前にある、深い暗がり(昏がり)を見、聞き、それを書いた。「世界と自分の命」の接点を模索せざるを得ない孤高の営みについての吉増の話は、最後に、吉増の代表作の一つ「古代天文台」の朗読で締められた。
続いて、登壇者三名のプレゼンテーションが行われた。最初の登壇者、日本近代文学を専門とする坂口周は、吉増の作品のどこに「宇宙」を見るのか、梶井基次郎の「人生」「宇宙」「世界」の区別に基づきつつ論じた。「世界」が自己から切り離されたレイヤー状のものだとすると、「宇宙」は想像の限界に触れる経験のなかで立ち現れる。そして、吉増の詩は、「世界」の生成を見せ、「宇宙」から「世界」が析出されるプロセスを記しているという意味で、「宇宙的」だと坂口は言う。また坂口は、「世界」の多層性を描くテキストとして漱石の『虞美人草』を引くと同時に、土方の『病める舞姫』の中の自己と分離する「身体」もまた「世界」そのものであり、これが「皮膜/レイヤー」となって自由に運動していく様が書き記されている点で、吉増の詩と共鳴することを示した。「おばあさんはペーパー(紙)」、だから「1枚、2枚と数えたい」と語った土方は、限りなく「物」になった身体を目指したが、この「身体=世界」とは、吉増が示唆した「断食芸人」の極限まで痩せ細った身体とまさに同じものではないか、と吉増の冒頭の語りに応答した。
宗教学を専門とする柳澤(筆者)は、大野一雄を媒介に、福音書に描かれたイエスの「救い」の場面が、身振り一つ、言葉一つで状況を転換すると言う意味で、非常に舞踏的であること、また吉増が『詩とは何か』の中で、自分の詩作の特徴としたネガティブ・ケイパビリティーを共有していることを示した。芸術も宗教もその根本においては、共に受動性や消極性を支点に、その瞬間まで存在していなかった世界、宇宙を立ち上げる実践、換言するならば「今、ここから始める」実践だと柳澤は仮に定義する。キリスト教は近世以降「今、ここから始める」実践ではなく「存在していたはずの何かを取り戻す」懐古的運動になり、現在再びその傾向が強くなっている(トランプ支持のアメリカのキリスト教右派もその一部だ)。これと同様の現象が、昨今の現代美術やカルチャーの領域で見られる。吉増や土方のような即興的実践が希少になり、より社会的な文脈や文字通りの表象に依拠した作品が増えていることはまさにその証左だろう。「今、ここから(世界/宇宙を)始める」ことを、今日、私たちはいかにして信じることができるのかという問題提起で、発表は締めくくられた。
最後の発表では、人類学を専門とする相田が、吉増のパフォーマンスに共鳴するものとしてピエール・クラストルの「弓と籠」の一節を紹介した。クラストルはこのエッセイのなかで、グアヤキルの男たちの唄を取り上げ、一妻多夫社会に従属する男たちが夜間に自分のためだけの歌を独唱することに注目する。誰も聞いていないにもかかわらず、それは単なる叫びではなく歌になっている。ここから相田は、音楽=芸術というものは、人を繋ぐだけではなくむしろ積極的に孤独になるためにも存在しており、それは言葉としての形態を保つ必要があると述べる。相田はこうした言葉としての形態をかろうじて保つ「ひとりの人がひとりの人であるための」言葉に芸術の起源を見出し、それを吉増の詩と接続した。他方でバブル崩壊後、特に東日本大震災後の日本では、失われていく人々の繋がりを補填するために過剰に「絆」が推奨され、そのために芸術の貢献を求める風潮もある。繋がりへの寄与を求められる詩の言葉はどこに踏みとどまるべきなのか、あるいはもっと先に行くことができるのか。今日的の社会状況の中での詩的言語の条件への問いかけをもって、発表は締められた。
その後、残された短い時間の中で、吉増が三つのプレゼンテーションに言及しながら幾つか質問に応えた。最も印象的だったのは、震災を詩にすることの困難さについてである。東日本大震災で壊滅的な津波による被害を受けた大川小学校の赤いランドセルが、自分の思考を止めてしまうと吉増は語った。これを詩にするために必要なのは、漱石や土方のように「24時間四六時中不機嫌」である「才能」だが、これが自分にはなかったと吉増は語ったが、この場で語り出された一連の逡巡のなかには間違いなく「詩」としか呼び得ないものが表出していた。
シンポジウム概要