第2回研究発表集会報告 研究発表4

11月18日(日) 10:30-12:30 18号館4階コラボレーションルーム3

研究発表4:映画とその形式

破滅の悦楽、まなざしの倒錯――ジャンル映画“disaster films”の変遷をめぐって 石橋今日美(東京芸術大学)

自由、サスペンス、予定調和――サスペンス作家としてのロベール・ブレッソン
三浦哲哉(東京大学大学院)

イマジナルな世界――アッバス・キアロスタミ 「Looking at Ta‘ziyeh」
山本久美子(東京大学)

【司会】中村秀之(立教大学)


本パネル「映画とその形式」では、中村秀之(立教大学)を司会に招き、石橋今日美(東京芸術大学)、三浦哲哉(東京大学・院)、山本久美子(東京大学)による発表が行われた。

まず、石橋今日美による「破滅の悦楽、まなざしの倒錯」と題された発表は、70年代と90年代に量産された「パニック映画disaster films」がいかなる形でカタストロフを映像化してきたかを比較した上で、「9.11」を記録した現実の映像が、映画が表象し得るカタストロフを凌駕してしまい、爾後のパニック映画の表現を一変させたのだ、と結論付けるものであった。

続く三浦哲哉の発表「自由、サスペンス、予定調和」では、ロベール・ブレッソンの映画に見られるパスカルの受肉説の影響を、『シネマトグラフ覚書』と『パンセ』の引用を並列させることで具体的に裏づけを行いながら、パスカルの思想がブレッソンの演出理念(演出しないという演出)に結びついていることが示された。さらにブレッソン作品をナラティヴに還元することなく飽くまで映像分析を徹底させることで、スクリーンに映し出された身体が「ゼロ記号=純粋な媒介」として機能していることが明らかにされた。

最後の山本久美子による発表は、キアロスタミの映像作品『Looking at Taziyeh(タアズィーエを見る)』を取り上げて、イメージそのものよりも、それを見る「視線」を露呈させるこの作品の仕掛けと宗教的含意を分析したものであった。タアズィーエとは、イスラム・シーア派の受難劇で、反復される宗教儀式でもある。

体制を維持するためにヒステリックに外部=敵を創出する合衆国と、目下その標的となっているイスラム文化圏、連綿と継承されているフランスのカトリシズム。各々のお国柄が、「映画の形式」をとって露呈していた。三者の発表が補完し合うかたちで、このパネルは終了した。

石橋 今日美

三浦 哲哉

中村 秀之


井上康彦(東京芸術大学)


発表概要

破滅の悦楽、まなざしの倒錯――ジャンル映画“disaster films”の変遷をめぐって
石橋今日美

文化的・歴史的背景の違いを超えて、世界中の人々が現実逃避できる作品を量産する力を持つハリウッド映画。だが「夢の工場」という通称に一見矛盾した事象を描くジャンルが存在する。”disaster films”(パニック映画)だ。本用語は広義には災害や疫病、宇宙人等のSF的要素が原因で、作品世界または全人類の生命が破滅に向かい、救世主的存在がその阻止に奮闘する作品群を指す。パニック映画は、特に70年代前半、90年代後半に多数制作され、米同時多発テロ事件による倫理的沈黙の後、再興し、常に米映画産業に記録的な興行収入をもたらすジャンルとして定着している。が、各作品の一大危機の表象は、国際的な政治・経済情勢と映画制作技術の進化の直接的影響を受け、時代を通して変動してきた。本発表では、パニック映画史のメルクマールとなる上記の3つの時期に象徴的な作品を取り上げ、制作当時の社会的文脈も含め、以下の点の分析・考察を通じて、ジャンルの変遷を明らかにしてゆく:1)物語構造、2)作品世界の時空間性、3)実写とデジタル映像技術による大災害のスペクタクル化の差異。本発表はまた、ジャンル映画の歴史的軌跡の素描にとどまらず、現実にあり得ない現象を画面上に実現してしまうデジタル映像の特徴と、メディア論との関連において、虚構の世界の表象システムと我々を取り巻く今日の世界のあり方の危うい接近性を提示することを目指す。

自由、サスペンス、予定調和――サスペンス作家としてのロベール・ブレッソン
三浦哲哉

この発表の目的は、フランスの映画監督ロベール・ブレッソンを、「禁欲的な表現に終止した宗教作家」という一般に流布したレッテルに抗い、ひとりのサスペンス作家として捉え、彼のサスペンスをめぐる思考を、従来のサスペンス映画論との距離において評定することにある。まず端的にのべて、処女長編作品『罪の天使たち』から遺作『ラルジャン』に至るまで、ブレッソンのフィルムは常にダブル・アイデンティティーの主題、罠の主題という極めてサスペンス的な形式で充たされ、活気づけられてきた事実がある。これら形式がどのように演出、構成されてきたのかが具体例に即して分析される。そして彼のフィルムでカトリシズムが問題になるとしてもそれは聖人たちをめぐる物語的主題の水準であるよりも、むしろサスペンスの構成の水準においてであることを示したい。次に、想定された情報の全体の一部分を隠し、遅れて提示すること(retardation)で観客を未知の状態に置くことという古典的なサスペンス論がある一方で、ブレッソンは全体なるものが与えられえないこと、むしろそれがフィルムの進展とともに常に変形を余儀なくすされるような形式をこそサスペンスとして捉え、実践していたことを示した上で、最終的には、こうしたブレッソンの思考に拠って立つことで開かれうる新たなサスペンス映画論の可能性を提示したい。

イマジナルな世界――アッバス・キアロスタミ 「Looking at Ta‘ziyeh」
山本久美子

アッバス・キアロスタミの「Looking at Ta‘ziyeh」は、三面のスクリーンを配置した大掛かりなフィルム・パフォーマンスである。中央のスクリーンには、シーア派(十二イマーム派)イスラームの殉教劇の映像、左右の画面には、それを見つめる男女の観客の様子が映し出される。本発表はこの特異な装置が提起する以下の三つの問題系を考察する。(1)イスラームと演劇的表象:イスラーム世界における唯一の伝統演劇としてのターズィーエに内在的な諸問題を検討する(イスラームと演劇的表象の関係、西欧のリアリズム演劇の影響により本来の「ポストモダン」的特性が逆に「モダン」に逆行するという特異な経緯、プロパガンダとしての殉教劇)。(2)視線の非対称性:キアロスタミ作品における「Looking at Ta‘ziyeh」の位置づけ、とくにその顕著な傾向である非対称的な視線と対象の関係性をパフォーマンスの構造に照らして読み解く。(3)イマジナルな世界:このように伝統演劇と映画が重層的に交錯するパフォーマンスを観客の観点から検証し、そこに立ち上がる「イマジナルな世界」――イスラーム哲学における神的領域と現実界の中間領域に措定される天使の世界――と映画の関係を論じる。