新刊紹介

小山 太一(訳)
イアン・マキューアン『土曜日』
新潮社、2007年12月

二〇〇三年二月十五日。米英軍のイラク攻撃に反対する巨大デモがロンドンで行なわれる予定の日。未明、時ならぬ目覚めを迎えた脳神経外科医のヘンリー・ペロウンが見たものは、エンジンから火を噴きながらヒースローの方角へと飛んでゆく飛行機だった。これはテロなのか。テロだとしても、自分が打てる手は今のところ存在しない……。

不穏な幕開けを迎えたペロウンの一日は、デモ参加者たちでごった返すロンドンの街路と同じく、息が詰まるほどの密度を持っている。交通事故、同僚との熾烈かつ無意味な争い、痴呆症によって崩壊した母親の精神、イラク攻撃をめぐる娘とのちぐはぐな激論、一触即発の一族再会とおぞましい恐怖体験。それらすべてに覆いかぶさる底知れぬ倦怠と衰弱感、そして人生と仕事への執着。あくまで明晰でありながら執拗なまでの蛇行・旋回感覚を持った現在形の語りが、読者をめまいへと引き込んでゆく。

『土曜日』は、英国の読書界に猛烈な賞賛と反発の渦を巻き起こした問題作。好景気に沸く現代英国で知的職業人として成功し、愛する妻と子供たちに恵まれたペロウンの姿は「満足しきって太った西欧人」の肖像であり、そのことが西欧の読者たちを激怒させたのだと著者は言う。同時に、ペロウンは「宗教抜きに、だが宗教と同じくらいの豊かさでもって我々の日常生活を擁護することができる人物」として創造されたのだ、とも。これは精神の不安と荒廃をめぐるシニカルな寓話なのか、それとも人間意識の可能性と揺らぎを文字通り手術台に載せるクリニカルな文学の試みなのか?(小山太一)