新刊紹介

長谷 正人
『テレビだョ!全員集合――自作自演の1970年代 』
青弓社、2007年11月

たとえばテレビの情報番組を「面白い」と感じる場合、「情報」を知識として知る楽しさと、その情報がどのように見せられるのかという「情報の見せ方」、すなわち「演出」の楽しさとは不可分である。だが、テレビをめぐる社会的な言説は、それらの結びつきによるテレビ独特の「面白さ」を理解していない。それゆえ本書は、この「情報」と「演出」の亀裂を埋めるテレビ的言説の構築を目指している。

テレビカメラは目の前の出来事だけでなく、自身の介入から生じた現場の空気をも伝える。つまり自ら作り出した緊迫感を他人事のように伝えるという意味で、そこには「自作自演」性が存在する。もちろん、テレビの「自作自演」的な面白さを論じるならば、それと意識的に戯れ、楽屋落ち的な笑いに満ちた80年代番組のほうが対象に適合するかもしれない。だが、そこでの「自作自演」性は馴れ合いや内輪受けに堕落する懸念があり、そうした場合、自作自演的な「面白さ」は反転し、テレビはテレビ自体しか映し出せないという自閉自足に陥る。そうではなく、誰かの意図や戦略には回収されない不透明な出来事としての「自作自演」性が70年代番組にはあり、これこそが、テレビがテレビであることのなまなましさ、楽しさだったのではないか。

こうした問題意識を共有する7人の論者たちによる本書は、70年代テレビをジャンルごとに論じた第1部と、テレビと社会との70 年代的関係について論じた第2部とから構成される。

それにしても、なぜ『WORLD DOWN TOWN』はあれほどまでに面白かったのか。『やりすぎコージー』における今田・東野のやりとりや『あらびき団』で披露される粗芸の抱腹絶倒ぶり、あるいは『青い鳥』における山田麻衣子の存在の強度などは、身ぶり手ぶりでどれほど巧みにこれを再現し、またどれほど丁寧にことばを費やしてそれを説明しても、ほとんどなにも伝わらない。テレビを論じることの困難は、批評的な態度に身構えるやいなや、テレビの真の魅力が分析体系の構造的な網目から絶えず流出してしまうことにある。唯一、ナンシー関によるテレビ評だけが機能しえたとすれば、それは彼女が、テレビというメディアに向かって闇雲に投網をかけるのではなく、その天才的な嗅覚と技量とをもって、そこに棲息する有象無象の急所を個別に不意打ちしたからであろう。

こうした困難さゆえか、これまで体系的に論じられる機会のほとんどなかった日本のテレビについて、おもに社会学的な関心から70年代テレビを論じた本書は、果敢な試みとして、いわばひとつのたたき台となるはずだ。この先には、他の学術領域からの考察も交えた70年代テレビのより詳細な検討が、さらには80年代以降のテレビ論への展開が期待される。(堀家敬嗣)