マルタン・リュエフ✕ガブリエル・ラディカ連続講演会(10/29・30)
フランスからマルタン・リュエフ(Martin Rueff)とガブリエル・ラディカ(Gabrielle Radica)の二人を招き、二日間にわたって早稲田大学にて連続講演会を行った。ルソーを中心とする18世紀啓蒙期の文学・哲学研究を出発点としながら、ジョルジョ・アガンベンやカルロ・ギンズブルグら、イタリアの思想家・作家の著作のフランス語への翻訳、そして詩人としての作品の刊行など、幅広い活動を続けるマルタン・リュエフ(ジュネーヴ大学教授)に対しては、先ごろその全業績を称える賞がアカデミー・フランセーズより授与されたばかりである(2025年アンリ・ガル文学大賞)。一方のガブリエル・ラディカ(リール大学教授)は、やはりルソー研究を土台としつつ、政治哲学者として、西洋哲学における「家族」概念の変遷を思想史的にたどり直す作業を続けており、ルソー、フロイト、ディドロらのテクストの抜粋に解説を付した編著『家族の哲学(Philosophie de la famille)』(Vrin, 2013)は、きわめて有益な一冊である。両者の講演は、ルソーという思想家とその研究の射程の広さを印象づけるとともに、その多様性の先にある共通の争点も垣間見せてくれるものだった。
一日目は、「翻訳」そして「家族」という、両者が近年取り組んでいる課題をめぐって、議論が繰り広げられた。マルタン・リュエフは「「一方を他方の中に」――翻訳はいかにして哲学的課題となったのか(L’un dans l’autre : comment la traduction est-elle devenue un problème philosophique ?)」と題された講演を行った。「一方を他方に」という翻訳行為をほのめかす表現は、フランス語では「いずれにしても」という慣用句でもあり、それ自体が翻訳の困難さの象徴でもある。ニーチェやベンヤミンが、個別の言語の先の純粋言語のようなものを想定していたことを批判的にとらえ直すリュエフは、一方が他方を征服するようなものとは別の翻訳の形を志向しようとする。それは明治期以来の西洋語の翻訳を蓄積してきた日本の研究者から見れば、むしろ西洋の翻訳をめぐる思考がこれまでいかに一面的であったのかを、あらためて認識させてくれる議論でもあった。翻訳が単なる一方的なものではなく、翻訳される言語にとっても益するものとなりうることが、哲学によってようやく考察されうる土壌が整いつつあるのかもしれない。
「家族と所有――固有であること、近いこと、プライベートであること(Famille et propriété : le propre, le proche et le privé)」と題する講演を行ったガブリエル・ラディカは、西洋哲学が家族をどのように捉えてきたのかを、所有権、親密さ、そして法的なプライバシーという三つの観点からたどり直して見せた。社会を自由な個人の集まりとして表象すれば、そこに「家族」が場を持つ余地はないようにも思われるが、社会と個人を二項対立的に捉えることの限界が、今日においては露呈し始めているのも事実である。西洋哲学において「家族」がマイナーな主題であり続けていたとすれば、そのこと自体を西洋哲学のアポリアとして捉え直すべき時期に差し掛かっているのだということを、ラディカの講演は示唆する。おそらく現代哲学にとって「家族」という主題は、今後ますます重要なものとなっていくことだろう。
二日目の講演はルソーへとさらに焦点を絞り込んで行なわれた。ガブリエル・ラディカの講演は「現代政治に活かされるルソー──社会的なものと政治的なもの(Lectures contemporaines de Rousseau : le social et le politique)」と題するものだった。ロールズ、ホネットらのルソー論を概観しながら、ラディカが示すのは、あるときは個人主義的に、あるときは社会的にと、ルソーが都合よく「良いとこ取り」されてきた歴史である。このラディカによる議論は、「「頭は⾔語にかたちづくられ、思考は⾔葉の⾊に染まる」──ルソー、⾔語そして思想("Les têtes se forment sur les langages, les pensées prennent la teinte des idiomes". Rousseau, le langage et la pensée)」と題されたマルタン・リュエフの講演における議論と呼応しあう。ルソーの言語論に着目するリュエフが強調するのは、ルソーにとって言語の問題とは、とりわけ感情の問題であるということだからだ。そしてこの「感情」こそ、ラディカが着目したような政治学におけるルソー読解において、決して問われることのなかった問題に違いない。つまり両者の講演を通して浮かび上がるのは、ルソーをいかに読むのかが、言わば鏡のように、同時代の思想や精神を反映させてきたということである。しかし注意しなければならないのは、その鏡の向こうに「真のルソー」が控えているというわけでは決してなく、それもまた今の私たちを映し出す鏡なのだということである。私たちはこれまでルソーをどのように読んできたのか、そして今どのように読もうとしているのかを問うた両者の議論は、「ルソーの現代的意義」と銘打った本講演会の企図に、すぐれて応えるものであった。

