2025年12月20日(土)
15:20-17:20
15:20-15:55 表象によるフィードバック補綴──サイバネティクス史から見る表象の役割/香川祐葵(大阪大学)
16:00-16:35 異質な幽霊から嗜好のテキストへ──ジョルジュ・バタイユのサド論をめぐって/林宮玉(大阪大学)
16:40-17:15 「身体の思考」を可視化する──ウィリアム・フォーサイスによるインプロヴィゼーションの延長としてのインスタレーション諸作品について/藤堂寛子(桐蔭横浜大学)
司会:小田透(順天堂大学)
サイバネティクス/認知科学、文学/思想、コンテンポラリー・ダンス/インスタレーション。領域は異なり、年代もかならずしも重なり合わず、それぞれが各々の方法論を採る3つの発表が1つのパネルとなるのは、領域横断性を誇る表象文化論学会だからこその創造的な出会いだろう。その一方で、3つの発表が共有しているものもある。「表象」がもたらす認知・認識の変容にたいする関心と問題意識であり、思想史であれ、テクストであれ、オブジェであれ、対象を丹念に精読する同時に、それを相対化・複数化する多角的で批判的な視座である。
香川祐葵による「表象によるフィードバック補綴──サイバネティクス史から見る表象の役割」は、VRといった現代の仮想技術が求めている表象の再定義──受動的なもの(外界の忠実な写像)としてではなく、わたしたちの身体や認知の構造を変容させるものとしての表象──に、思想的に応答しようという系譜学的試みである。
そのために香川は、直近の認知科学の理論を参照するより先に、その理論的前提をかたちづくったサイバネティクスの理論的営為に遡る。そこで前景化されるのは、フィードバック・ループによる身体と表象の統合という、生物/機械、身体/精神の二元論を越えていく方向性だ。1940年代後半のノーバート・ウィーナーは、視覚や聴覚の欠損を、器官の喪失ではなく、通信回路における情報の遮断と捉えたのであり、それによって、身体外部の装置による感覚補綴の可能性が開けたのだった。
サイバネティクス/認知科学における認知モデルの変遷をたどる香川は、ウィーナーの理論を受けて展開されてきたエナクティヴィズムや「拡張された心extended mind」理論ではなく、近年の「予測処理 predictive processing」理論──感覚と行為、内部記憶と外部リソースを相互に補完的と捉え、脳は予測信号と実際の入力信号を照合して「予測誤差」を計算している──のほうが、予測と実測という時間的奥行きを持っていたウィーナーのモデルへの回帰として理解できるという。しかしそれは、後退ではなく、発展的回帰として捉えられるというのが、香川の議論であった。
香川の思索を貫いているのは、表象を理論的・概念的に問い直し(表象とは「何」か)、表象と身体と環境の三者関係を系譜学的に捉え直すことで(表象は「どこ」に位置づけられてきたか)、そしてなにより、表象の役割をあらためて描き出そうという意志であった(表象は「どのよう」に機能するか)。本発表は、偶発的な未来において表象が果たしうる架橋的で補綴的な可能性──わたしたちは日常のなかで表象メディアをただ利用したり消費したりするだけではなく、それらを媒介として、みずからの価値観や感性を変容させているのではないか──への言及で閉じられた。
質疑応答では、在野研究者の伊藤未明から、ウィーナーの関心と第二次世界大戦という歴史的文脈の関係、また、「予測処理」理論に紛れこまざをえない誤差の可能性が提起された。

林宮玉による「異質な幽霊から嗜好のテキストへ──ジョルジュ・バタイユのサド論をめぐって」は、サドを他に先んじて考察したジョルジュ・バタイユの1930年代の「異質学hétérologie」をめぐる一連の論考と、1947年に発表されたピエール・クロソウスキーの『わが隣人サド』へのバタイユからの応答を連続的に読み解く試みである。それは、倒錯性という観点からサドとバタイユを同一視したり、バタイユ思想の転覆的な側面に注目したりする従来的な解釈とは一線を画するものだ。林はむしろ、バタイユがサドとともに考え、書くことをつうじて、異質な情動と同質的な秩序の拮抗関係、欲望と「嗜好goût」の生成関係を浮上させようとしていたことを明らかにする。
バタイユのサドにたいする関心は、バタイユの「異質なもの」にたいする関心とパラレルであった。「異質なもの」とは、二項対立の形式から排除されるもの、「ただ否定の作用を通して捉えられるだけ」のものであり、「異質学」とは、既存の科学が廃棄・排泄してきたものについての学であった。しかしながら、価値転倒的な異質学は、1930年代のファシズム研究において理論的袋小路にはまりこむ。ファシズムは、異質的な情動が、集権化によって同質的な秩序に統合され、同質性を強化する新たな同質性となることを示していたからだ。
異質学の挫折とともに異質性という表現こそバタイユのテクストから消えるが、情動(暴力的な侵入)と秩序(理性の言語)の共犯関係の体現者であるサドの形象は、生涯、バタイユに憑きまとうことになる。バタイユはたしかにクロソフスキーのサド解釈から、充足不可能な欲望(不幸な意識)による反省というモチーフを引き継いだが、それ以上に林が注目するのは、「それからpuis、より意識的にそれを満たそうとする嗜好」である。なぜなら、反省が欲望なき明晰な意識につながるのにたいして、嗜好は「欲望についての意識」であり、「料理女la ménagère」のように欲望を「変形modifier」し続けるからだ。林はサド=バタイユのなかにある、解消されざる拮抗関係と、「それから」、欲望の「嗜好」化にこそ、彼らの凄みを見てとる。
質疑応答では、東京大学の星野太から「それからpuis」と「嗜好goût」の踏み込んだ解釈について、また、山形大学の柿並良佑からバタイユにおける「情動affect」という語の使用について、質問が投げかけられた。

藤堂寛子による「「身体の思考」を可視化する──ウィリアム・フォーサイスによるインプロヴィゼーションの延長としてのインスタレーション諸作品について」は、方法論的なインプロヴィゼーションで知られるコンテンポラリー・ダンスの振付家ウィリアム・フォーサイスのChoreographic Objectsと呼ばれるインスタレーション群が、「身体を通した思考」の可視化という意味では、彼のダンス作品と連続的であること、そればかりか、鑑賞者にもそのような身体性を体験させる機会であることを明らかにする試みである。
クラシック・バレエを分析して解体し、ポストモダンの文脈で再構成したフォーサイスは、同時に、ダンサーが即興で動きを生み出していくための方法論を発展させた。藤堂がとりわけ注目するのは、先行するポスト・モダン・ダンサーたちが創作過程で取り上げ、フォーサイスも援用した、「タスク」という概念である。「タスク」は、即興の無限の可能性をある程度限定する「動きの指示書き」──たとえば「fall upwards」──であり、外部から条件づけ──たとえば「Three people in contact」──であり、それによって、より特定の動きが作り出され、環境との関係で動きを決定するという方向づけがなされる。環境との相互関係のなかで自己組織化する身体というフォーサイスのモデルは、彼と長く協働関係にあったアルヴァ・ノーエによる「身体化された認知embodied cognition」(認知科学というよりも、現象学に立脚する)が提供したものだという。
フォーサイスのインスタレーション作品は、ダンサーではなく鑑賞者が、特異な姿勢や動作を要請される。The Fact of Matterでは、天井から吊るされたリングのみを使って地面に足がつかないよう横断しなければならないし、Nowhere and Everywhere at the Same Timeでは、天井から吊るされた無数の錘のどれにも接触しないで空間を横断することを求められる。こうして鑑賞者は、一方において、みずからの身体を環境に応じて動かすことを余儀なくされ、他方においては、そのような困難な運動のなかでみずからの身体的能力の限界や、非日常の身体的感覚を意識することになる。フォーサイスのChoreographic Objectsは、環境による身体の組織化(身体の思考)の可視化の試みであり、コレオグラフィによって「我々は知らずして生まれながらにダンサーである」(ノーエ)ことを意識させることに成功しているのではないかというのが、藤堂の発表の結論であった。
質疑応答では、早稲田大学の中島那奈子から、鑑賞者がダンサーとなるとするノーエの言葉とプロのダンサーによるフォーサイスの舞台との対立、フォーサイスのChoregraphic Objects以前のインスタレーションとの比較の必要性が示唆された。
表象によるフィードバック補綴──サイバネティクス史から見る表象の役割/香川祐葵(大阪大学)
本発表は、サイバネティクスの歴史分析から表象の役割を再考する。そして、表象を内因的実体としての自己に対する単なる外部情報や娯楽と考えるのでなく、身体と精神の神経情報の統合による自己感の存立に際し、フィードバック回路の断絶を補綴することで支えるという重要な役割を担うことを主張する。
1940年代、ノーバート・ウィーナーは制御理論を確立し、感覚代替による適切なフィードバックが身体図式の再構成を可能にする原理を提示した。同時期、ウォーレン・マカロックとウォルター・ピッツは神経活動を論理計算として形式化し、神経系を自己制御的フィードバック回路として捉えることで、精神疾患をこの回路の論理的破綻として理解し、情報論的補綴の理論基盤を提供した。
これらを引き継ぐウンベルト・マトゥラーナらのエナクティヴィズムは、ミラー療法など図像によるフィードバック回路を通じた身体図式の補綴へと繋がった。また、グレゴリー・ベイトソンらのダブルバインド理論と映像記録による家族療法は、構成主義的展開を経て、現代のオープンダイアローグなど物語によるフィードバック回路の補綴を実現した。さらに現代のVR療法は、物語提示と身体感覚操作を統合し、自己感の包括的再構成の可能性を示している。
本発表は、こうしたサイバネティクスから現代の神経治療技術への系譜を辿ることで、表象が自己感の存立に不可欠な補綴機能を持つことを明らかにする。
異質な幽霊から嗜好のテキストへ──ジョルジュ・バタイユのサド論をめぐって/林宮玉(大阪大学)
本発表は、バタイユの一連のサド論を時系列的に読み解くことで、「転倒(inversion)」という二項対立的パラダイムとは異なるもう一つの思考の可能性、すなわち「嗜好(goût)」としての文学という可能性を探究する。
まず、初期のバタイユにおける「異質学(hétérologie)」の試みを読み解く。均質な秩序の内部に異質な情熱を再導入するこの試みの中から、後期のサド論に引き継がれる思考の核を明確にする。次に、クロソウスキーとブランショのサド論を批判的に参照しながら独自のサド論を提示した後期のバタイユをとりあげる。バタイユによれば両者はいずれも、秩序が欲望を規定するか、欲望が秩序を形成するかという二項対立的構図を暗に前提としている。対してバタイユは、転覆的な欲望は幽霊のようにつきまとい、常に秩序との葛藤の中で自己をみいだしていくものであるとし、欲望と秩序が最も切実に拮抗する場としてサドの文学を評価した。
最後に、サドがバスティーユの中で執筆した『ソドム百二十日』とその生成の過程に注目しつつ、バタイユがサドに見出した文学の可能性を考察する。欲望はただそれ自体によってではなく思考(反省)を介してこそ、欲望の直接な満足とは別の質の快楽、「嗜好」へと自己変容する。その拮抗と変容を自らの肉体において実践したサド自身の肉体のなかに、嗜好の文学は生成されるのである。
「身体の思考」を可視化する──ウィリアム・フォーサイスによるインプロヴィゼーションの延長としてのインスタレーション諸作品について/藤堂寛子(桐蔭横浜大学)
コンテンポラリー・ダンスの振付家として、特にそのインプロヴィゼーションの方法論で知られるウィリアム・フォーサイス(William Forsythe, 1949-)は、動きを誘発する装置として「タスク(動きの指示書き)」を設定し、その条件付けに応答していくためのシステムをデザインすることによって、ダンサーが「身体を通して思考」(Nalina Wait, 2023)しながらダンスを組み立てていくことを可能にした。
さらにフォーサイスは上記の試みの延長として、インスタレーション作品を多く手がけたことでも知られる。The Fact of Matter(2009)、Nowhere and Everywhere at the Same Time, No.3(2015)などにおいてフォーサイスは、鑑賞者に特異な姿勢や動作を要請する条件を設定することにより、身体がいかに環境からの働きかけやそれへの応答のプロセスによって「組織化」されているか(Alva Noë, 2015)ということについて可視化した。ここには、20世紀後半から21世紀初頭までのダンスにおけるインプロヴィゼーションを後ろ立てた思想が凝縮されている。
本発表では、上記のような作品例にみられる、身体が環境により「組織化」されているという実態を「身体を通した思考」によって可視化するというフォーサイスの「コレオグラフ」の思想の一端を明らかにすることで、20世紀後半コンテンポラリー・ダンスの基盤の一つを形成したインプロヴィゼーションの理論的背景について描写することを試みたい。