研究発表3
2025年12月20日(土)
15:20-18:00
15:20-15:55 マイケル・フリードの写真論における「演劇性」概念の内実の解明──ジェフ・ウォール、トニー・スミス、ウィトゲンシュタインを中心として/茶圓彩(京都大学)
16:00-16:35 触れられる記号:アルド・ロッシとルイジ・ギッリの建築写真術/片桐悠自(東京都市大学)
16:40-17:15 「無名(無銘)の職人」の源流──柳宗悦の初期宗教論における「無名」概念/佐々風太(東京科学大学)
17:20-17:55 From Audience Autonomy to Audience Agency: Rethinking Institutional Critique and Critical Art Practices Through the Work of Andrea Fraser and Yoshiaki Kaihatsu/Able Zhang(東京藝術大学)
司会:甲斐義明(新潟大学)
研究発表3では、写真・工芸・現代美術とおもに美術をあつかった4名の発表がおこなわれた。
ひとり目の茶圓彩氏の発表は、アメリカの美術批評家・美術史家・詩人であるマイケル・フリードの2008年の写真論『なぜ写真はいまだかつてないほど重要なのか』における「演劇性」概念の内実を明らかにするものだった。この概念が問題となるのは、フリードにとって演劇性が1967年の「芸術と客体性」以来のキーワードであり、この写真論においても作品の良し悪しを分ける基準である一方で、その根拠となる「客体性」の定義があいまいなままに留まっているからである。今回の発表では、とくに第3章と第10章が取り上げられた。
分析をつうじて明らかとなったのは、「反演劇性」が18世紀以降の芸術におけるひとつのエピステーメー(知の枠組み)であるというフリードの主張が、「芸術と客体性」以降、作品上の矛盾――錯視や観者の不在――から生じる作品の意味の新たな開かれにより形成されているという可能性である。フリードは「芸術と客体性」以来、1980年の『没入と演劇性』など一貫してこの問題に関心を持ちつづけていた。ベルント&ヒラ・ベッヒャーやジェフ・ウォールの写真が「良い客体性」であるのは、被写体である物体が作品において新たな意味(の型)へと開かれているからであり、逆にトニー・スミスのオブジェが「悪い客体性」と批判されるのはそこに解釈が生まれえないからである。最終的に、演劇性とは「意味の新たな開かれが生じない内実を持つ」ことだと結論された。
ふたり目の片桐悠自氏の発表は、建築家アルド・ロッシと写真家ルイジ・ギッリという、交友関係のあったふたりの建築写真を比較することで、両者の共通点を抽出するものだった。その際キーワードとなるのが、ロッシがギッリを追悼する際に用いた「触れられる記号」(i segni tangibili)という表現である。この言葉はロッシがその初期から用いてきた概念でもある。
まず、両者の写真がいくつか提示され、ギッリ写真の形式的特徴が中心線の保持や枠中枠の存在にあり、一方でロッシの写真はより動的で、ポラロイド写真による身体性をもつことが示された。ついで、ロッシによる「触れられる記号」という言葉の用例が検討され、この語が歴史や集合的な記憶といった根本的なもの、モニュメントと結びついていることが確認された。このような検討を経て、結論として片桐氏は両者の共通点を、写真を事物を紙という触れられる対象のうえに定着する技法と捉え、それによって「モノの主体性に気づかせる身振り」にあると述べた。

三人目の佐々風太氏の発表は、柳宗悦の「無名」概念の起源と展開について明らかにするものだった。民藝については、しばしば「無名の職人によって作られた」という言葉によって説明される。ただ、大沢啓徳『柳宗悦と民藝の哲学』をはじめとする先行研究が存在するものの、この語の始まりと変遷についてはあまり扱われてこなかった。本発表は柳自身のテキストを丹念に検討することで、より実証的な民藝研究の可能性を開くものである。
佐々氏はまず、柳の民藝以前の初期宗教論に見られる「無名」(nameless)を取りあげ、この語が絶対者をめぐる宗教哲学的な探究から発していることを確認した。ついで、国内外の職人や器物との接触によって、この概念は「無銘」の問題へと「具体化」される。この展開を佐々氏は、「無」という主体から、分業や伝統の継承という主体の「分散としての無」へというかたちで整理する。結論として、柳にとって「無名(無銘)」概念が、自意識をこえた「たたずまい」や分業制と結びついていることが明らかとなった。
最後のAble Zhang氏による発表は、現代美術作品における鑑賞者の参加の実態を分析することで、その「自律性(autonomy)」と「主体性(agency)」を区別することを目的としていた。認知科学者・哲学者フレッド・カミンズの理論を手がかりに、自律性は「システム内での自己統御と自己充足の能力」として、主体性は「システム内またはシステムを横断して意図的に行為し、変化をもたらす能力」と定義される。本発表には、鑑賞者の参加が一般的な事柄として芸術制度に組み込まれることで、その意義と妥当性を検証することがますます重要になっているという問題意識があった。具体的な分析例として、アンドレア・フレイザーと開発好明の作品が取り上げられた。

分析をつうじて、ふたりのアーティストが鑑賞者を受動的な存在として扱うのではなく、それぞれ異なる方法で作品に「参加」するよう促していることが明らかになった。世代と文化的背景の異なるふたりのアーティストを比較することで、結論として、参加にかんする介入の普遍的な広がりが示された。
マイケル・フリードの写真論における「演劇性」概念の内実の解明──ジェフ・ウォール、トニー・スミス、ウィトゲンシュタインを中心として/茶圓彩(京都大学)
アメリカの美術史家であり美術批評家であるマイケル・フリードは1960年代から1970年代にかけて美術批評家として活躍した。この時期に発表された批評の中で、特に1967年に雑誌『アートフォーラム』に発表した「芸術と客体性」は、彼のそれ以降の美術史家としての著作物の理論形成の基盤となっている。2008年に上梓した『写真はなぜアートにおいてかつてないほど重要なのか』もそれに該当し、「芸術と客体性」に触れながら写真論を展開している。
しかしながら、この著作では、「芸術と客体性」において重要な術語であり作品の成立のために観者を含むことを内実にもつ「演劇性」を写真に付与するか否かを決定する際、その根拠である「客体性」の定義づけが曖昧なものになっている。というのも、第10章においてドイツの写真家であるベッヒャー夫妻の作品とカナダの写真家ジェフ・ウォールの作品が、「芸術と客体性」で取り扱われたトニー・スミスの作品《Die》(1962/8年)と比較して、前者を良い客体性、後者を悪い客体性とし、かつ後者に「演劇性」を付与するが、その区分けの根拠である、ベッヒャー夫妻の作品で形成される観者を含めない世界の議論がウォールの場合にはあまり展開されないからである。
そこで、本発表では、第10章において重要であるウィトゲンシュタインの著作『草稿1914-1916』(Oxford, 1961年)だけでなく、上記著作の第2章、スティーブン・マルホールの論文(2018年)を主に敷衍しつつこの問題の解決の糸口を見出し、「演劇性」概念の内実を明らかにする。
触れられる記号──アルド・ロッシとルイジ・ギッリの建築写真術/片桐悠自(東京都市大学)
本発表は、建築家アルド・ロッシ(1931-1997)と写真家ルイジ・ギッリ(1943-1992)の交友を踏まえ、建築写真術における共有可能性を論じる。
ロッシが、自ら撮った写真を公開するようになるのは、1980年代におけるギッリとの出会いのあとの、ポラロイド写真においてである(田中, 2010)。ギッリの死後公刊された『ルイジ・ギッリ―─アルド・ロッシ』(CCA, 1996)収録の追悼文「ルイジ・ギッリのために」において、ロッシは、「触れられる記号(触知可能なしるし)Isegni tangibili」という表現でギッリの作品を思い起こしている。
「触れられる(触れることのできる、実体の、具体的な)tangibile」という修飾語は、ロッシが初期の建築論から後年に至るまで用いてきた語である。例えば、「触れられる記号」の表現は、「美術館としての建築」(1968)から、『科学的自伝』(1981)に見出だされ、あるシーンのもたらす経験の強度を重視する。「触れられる」とは、「di/segno(しるしに属するもの、描かれたもの)」として説明できるだろう。
ロッシやギッリによる、写真における事物のフレーミングは、そのたびごとに消えてしまうような事物を触れられる「紙」なる支持体へと記録する行為であった。事物は、写真=フレームという紙のなかで幾何学的な配置のもとに支持され、新しい生へと移行する。それゆえに、事物の持つ特異な〈生〉は、過去にも未来にも布置されるように、色褪せた色彩で現像されなくてはならなかった。つまり、両者の建築写真における共有可能性は、ある幾何学的布置のもとでの、二次元平面上に配された事物に、演者としてのスポットライトを当て、モノの主体性を気づかせる身振りのうちにあるといえるだろう。
「無名(無銘)の職人」の源流──柳宗悦の初期宗教論における「無名」概念/佐々風太(東京科学大学)
「無名(無銘)の職人によって作られた」という言葉は、思想家・柳宗悦によって見出された民藝の器物を説明するものとして、夙に知られる。柳の「無名」概念に関する先行研究としては大沢啓徳『柳宗悦と民藝の哲学』(ミネルヴァ書房、2018)などが挙げられる。ただ、柳の「無名」の用例の始まりについて考察する研究は、これまで手薄であった。本発表では、柳の「無名」概念の変遷、特にこの概念の源流について、テキストや関連作品と共に検討する。
柳が「無名」の問題について初めて思索したのは、初期宗教論においてである。1919年、柳は『宗教とその真理』(叢文閣)で、老子やエックハルトの「無名」概念について、「Nameless」の訳語を用いながら検討している。続く『宗教的奇蹟』(叢文閣、1921)、『宗教の理解』(叢文閣、1922)といった初期の著作にも、「無名」概念が登場する。初期宗教論において「無名」は、名付け得ない、自意識を超えた絶対の世界を描写する重要な語として位置付けられている。
その後柳の「無名」は、国内外の民藝や職人との出会いと共に、「無銘」(「無落款」、「anonymous」)の問題と接続され、「無名(無銘)の職人」というよく知られた観点を生む。本発表では以上のように、宗教論に端を発する柳の「無名」の問題が、器物の造形や実作者の態度の問題へと具体化していく過程を明示する。
From Audience Autonomy to Audience Agency: Rethinking Institutional Critique and Critical Art Practices Through the Work of Andrea Fraser and Yoshiaki Kaihatsu/Able Zhang(東京藝術大学)
This study examines the fundamental distinction between audience autonomy and audience agency within critical art practices by analyzing varying degrees of participation in contemporary artworks. Drawing on Fred Cummins’s definition, autonomy denotesthe ability of self-governance and self-containmentwithin a system, whereas agency refers to the capabilityto act intentionally and effect change within or across systems. Over the past 60 years, audience participation has become a defining variable in shaping both the conception and reception of critical art. However, as participatory modes have become increasingly institutionalized, the validity and political significance of “participation” itself have come under scrutiny—particularly when it operates merely as a symbolic gesture of democratic inclusion.
Through a comparative analysis of the case studies ofAndrea Fraser and Yoshiaki Kaihatsu, this research investigates how audience autonomy and agency are respectively manifested, negotiated, or diminished in their early and recent works. By highlighting their distinct approaches to structuring interaction, coordination, and social/collective engagement, the study reconsiders the role of the audience as more than a simple “participant”—positioning audienceinstead as active agentswhich constantly changesocial and institutional processes. Ultimately, it argues for the renewed potential of agency in reimagining democratic participation within contemporary art.