オンライン研究フォーラム2025

書評パネル2 相田豊『愛と孤独のフォルクローレ ボリビア音楽家と生の人類学』

報告:福田貴成

2025年12月20日(土)
13:30-15:00

相田豊『愛と孤独のフォルクローレ ボリビア音楽家と生の人類学』(世界思想社)

相田豊(上智大学)
谷昌親(早稲田大学)
細馬宏通(早稲田大学)
柳澤田実(関西学院大学)
福田貴成(司会:東京都立大学​​)


ボリビアのフォルクローレ音楽をめぐるフィールドワークをもとに綴られた本書『愛と孤独のフォルクローレ──ボリビア音楽家と生の人類学』は、1970年代に生まれた──名前とはうらはらに──あたらしい音楽にかかわる多様な人々についての民族誌であり、またその記述を通じて今日の文化人類学的理論に再検討を加える批判の書であり、同時に筆者・相田豊がその探究とともにみずからの「生の人類学」を深めてゆく過程をたどるビルドゥングスロマンでもあるような、複数的な魅力を湛えた一冊である。その複数性を多面的に問い直すべく、今回の書評パネルでは専門のコアを異にする谷昌親・柳澤田実・細馬宏通という3名の評者が集い、それぞれの観点から本書の美点をあらためて確認するとともに、専門性を背景とするそれぞれに異なった疑問点が投げかけられた。当日は著者による本書の解題を皮切りに、評者3名がつづけて見解を述べ、そのあとふたたび著者からの応答がなされるという順で議論が進められたが、ここではその流れを再構成し、評者それぞれの疑問と著者の応答をひとつずつ確認してゆくこととしよう。なお、本書の内容については、すでに『REPRE』54号に藤田周による周到な紹介が掲載されているのであわせて参照されたい(https://www.repre.org/repre/vol54/books/sole-author/1/)。

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本書への奨励賞の授与を決定した第16回表象文化論学会賞において選考委員を務めた谷昌親は(谷による選評は『REPRE』55号に掲載されている。https://www.repre.org/repre/vol55/topics/prize/)、みずからの研究対象でもあるミシェル・レリスの仕事を引き合いに出しつつ、民族誌学としての本書の魅力、そしてその記述において重要な位置を占める「アネクドタ」──音楽家をはじめとするエージェントたちの語るさまざまな逸話たち──の数々の面白さを語る。とともに、そこにあらわれる断片的な思考のありようを、レリスそして『パサージュ論』におけるヴァルター・ベンヤミンを参照しながら文学のコンテクストへと接続してゆく。さらに、フォルクローレ音楽を通じてのラテンアメリカ的「孤独」の発見を、日本における「絆」信仰との対比において語るとともに、それを実現する音楽的かつ社会的な「反抗」の身振りのなかに、シュルレアリスム的「反抗」との通底を見出してゆく。

こうした複数の魅力や可能性を認めたうえで、谷が問いを投げかけるのは、本書における「錯時的なもの=アナクロニー」をめぐる議論だ。ジャック・デリダの憑在論に依りつつ語られる、同じ時間を生きながらもつながりうる可能性を徹底的に失った断絶的な生なるものは、はたしてラテンアメリカ特有のものとして位置づけられるものなのか。それはラテンアメリカ的な孤独や反抗とどのような関係を取り持つことで生成しうるものなのか。

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この問いに対し、相田はボリビアの置かれてきた500年にわたる植民地支配、そして700年ものインカ支配の歴史に触れつつ、その「量的な重み」がいわば「質的」なものへと転化するようにラテンアメリカ特有のアナクロニー──自身の隣にいる人が同じ時間を生きているとは限らない──を構成しているのではないか、という仮説を述べる。それはさらに「自身の隣にいる人は、別の時間の自己自身かもしれない」という特殊なアナクロニーへと導かれてゆく。そこで鍵になるものこそが「反抗」のありようだ。フォルクローレ音楽の世界において、上世代への反抗とは、我知らず対峙している未来の自分への反抗であり、その連鎖が「時間の蝶番が外れてしまった」ような、固有というほかないアナクロニーを構築してゆく。「すでに」と「いまだ」とが反抗という身振りのなかに共在するさまにこそ、相田は「ラテンアメリカ的な」アナクロニーを見出しているのである。

続く細馬宏通は、すでに本書を「第3回音楽本大賞」の個人賞に選出していること、またその選評において「アネクドタ」への着目からフォルクローレ音楽に特有の孤独をアネクドタ的に描き出してゆく相田のテクストの面白さを高く評価していること(https://musicbookaward.wordpress.com/2025/08/26/3rdmba_comments2/)に触れたうえで、本書において菅原和孝らの会話研究を引き合いに出しつつ退けられる「関係論的」な思考と相田の「孤独」の思考とは、決して排他的に捉えられるものではないのではないか、という疑問を投げかける。菅原の議論に加え、木村大治の「共在感覚」をめぐる思考、水谷雅彦による共在と共生そして対等と平等の差異をめぐる議論、そして東畑開人がカウンセリングをめぐって論ずる「生存」と「実存」の関係を重ねあわせながら、細馬は、「共在」というかたちで「生存」せざるを得ないわれわれという存在の、それだけでは満たされない何ごとかこそが「孤独」という「実存」をめぐる問題なのではないか、と述べる。ここにおいて文化人類学における関係論的思考と相田がフォルクローレ音楽のうちに見出した孤独とが、接続の相のもとに捉え直されることになる。とするならば、相田が「あまりにミクロすぎる」(93頁)がゆえに「違和感のあるものとして残った」(同)と述べる関係論的アプローチもまた、フォルクローレ音楽との相関において別様の捉え方が可能になるのではないか。

細馬のこうした問いに対して、相田がまず音声映像も交えながら示したのは、本書の焦点であるフォルクローレ音楽と、より伝統的なアウトクトナ音楽(農村祝祭音楽)との、音楽そのものにおける明瞭な差異であった。アウトクトナ音楽においてはひとつのメロディーを複数人が分割して担う「ホケット」の様式が一般的であるのに対し、フォルクローレ音楽はソロを基本としながら「複数人で演奏している感」を醸すことが求められる。であるがゆえに、フォルクローレ音楽に固有の身体性とは「多なる身体を一身に兼ねている」もの、より強く言えば「抱え込みすぎている」ものとなる。

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孤独とは、この「抱え込みすぎている」フォルクローレの身体に固有のものなのではないか、と相田は応答する。それは、分割されてあることを前提とする複数の身体を、ひとつの身体のうちに混成させることによってこそ生成する。であるとすればそれは、生ぬるい「共生」とは一線を画する「共在感覚」に特有の非日常性の別様のあらわれとして捉えられるのではないか。共在から零れおちるものとして細馬が語った孤独をこのように敷衍したうえで、相田はさらに、舞台に立つフォルクローレ音楽家の孤独を、菅原の原野論とのアナロジーにおいて把握する可能性を示唆する。相田と細馬のやりとりを聞きながら、筆者は「結果として捨て去ることになった経験と思考の回り道」と相田が述べるところのものの予期せぬ──アナクロニックな?──回帰を見るような思いを抱いた。

柳澤田実もまた、フォルクローレ音楽における「反抗」をめぐる相田の議論を、とりわけ「人を繋ぐもの」としての音楽という──「共生」的な?──志向とは一線を画しながら展開される「孤独」の思考を、みずからのキリスト教研究の成果も踏まえながら高く評価する。そして、ひとつの音の「強度」がフォルクローレ音楽において有する重要性のうちに、そしてそれが音楽的にも「非関係論的な方法論に支えられている」(180頁)ことのうちに、柳澤はボリビア音楽に固有の実存主義的性質を見出す。もちろんそれは西洋哲学の伝統における実存主義との直接・間接の関係があるという意味ではなく、そこに「実存の問題」というほかなかないものが露見しているのではないか、ということだ。

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相田の本書における議論はしかし、その最終盤において、サルトルとレヴィ=ストロースとの論争を引きつつも実存主義的な思考を退け、「本書が提示した非関係論的なものは最初から、レヴィ=ストロースそのものの内に、文化人類学というものの命脈のうちにあったのである」(292頁)と述べることで、ある種の「美」的なものの擁護という、ややもすれば反動的にもみえる結論へと至りつく。柳澤が強く主張したのはこの結論への違和感だ。人類学の宿痾であるかもしれぬ「美」の肯定からレヴィ=ストロースを擁護し、そのコンテクストにおいてみずからの「生の人類学」を位置づけるという理路は、結局はロマンティシズムの誹りの免れないのではないか。またそれは、「異質」な文化の美的消費という点で、サルトル的実存主義とは別のかたちでの西洋中心主義と言うべきものではないのか。

このように本書への批判を展開したうえで、柳澤は以下の3点の疑問を相田にぶつける。すなわち、「「孤独」は実存の問題ではないのか?」「「孤独」による個体化は、⻄洋近代的な意味での「個⼈」化と同じなのか、違うのか?」「相⽥の⼈類学研究において「⻄洋」はどのように相対化されているのか?」。

柳澤の問いに、相田はまず関係性を標榜するはずのレヴィ=ストロースの人類学にもまた個別の「価値の当て込み」は存在するのだとあらためて確認し(これは本書291頁で論じられていることでもある)、それを「ロマンティサイズの作業」でもあると認めたうえで、大切なのはその「当て込み」を何に向けるのかだ、と応答する。だとすれば、その「「当て込み」をめぐるロマンティサイズ」とは、「西洋近代」の眼差しそのものではないのか。相田はその点に対して「「西洋近代批判」批判」というメタ的な議論で応答する。ラテンアメリカは西洋近代と対置されるものではなく、文化史を振り返ればさまざまな点で西洋近代をかたちづくってきたものでもあるだろう。さらに相田はマーク・フィッシャーを引きつつ、「西洋近代音楽」という枠組みすらいまや砂上の楼閣のようなものではないのか、と語る。これは、柳澤の問いにあった「相対化」することの問題化すらもが現在においては偽問題なのではないか、という反問とも捉えられようし、「批判」という身振りそれ自体への、現在の人類学者としての反省とも受け取ることができるだろう。相田の周到かつ率直な応答への評価はさまざまであろうが、孤独と関係論との接続をめぐる細馬の問いへの応答において相田が提示した「多なる身体を一身に兼ねている」フォルクローレ的身体の問題と重ね合わせてみることで、美なるものへの自堕落な耽溺とはまた別のかたちで「ロマンティサイズ」を展開する可能性が開けるのではないか、という予感を抱いた。

アネクドタをめぐるアネクドタ的な思考の痕跡としての本書を3人の評者それぞれが大いに楽しみまた評価しつつも、複数の専門的背景からの鋭い問いが提出され、またそれに可能なかぎり誠実でまた内容のある回答がなされたこのセッションは、当日の司会を務めた筆者にとっては大きな知的愉悦をもたらしてくれるものであった。議論についての「行司」的な感想を述べることは──現在の筆者では力不足でもあり──ここでは控えておこう。個別の専門性に回収されることなく、しかし時に学際的な場が陥りがちな散漫さとは無縁の議論となったことは、相田によるこの一冊の持つ複数的な魅力がそれぞれに射程の深いものであったことの反映であろうし、その意味で「人類学」をそのタイトルに冠したこの一冊が、表象文化論学会という場にふさわしいものであったことをあらためて認識する時間になったと思う。

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広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、菊間晴子、角尾宣信、二宮望、井岡詩子、柴田康太郎
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2026年2月28日 発行