2025年12月20日(土)
13:30-15:00
星野太『崇高と資本主義 ジャン=フランソワ・リオタール論』(青土社)
鈴木亘『声なきものの声を聴く ランシエールと解放する美学 』(堀之内出版)
星野太(東京大学)
鈴木亘(東京大学)
仲山ひふみ(東京大学)
郷原佳以(司会:東京大学)
第16回表象文化論学会学会賞を受賞した星野太『崇高と資本主義 ジャン=フランソワ・リオタール論』(青土社、2024年)と奨励賞を受賞した鈴木亘『声なきものの声を聴く ランシエールと解放する美学』(堀之内出版、2024年)をめぐる書評パネルが行われた。この二著にはいくつもの接点がある。リオタールとランシエールが関わりの深い思想家であることは言うまでもないだろう。二人は美学と政治の問題に取り組んだ貴重なフランス現代思想家であり、パリ第8大学の同僚でもあった。そればかりか、ランシエールは各所でリオタールに論及しており、その崇高論には批判的な論考を著している。そして崇高論は星野氏の著書の主題であり、鈴木氏の著書はランシエールによるその批判に一章を割いている。というわけで、お二人に相互批評をしていただくのは大いに有意義であると思われた。当日は、著者による自著解説、相互評、郷原佳以と仲山ひふみによるコメント、著者からの応答、会場質疑、という順で進められた。以下、それぞれの概要を報告する。
[星野氏の自著解説]
『崇高と資本主義』は全体が二部構成である。第Ⅰ部で示されるのは、第一に、リオタールの崇高論には1)呈示不可能なものの呈示と2)呈示によるショックの美学の二系列があり、1)には限界があるが2)には可能性が見出せること、第二に、リオタールにおいて前衛芸術と資本主義は共に、われわれを「非人間化」し「非物質化」する「崇高な」ものを担っているという点で共犯性を有しているということである。したがって、リオタールが前衛芸術に託す資本主義批判は、資本主義のうちにとどまりながら、その「敵」の武器を用いて行われるものである。第Ⅱ部で示されるのは、1980年代のリオタールのテクストや企画展覧会と近年の加速主義などの思想との関係であるが、加速主義については、たとえリオタールの一部の思想が加速主義と似通って見えるとしても、掌握不可能な内なる「幼年期」に耳を傾ける必要性を認める限りにおいて、そこには決定的な隔たりがある。

[鈴木氏の自著解説]
『声なきものの声を聴く』では、ランシエールの美学・芸術思想が有する独自性と意義とを浮き彫りにするため、ランシエールが他の思想家・芸術家をどのように批判ないし再解釈し、自身の立場を際立たせているか、という観点からテクストを分析した。ランシエールにとって政治的実践とは「感性的なものパルタージュ(分配)」の再編成としての解釈行為であり、これを彼は過去や同時代のテクストを解釈し、論じることで、自ら実践しているからである。現代アート、映画、音楽といった個別のテーマにおいてではなく、横断的にランシエールの解釈を検討することで、その解釈行為を浮き彫りにすることを目指した。

[星野氏と鈴木氏の相互評]
星野:『声なきものの声を聴く』は、通常ランシエールの美学として取り上げられる2000年代以降の著作だけでなく1980-90年代の著作も含めた包括的な研究である。また、現実的なもの、日常的なものに着目する思想家というランシエールの特徴を浮き彫りにしている。他方で、以下の疑問を抱いた。ランシエールの「不和(mésentente)」とリオタールの「抗争(différend)」を始め、両者の問題意識はかなり似通っている。ランシエールのリオタール批判の背景にも両者の近さがあるのではないか。
鈴木:リオタールとランシエールの問題意識が近接しているのは間違いない。リオタールの崇高論に対するランシエールの批判が、星野氏が読み取ったリオタール自身の崇高論の転回と関わっていたように、両者の結節点は、両者の思想的転回可能性の萌芽として読むのが生産的だと考える。『崇高と資本主義』については、リオタールに適切な距離を取り、「資本主義」などのリオタールの諸概念に両義性を見出しているところに独自性がある。
[郷原のコメント]
『崇高と資本主義』は、リオタールの崇高論に二系列あるとし、崇高論1はカントに依拠し、呈示不可能なものがあるということの否定的呈示に崇高を見出し、崇高論2はバークに依拠し、自らを呈示する出現そのものによって、対象化されえない「非物質的質量」の現前が構想力を宙吊りにする作用に崇高を見出すとする。そのうえで、崇高論1に「致命的な問題」を認め、崇高論2に可能性を見出そうとする。ここから二点の疑問が生じる。第一に、崇高論1が否定されるとすると、それについての第2章2節までの議論は本書でどのような位置づけなのか。第二に、崇高論1も崇高論2も1980年代の同時期のテクストに見出され、とりわけ『ハイデガーと「ユダヤ人」』は双方で根拠とされている。このことをどのように考えたらよいか。
崇高論1の「致命的な問題」として、ホロコーストに対する理論的立場、「呈示不可能なもの」がもつ構造的隘路の二点が挙げられており、前者はクロード・ランズマンの立場に強い賛同を示したことを指している。しかし、リオタールに「ランズマンへの追随」や「『ショア』神学」まで見るのは正当だろうか。ユダヤ人大虐殺をめぐるリオタールの発言は表象の禁止を求めるものではなく、むしろ『文の抗争』から映画についての考察が始まる場合もある。『文の抗争』などのリオタールの著作の背後には歴史修正主義の台頭という文脈があり、「否定神学的」という語で一概に批判対象にはできないのではないか。
『声なきものの声を聴く』は、様々な対象を論じた批評の読解を通して、ランシエールが首尾一貫して「美的な平等」という「革命」を重視していることを明らかにしている。ただし、ランシエールのマラルメ論やフローベール論にはテクスト読解に強引なところも見られるのではないか。

[仲山氏のコメント]
『声なきものの声を聴く』について。ランシエールは感性的なものの既存の境界線をずらす行為を政治としているが、分割線が作られる以前の平等な状態を想定しているように思われる。本書はランシエールが超越や他者、無限、絶対、外部といった彼岸的諸概念の特権化に対して批判的に距離をとり、現実的なもの、日常的なものを重視しているとするが、これは内在性の美学と言い換えることも可能だろうか。
ランシエールにおいて感性の平等な分配という主張を支えている根拠はどこにあるか。そこには、「自然的」な連続性が暗に前提されているのではないか。とすると、ランシエールの議論も自然的な分割と人為的な分割の対立という構図に暗に依拠していることになる。本書第2章のシラー論読解で示されているように、ランシエールはカントの美的無関心性の美学を評価しているが、18世紀美学において美を判定する能力の平等性は自然の目的論――自然の最終目的としての人間が、さらに究極目的としての実践的自由=道徳法則の担い手になるというヴィジョン――のもとで保証されている。18世紀美学を持ち込むことで、ランシエールの美学はある種の人間本性論になっていないだろうか。いかにして目的論と手を切りつつ、美に関わる感性的能力の平等性を擁護しうるのだろうか。
『崇高と資本主義』について。リオタールの「崇高」概念における「呈示不可能なものl’imprésentable」はカントにおける理念の表出不可能性を受けたものだが、カントにおいて感性化を指す「表出する darstellen」とその仏語訳としての「現前化する présenter」の間には依然として意味上のギャップがあるのではないか(感性化できない純粋悟性概念も呈示/現前化はされうる)。リオタールの「呈示不可能なもの」を「感性化不可能なもの」として理解するならば、「呈示不可能なものの呈示」を目指す「前衛」は、カント的意味での「理念」だけでなく「純粋悟性概念」の芸術的な表現をも目指しているという解釈の余地が生まれる。この点でリオタールが「前衛」として取り上げた一部の抽象絵画やコンセプチュアル・アートなどは、いわば「理念の手前にある普遍者」の感性化を目指していると言えるのではないか。

[著者応答]
星野:[崇高論1についての第2章までの議論はどのような位置づけなのかという疑問に対して:]崇高論1は従来、抽象絵画論としてしか理解されてこなかった。それに対して本書では、崇高論1がアドルノの否定弁証法の継承と発展であることを明確にした。[同じテクストから崇高論1と2が両方出てくることについて:]二つのセリーは同じテクストのなかにも混在しているが、腑分けすることによって本書の議論が可能になった。[リオタールがランズマンに追随しているとするのは言いすぎではないかという指摘に対して:]ディディ=ユベルマン×ランズマン論争やランシエールのリオタール批判の図式に引きずられたところはあった。[darstellungとprésentationにギャップがあるのではないかという指摘に対して:]意味上の差異があるのはその通りである。フランス思想においてカントの語彙は微妙にずれた形で使われているが、それ自体を翻訳のもたらす生産的な議論として尊重してリオタールを読解した。
鈴木:[ランシエールのテクスト読解に対する批判意識が見られないという指摘に対して:]ランシエールに対して距離を取り両義性を指摘するといったことが難しかった。他方で、マラルメなどをあえて牽強付会な仕方で読解するランシエールの手つきに彼の言う解釈の政治の実践を見ることができることを示そうとした。[内在の美学と言えるのではないかという指摘に対して:]ランシエールは超越/内在の対立図式ではないところで非超越的なものとしての「日常的なもの」へ向かおうとしたと考える。
[会場質疑と応答]
『崇高と資本主義』ではリオタールの崇高論の二系列のうちカントに依拠した崇高論よりもバークに依拠した崇高論に可能性を認めており、かつリオタールの崇高論に資本主義への抵抗を見ているということだったが、政治思想的にはバークは仏革命の共和政に反対した保守主義であり、ねじれがあるように思われる、という指摘が会場の石岡良治氏からあり、星野氏はその点に同意した。
政治と美学という共通する問題意識を持つ二人の思想家をめぐる議論を通して、共通性が大きいからこそ、崇高と美をめぐる彼らの立場が鮮明になると共に、彼らの後で思考すべき論点も多々浮かび上がってきた書評パネルであった。