研究発表2
2025年12月20日(土)
10:00-12:40
10:00-10:35 エドガー・アラン・ポーの探偵小説を「文字」と「音」のズレから考える/朴舜起(北海道大学)
10:40-11:15 逸脱する記号──マーサ・ロスラー『キッチンの記号論』(1975年)試論/浜崎史菜(国際基督教大学)
11:20-11:55 殺さず、壊さず──バーバラ・クリードの非暴力的モンストラス・フェミニン論再考/石田由希(西南学院大学)
12:00-12:35 「尾崎豊」の歌詞(テキスト)の表象の創出と、社会及び他者の受容との往還の検討/鈴木祐啓(中央大学)
司会:髙村峰生(関西学院大学)
本研究発表では、4人の登壇者が文学、ビデオアート、フェミニズム批評、ポピュラー音楽について発表を行った。それぞれ25分の発表のあと、司会者の髙村が論点の整理を行いつつ、10分ほどの質疑応答の時間を設けた。以下、登壇者の順に発表内容をまとめる。
最初の発表者の朴舜起氏は、ポーにおける探偵小説が事件の「深層」を暴くだけでなく、「表層」のことば遊びに満ちていることに注目した。ヒエログリフを表意文字ではなく表音文字であるという点に注目して解き明かしたシャンポリオンをポーが称賛していたことに注意を喚起しつつ、朴氏は短編作品「息の喪失」における声を奪った者と妻の不倫の関係性、また別の作品「盗まれた手紙」における「大臣」を苦しめる音と文字の分離など、プロット上の音声の重要性を具体的なテクストの細部の読解とともに明らかにし、さらには探偵小説の起源と音声の不可視性・匿名性を結びつけた。また、ポー自身の創作の原理としても音声(およびその喪失)が重要であることを、作中の言葉を引用しながら指摘した。

二人目の登壇者である浜崎史菜氏は、マーサ・ロスラーの『キッチンの記号論』というビデオ作品を分析の対象とし、女性性と制度的・習慣的に結びついてきたキッチンという場に立つロスラーが料理番組の形式だけ引き継ぎながらそれを暴力的に異化することで、笑いと衝撃を結びつけるような記号的な攪乱を行っているということを、ジュディス・バトラーなどのフェミニズム理論を参照しつつ示した。キッチンという馴染みのある「女性的な」場へと視聴者を誘い込み、それが記号論的に持っている日常性や安心を異化することで権力の場を露呈するというロスラーの「おとりの戦略」を紹介した。また、この作品ではロスラー自身が身体によってAからZまでの文字を表現して見せることで、「書き込まれる性」の側からアルファベットという「父の法」を批判しているという指摘を行った。

三人目の登壇者である石田由希氏は、映画研究者のバーバラ・クリードによる1993年の著作『モンストラス・フェミニン』と、その概念を引き継ぎアップデートした2022年の著作『リターン・オブ・ザ・モンストラス・フェミニン』を比較しながら、その概念の拡張について批判的に考察した。『モンストラス・フェミニン』はそれまで男性性とのみ結びつけられていた怪物性を女性性と結びつけることで、「被害者」としての女性の位置をずらし、「アブジェクト」概念と結び付けることで女性嫌悪の表象可能性に光を当てた画期的な著作であったが、『リターン』においてはその適用範囲が広げられ、暴力的でも怪物的でもない『アシスタント』、『キャロル』、『ノマドランド』などに現れる、社会の保守的な規範に対する違和感を持つ女性や、同性愛者、アウトサイダー的傾向のある自立した女性などに幅広く当てはめられている。非暴力的な抵抗を示す女性キャラクターを同じ概念に包摂することは、概念そのものの希薄化・曖昧化をもたらすのではないかと石田氏は主張した。

四人目の登壇者である鈴木祐啓氏は尾崎豊の作品とその受容のされ方について、計量社会学的な視点も取り込みながら、作者に立脚した視点と受容理論を往還しつつ議論を展開した。特に1987年12月22日に尾崎が覚醒剤取締法違反の容疑により逮捕、実刑されたという出来事に注目し、この前後の時期を「前期」と「後期」に分けて考察を進めた。鈴木氏は「十五の夜」など「前期」の作品においては尾崎が自らの経験を聞き手にもわかりやすいように編集しなおしたのに対し、「Cold Jail Night」などの「後期」の作品では、自らの体験をそのまま言葉にしており、聞く側に難解な印象を与えるものが増えていると指摘した。また、「後期」作品を分析しながら、「日常生活における自分」の役割と「音楽活動における自分」の役割との間に役割「葛藤」が生じている、と指摘した。
それぞれの発表については、議論の難解な個所やコンテクストの情報について司会者が発表者に質問しつつ、論の整理に努めた。また、オーディエンスの方々からの質問の一つとして、鈴木氏に対してポピュラー音楽研究において歌詞を独立して取り出して分析することの意義が問うものがあった。鈴木氏は、アーティストの歌詞研究と作詞家の歌詞研究には違いがあり、前者にはアーティストの生き方や考え方が反映される傾向があり、作詞家の歌詞は商品化を踏まえたプロフェッショナルな観点から作られている面があると応答した。
それぞれに論点の明確な、興味深い発表であった。登壇者の今後の研究の発展を願いたい。
エドガー・アラン・ポーの探偵小説を「文字」と「音」のズレから考える/朴舜起(北海道大学)
エドガー・アラン・ポーは推理小説という形式をいかに着想したのか。Shawn Rosenheimによれば、ポーが度々関心を寄せていた暗号解読(言語の記号的な読解)が彼の推理小説における分析に強い影響を与えたのだという。しかし、本発表が注目するのは言語同士の関係(暗号)ではなく、言語そのものの関係(「文字」と「音」)である。『モルグ街の殺人』冒頭、探偵デュパンは自身の分析を説明する際、「初めの文字は昔の音を失えり」というラテン語の詩句を引用するが、この詩句に示される「文字」と「音」のズレは作中で殺人犯をめぐる「言葉」と「鳴き声」のズレとして再現され、事件の真相へと関与する。であれば、件の詩句はデュパンの分析を「文字」と「音」のズレから先立って指し示していたことになる。
その場合、ポーは『モルグ街』以前から既にそのことを意識していたという可能性が疑える。初期短編『息の喪失』では声(音)を失ったという男が描かれるが、男はある場面で「死」について「書くこと」をやめておこうと述べる。声という主題から言って不自然な書くことへの言及(なぜ話すことではないのか)。この「音」と「文字」のズレは、しかし後に『モルグ街』で繰り返されるデュパンの分析の萌芽だったのかもしれない。従って本発表ではこの『息の喪失』へと後にデュパンに意識化される言語的ズレを先んじて見出し、これをポーが後に自身の推理小説において示すこととなる分析法の原型として考察したい。
逸脱する記号──マーサ・ロスラー『キッチンの記号論』(1975年)試論/浜崎史菜(国際基督教大学)
本発表では、マーサ・ロスラーのビデオ映像作品『キッチンの記号論』(1975年)における記号の逸脱と撹乱的笑いに注目をする。本作品においてロスラーは、料理番組のパロディとして、AからZのアルファベット順にキッチン用品を紹介する。しかし、不協和音と攻撃性を伴ったそのデモンストレーションは、キッチンに付与されたストレートな意味を逸脱させていく。それは、家父長制において象徴化されたキッチンと女性という記号を撹乱的に引用することで、それらの記号の規範性を露わにする。オーガスト・ジョーダン・デイヴィスやシルヴィア・アイブルマイヤーらが先行研究にて論じ、示唆するように、作品の終盤でロスラーが自身の身体を用いて文字通りの記号(V、W、X、Y、Z)となることで、「父の法」による記号化のプロセスをパロディ的に再演するが、それは同時に、家父長制によって書き込まれた記号へと還元されることへの抵抗、そして、まさに、その支配の不完全さを示していると言える。これらの先行研究の分析に加え、本発表は、ジュディス・バトラーによる「笑い」とモニク・ウィティッグの言語の存在論的暴力性(あるいは言語の矛盾)に関する読みを援用することで、『キッチンの記号論』を、規範としての「父の法」による物質化に撹乱的笑いを伴いながら抗う作品として理解をする。自身に先行する形で存在する記号(言語)の暴力性を模倣することで、そのシステムにノイズを生じさせるロスラーの本作品は、ウィティッグが論じるジェンダーの「存在論的ジョーク」をパフォーマティヴに再演し、記号の逸脱と不安定化を図っている。
殺さず、壊さず──バーバラ・クリードの非暴力的モンストラス・フェミニン論再考/石田由希(西南学院大学)
バーバラ・クリードのThe Monstrous-Feminine: Film, Feminism, Psychoanalysis(1993)は、ホラー映画の怪物的女性を「モンストラス・フェミニン」と名づけ、その表象に女性身体に対する男性中心主義的な恐怖を看破した。だがその後、同書の第2版(2024)増補部とクリードのReturn of the Monstrous-Feminine: Feminist New Wave Cinema(2022、以下Return)は、主に女性監督たちによる映画群がこのキャラクター像をエンパワリングな抵抗の主体に変容したと指摘しており、その系譜は現在も更新され続けている。
本発表では、Returnの第4章が、『キャロル』(2015)、『アシスタント』(2019)、『ノマドランド』(2020)の殺傷や物理的な破壊を行わない主人公を「モンストラス・フェミニン」の概念に包摂した点を読み直す。この柔軟なラベリングは批評的に重要である一方、暴力性を欠くキャラクターの包摂は概念の輪郭を曖昧化しうる。これらの主人公たちは、非暴力的行為や関係性の構築を通じて規範に抗うため、“gentle deviants”や“tender rebels”といった新たな枠組みで捉える必要があるのではないか。本発表は従来の理論的枠組みの限界を踏まえつつ、語彙更新の可能性を探る。
「尾崎豊」の歌詞(テキスト)の表象の創出と、社会及び他者の受容との往還の検討/鈴木祐啓(中央大学)
本発表は「尾崎豊」の歌詞を、社会や他者が与える要因から捉え直し、歌詞から発現する表象の創出と、受容する他者の解釈との往還を分析する試みである。
「テキスト」解釈の先行研究として、ロラン・バルト(1979)やポール・リクール(1985)によるテクスト論、現象学的解釈など「テキスト主義」に依拠した、物語の「テキスト」の読み解き方があり、歌詞の学術研究では、例えば国内にて池澤和希(2015)、定村薫(2019)による計量分析やテキストマイニングによる研究はあるものの「テキスト」解釈に関しては音楽評の域を出ず、歌詞において社会や他者との関係がどのように生成され、アーティスト自身の自己理解が変容するのかという点までは十分に論じられていない。
本発表ではアーティストの外環境から「テキスト」を照射するべく、ハワード・S・ベッカー(1963)の「ラベリング理論」やE・ゴフマン(1959)の「役割理論」を、関係性可視化の方法として援用する。その意義は、歌詞をアーティストの心理過程としてだけではなく、社会的相互行為の生成過程との往還として分析する可能性を提示する点にある。
ここで研究の対象として「尾崎豊」を採りあげるのは、活動時期が3、40年前であることから、検討において照射に資する時代考証が固まっていることや、すでに存命しないことで本人のバイアスがかからない客観的な二次的資料が数多く出ており、より検証の精度が高くなること等が、その理由である。