研究発表1
2025年12月20日(土)
10:00-12:40
10:00-10:35 アニメ『ほしのこえ』に表れる思春期の生きづらさを記述する──映像編集のされ方を中心に/天野広樹(一橋大学)
10:40-11:15 日本のドキュメンタリー映画の劇場上映を再考する──1980〜1990年代の上映実践から/中村洸太(京都大学)
11:20-11:55 〈メタ映画〉の創造性と批評性──『語りかける庭』における映像編集と執筆の往還から/澤崎賢一(総合地球環境学研究所)
12:00-12:35 旅するファム・ファタール──ハリウッド・ノワールの女性像は中国大陸映画でいかに翻訳/反転されたか/蘇奕仙(一橋大学)
司会:角井誠(早稲田大学)
研究発表1では、映画やアニメーションをめぐって四つの発表が行われた。以下に、各発表の概要を報告する。
天野広樹氏は、新海誠の『ほしのこえ』の冒頭部分の分析を行った。列車や集合住宅の階段などにひとり佇む「女子生徒」の孤独なモノローグを描く一連のシークエンスが示された後、それが天野氏にいかなる「心的状態」をもたらしたかが語られた。天野氏によると、冒頭のシークエンスが与えたのは「大きな不安」であったという。とくに、「世界、っていう言葉がある。わたしは中学のころまで世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって漠然と思っていた」という台詞が3つのショットにまたがっており、それらのショットが「ちぐはぐ」で違和感をもたらす点が強調された。そのうえで、不安に押しつぶされながらも画面上に生き残り続ける女子生徒の姿に「よろこび」を見出すことで発表は締め括られた。質疑応答では、もう一人の主要人物である男子生徒について質問がなされるとともに、「情動の記述」へと展開する可能性が示唆された。

続く中村洸太氏の発表では、1980年代におけるドキュメンタリー映画の上映形態の変化が検討された。1960年代から70年代にかけてのドキュメンタリー映画は、非劇場の「ライブ空間」において自主上映されたのに対して、1980年代以降、ドキュメンタリー映画もミニシアターなどで劇場公開されるようになる。中村氏は、その「転換点」となったのが、羽田澄子の『早池峰の賦』(1982)と小川伸介の『ニッポン国古屋敷村』(1982)であったと指摘した上で、羽田澄子の事例について詳細な検討を行った。岩波ホールにおいて劇場公開された『早池峰の賦』は、女性ドキュメンタリー映画作家の地位向上とともに、ドキュメンタリー映画そのものの地位向上が賭けられた事件であったという。また『痴呆性老人の世界』(1986)、『安心して老いるために』(1990)では、劇場公開と並行して、各地の上映団体で非劇場での自主上映が展開し、「ライブ」空間が再発見されていった点が明らかにされた。質疑応答では、1950年代に洋画配給網で劇場公開されたドキュメンタリー映画との関連についての質問や、発表内で触れられた岩波ホール、シネヴィヴァン六本木以外のミニシアターについての質問が寄せられた。中村氏からは、ユーロスペースや吉祥寺バウスシアターも大きな役割を果たしていた点が述べられた。

アーティスト、映像作家、キュレターの澤崎賢一氏の発表では、自作の『語りかける庭』を題材に、同氏が「メタ映画」と呼ぶ方法について検討された。『語りかける庭』は、京都福知山の観音寺の庭の作庭の過程を、庭師、住職、研究者の三つの視点から描く作品で、展覧会で上映されている。澤崎氏は、同作を庭の内部で完結しない、外部へのアクセスに開かれた構造をもつ作品として再編集しようとしているという。発表では、そのための原理(対比、共鳴、ズレ)について説明がなされた。また、実践と執筆の往還の必要性についても強調された。以上を通して、「メタ映画」を、「制作・編集・受容を連続体として扱い、さらに編集と執筆の往還を前提に、映像的構成と⽂筆的構成を相互翻訳する方法」としてアップデートすることが試みられた。質疑応答では、澤崎氏のいう「メタ映画」は語の一般的な用法とは異なるという指摘や、日本以外の庭を対象とした場合、どのような作品になるのかという質問がなされた。澤崎氏は、フランスの哲学者・庭師であるジル・クレマンを題材とした作品も作っているものの、庭の専門家として作品を作っているわけではなく、自分の関心はむしろ様々な題材を「同じ手法」で扱うことにあると応答した。

蘇奕仙氏の発表では、近年の中国映画における「ネオ・ノワール」もの、とりわけディアオ・イーナンの『薄氷の殺人』(2014)や『鵞鳥湖の夜』(2019)が、ハリウッドのフィルム・ノワールをいかに「翻訳」、「反転」しているかが分析された。まず伝統的なフィルム・ノワールが欲望や誘惑を強調するのに対して、中国のノワールでは、計画経済から市場経済への移行に伴う諸問題が焦点化されるという点が、先行研究を参照しつつ確認された。そこでは、ファム・ファタルは性的な誘惑者であるよりも、悲劇の犠牲者として再配置されるという。『薄氷の殺人』においては、ファム・ファタルは、性的な要素が希薄な、クリーニング店で働く「労働者」として描かれる。『鵞鳥湖の夜』については、「誘惑」や「破滅」よりも「取引」、「生存」が主題化されており、生き残った女性たちの「連帯」(シスターフッド)が描かれることが指摘された。質疑応答では、そもそも「フィルム・ノワール」が批評・研究によって事後的に構築された特異なジャンルであり、それに伴う扱いにくさをもつ点が指摘されるとともに、女性の連帯というモチーフがどこまで監督によって意図されたものであるのかについて質問がなされた。蘇氏は、『鵞鳥湖の夜』は架空の都市を舞台としており、より作家性、フィクション性が強い作品であり、ジェンダー表象の転倒を意識的に押し進める作品であると応答した。

アニメ『ほしのこえ』に表れる思春期の生きづらさを記述する──映像編集のされ方を中心に/天野広樹(一橋大学)
東浩紀は『セカイからもっと近くに』(2013)で、オタク系文化、とりわけアニメ映像を批評する際に用いる語彙は、映像と社会との関係を重視する映像の外在論と強く結びついており、実際のアニメ映像がどう表れているかといった映像の内在論は議論の射程外であると表明している。
ところで、アニメ映像批評において、新海誠『ほしのこえ』(2002)の「世界、って言葉がある。私は中学の頃まで、世界っていうのは携帯の電波が届く範囲なんだって漠然と思っていた」というセリフが、思春期の生きづらさを強調する「セカイ系作品」を代表するものとして言及されることがある。このとき、セリフはひとまとまりで、映像がどう表れているかとは無関係に引用されるのが常である。
本発表では、先のセリフを含む『ほしのこえ』冒頭2分間を克明に記述する。内在論的アニメ研究で名高いトーマス・ラマール『アニメ・マシーン』(原著2009、邦訳2013)の「アニメティズム論」では、積み重ねたアニメのセルを撮影する操作を重視するが、それらがひと続きのシークエンスとなった後の映像編集にはほぼふれていない。一方で本発表では、先のセリフが3つのショットにまたがって発せられている点を重視し、画面そのものの動き、カッティング等、映像編集のされ方を記述の中心にすえる。この内在論的アプローチにより、思春期の生きづらさの根拠を『ほしのこえ』の映像そのものから導出する。
日本のドキュメンタリー映画の劇場上映を再考する──1980〜1990年代の上映実践から/中村洸太(京都大学)
本発表は、1980年代後半から1990年代前半にかけての、常設映画館におけるドキュメンタリーのロードショー上映の広がりに注目し、非劇場上映から劇場上映への移行の意味を問う。1960年代後半以降、小川紳介や土本典昭をはじめとするドキュメンタリー映画の作り手たちは、社会運動とも密接に結びついた非劇場での自主上映運動を展開し、日本のドキュメンタリーは活況を呈した。阿部マーク・ノーネス(2007)や田中晋平(2020)らが明らかにしてきた通り、こうした上映の場は、映画の鑑賞行為だけでなく、上映前後や上映中の制作者・上映者・観客間のコミュニケーションやパフォーマンス、空間演出を含めて成立する、いわば「ライヴ」な空間だった。
1980年代、社会運動に支えられた自主上映は下火となり、ミニシアターが広がりを見せるにつれ、非劇場で作品を流通させていた作り手たちのドキュメンタリーが、「異例のロードショー」として常設劇場でも一般公開され始める。その代表例は、原一男の『ゆきゆきて、神軍』(1987年)と、佐藤真の『阿賀に生きる』(1992年)である。一見すると反「ライヴ」的な劇場上映への回帰はいかなる条件の下で成立したのか。また、非劇場上映をルーツとする作り手たちは、劇場上映に何を見出したのか。2010年代以降のデジタル化と自主上映の再評価にも目を向けることで、現在に至るまでの劇場・非劇場上映の併存のもつ課題と可能性を検討していく。
〈メタ映画〉の創造性と批評性──『語りかける庭』における映像編集と執筆の往還から/澤崎賢一(総合地球環境学研究所)
本発表は、制作と受容を同一地平で記述する〈メタ映画〉の方法を、拙作『語りかける庭』を事例に検討する。制作過程・編集判断・展示時の反応といった限定的記録を横断し、発信者/受信者・制作者/鑑賞者の境界が攪乱される現代条件に即して、制作実践に基づく研究(practice-based research)の妥当性を示す。ここでいうpractice-based research は、作者の関与を前提に手続き(記録・根拠・判断過程)を公開し、検証可能性を担保する研究法を指し、自己言及的手法を包含する。
分析の軸は「対比」「共鳴」「ズレ」の三原理とし、対比によって複数視点の同時性を立ち上げ、共鳴によって音・身振り・言い換えが意味を相互変調させ、ズレによって解釈の遅延を生じさせる過程を示す。 方法の核は映像編集と執筆の往還である。映像編集を素材配置による記述、執筆を概念配置による編集と捉え、往還が両者を相互更新し、両者をセットで一つの作品=批評として提示しうることを示す。
運用指針は、(1)立場性の明記、(2)オルタナティブな読解の併走、(3)意図と考察の仕分けの三点とする。実質的に匿名化が困難な領域では、立場の開示と手続の可視化を通じて透明性を確保する。以上により、「知はつねに更新可能である」という前提のもと、実践と記述の往還が生み出す創造性と批評性を可視化しつつ知を提示する有効性を論じる。
旅するファム・ファタール──ハリウッド・ノワールの女性像は中国大陸映画でいかに翻訳/反転されたか/蘇奕仙(一橋大学)
本発表は、ハリウッド・ノワール由来のファム・ファタール像が中国大陸のネオノワールにおいていかに翻訳(受容・転用)され、同時に反転(脱神話化・再配置)されるかを、具体的場面分析にもとづき再記述する。主要テクストは『白日焔火/薄氷の殺人』(2014)と『南方車站的聚会/鵞鳥湖の夜』(2019)である。先行研究は、前者がノワールの定型を中国的文脈で修正し、ファム・ファタールの中心性を相対化する点、後者がその相対化をさらに進める点を指摘する(Zhou 2024;Hou 2022)。本発表はこの議論を、ミザンセーヌの反復的モチーフ(喫煙/水辺/夜景照明)にミクロに着地させて検証する。方法は三段階──①1990年代以降のノワール文法の流入と本土化の確認、②シーン/ショット単位で視線・身体・労働の記号化を読み解く、③検閲や産業条件と連動し、官能や「危険」の焦点が女性の身体から治安・労働・規制といった装置へと移行のメカニズムの特定、である。
結論として、中国大陸ネオノワールは〈誘惑=破滅〉の神話を単に否定するのではなく、ファム・ファタールの「致命性」を生存取引・都市空間・制度的臨界へ再配置することで、女性主体の可視化/抑制の二重過程を作動させる。『鵞鳥湖の夜』の劉愛愛にみられる「ファム・ファタール→生活者」への転化(官能の罠から生存の取引への置換)は、その代表例である。
本発表の目標は、ハリウッドの規範が中国大陸でいかに翻訳→反転(脱神話化)されたかを形式面から可視化する点にある。あわせて、『白日焔火』を軸にノワールの定型の修正とファム・ファタールの脱神話化を再検討し、華語圏映画-ハリウッド関係の最新議論へ接続する。