研究ノート

バルザック『ピエール・グラスー』における6人の師匠たち

山口詩織

はじめに

1839年にバルザックが書いた小説『ピエール・グラスー』は、フジェール出身の才能の無い画家ピエール・グラスーが、巨匠の模倣を重ねるうちに、ブルジョワ階級に気に入られ、肖像画家として名を馳せていく物語である。

先行研究では、主人公のモデルの同定、バルザックの『知られざる傑作』やスタンダールの『フェデール、または拝金亭主』との比較などが議論の焦点となってきた。一方、架空の物語の中に実在の人物を組み込んでいくバルザックの手法は広く知られているにも関わらず、『ピエール・グラスー』に登場する実在の画家に着目した研究は未だ検討の余地がある。

本作にも、実在の画家が用いられる箇所が複数見られるが、その中の一つに、グラスーの受けてきた教育歴に関する以下の一節がある。

彼は、アカデミーの世界で偉大な素描家として見なされていたグランジェのもとで、弟子としてデッサンを学んだ。
やがて、フジェール〔=ピエール・グラスー〕はグロのところへ赴き、この師匠ならではの、力強く見事な色彩の秘密を我が物にしようとした。しかしそこは、師匠も弟子たちもみな口が堅く、ピエールは何一つ掴むことができなかった。
さらに、フジェールはルティエールのアトリエへ移り、構図と呼ばれる芸術の一分野に馴染もうとした。けれども彼には、構図を扱いこなすことができず、手懐けることも叶わなかった。
その後フジェールは、グラネーや老ドローリングから室内画における効果の神秘を盗み取ろうとした。この二人の師匠からは、何も盗めなかった。
最後に、フジェールは、デュヴァル・ル・カミュのもとで教育を終えた。*1

*1 Balzac, Honoré de, “Pierre Grassou.” Babel: publication de la Société des gens de lettres Tome 2, Paris; Librairie Jules Renouard et Cie, 1840, p. 374. 本作品を含め、仏語文献の邦訳はすべて執筆者による。

本研究ノートでは、この一節が、バルザックの生前に出版された二つの版(初版とFurne版)において、六人の師匠の名がいかに変更され、実在の画家がどのように用いられているのかを検討したい。

1:初版『ピエール・グラスー』に登場する画家

先の引用は、文芸家協会の資金集めを目的として会員たちの作品を集めたアンソロジー『バベル』に収録された『ピエール・グラスー』初版の一節である。

この箇所でバルザックは、グラスーの師匠として、①グランジェ(Jean-Pierre Granger, 1779-1840)、②グロ(Antoine-Jean Gros, 1771-1835)、③ルティエール(Guillaume Guillon-Lethière, 1760-1832)、④グラネー(François Marius Granet, 1777-1849)、⑤ドローリング(Martin Drolling, 1752-1817)、⑥デュヴァル・ル・カミュ (Pierre Duval Le Camus, 1790-1854)という実在の画家の名前を、先に示した一節を用いて列挙する*2。その際バルザックは、グランジェにはデッサン、グロには色彩というように、各々に異なる得意分野を付している。ただし、デュヴァル・ル・カミュのみ、得意分野は示されない。

*2 初版の画家を指す場合には、①~⑥の記号を用いる。

もっともグラスーは、グランジェの下では「学んだ」とされるにとどまり、教えが身に付いたかどうかは示されない。グロの下では「何一つ掴むことができなかった」とされ、ルティエールの教えもグラスーにとっては「扱いこなすことができず、手懐けることも叶わなかった」、グラネーとドローリングからも「何も盗めなかった」という。グラスーは転々とした末に、得意分野の示されないデュヴァル・ル・カミュの下で教育を終える。このように、先の引用で示されるのは、画家の名前、得意分野、グラスーが転々とする師匠の名前の列挙、教育が修了したかどうか、という4点である。

この6人の師匠たちはいずれも、セリフを持つ人物としては登場しないまま、物語から姿を消していく。とはいえ、語り手によるグラスーの半生の一瞥が、先に引用した一節から始まっている以上、この列挙は後の展開と無関係ではない。

この後回想が進む中で、1819年以降にグラスーが描いた作品が3度に渡って取り上げられる。まずグラスーは、1819年のサロンに「村の婚礼を描いていて、グルーズの絵を、かなり苦心惨憺して真似たもの」を提出し、落選。その絵をグラスーは、画家仲間のシネール(『人間喜劇』の登場人物、「財布」の主人公)*3のもとに持っていき、批評してほしいと頼んだ。シネールは、絵を一瞥し次のように述べる。

*3 シネールのような、ある作品の登場人物を別作品に組み込み再登場させる手法は、作品間を有機的に結び付けて一つの世界を作り上げる「人物再登場法Retour des personnages」の一例である。

まったく、お前の絵は灰色で、陰気臭い。まるで、喪服の黒いヴェール越しに自然を見ているようだ。デッサンは重苦しく、厚ぼったい。構図ときたら、グルーズの単なる模倣じゃないか。*4

*4 Balzac, Babel, p. 377.

シネールは、グラスーの色彩・デッサン・構図が、サロンに落選した理由だと断じる。ここで、師匠①グランジェ、②グロ、③ルティエールの教えがグラスーの身に付かなかったことが、読者に提示される。

その約2か月後、4枚の絵を描き上げたグラスーは、シネールとジョゼフ・ブリドー(『人間喜劇』の登場人物、「ラ・ラブイユーズ」に登場)の助言を求めた。彼らは、次のように作品を批評した。

2人の画家はこれらの絵の中に、オランダの風景画やメツーの室内画に媚び諂うような模倣を見た。4枚目など、レンブラントの《解剖学講義》の写しだった。
「またしても人まねか」とシネールが言った。「やれやれ。フジェールが独創性を身につけるのは、なかなか難しそうだな」
「いっそのこと絵なんかやめて、何か別のことをすべきでは」とブリドーが言った。*5

*5 ibid., p. 380.

ここでは、シネールとブリドーを介して、師匠④グラネー、⑤ドローリングの室内画に関する教えも会得できなかったことが示される。このように、師匠①~⑤に付された得意分野は伏線となり、グラスーの修業の結果と呼応する形で、作品評価を通じて回収されていく。師匠①~⑤が伏線として回収されてきたことを踏まえれば、次に、最後の師匠である⑥デュヴァル・ル・カミュに関する作品評が用意されていると考えるのが順当だろう。そしてもちろん、「デュヴァル・ル・カミュのもとで教育を終えた」のだから、そこにはグラスーの成功が待っているはずだ。

4枚の絵から10年後、1829年のサロンでは、既に美術界で「大きな地位」を占めていたシネールとブリドーがグラスーを哀れに思って、グラスーの《1809年に処刑されたフクロウ党員の身じたく》を入選させた。絵は凡庸だったが驚異的な成功を収め、王妃買い上げとなり、レジオン・ドヌール勲章を授かり成功した。語り手は、その作品を次のように評している。

この絵は、情感の点ではヴィニュロンを思わせ、見る者の関心を強く引いた。出来栄えの面ではデュビュフの初期の画風に近い。*6

*6 ibid., p.381

教育の「終点」として、修了、すなわち成功をもたらすはずのデュヴァル・ル・カミュが回収されるべき局面で、代わって登場するのは、ヴィニュロン(Pierre-Roch Vigneron, 1789-1872)とデュビュフ(Claude-Marie-Paul Dubufe, 1790-1864)という実在の画家である。

しかしながら、師匠①~⑤がいずれも「得意分野」とそれに対応する作品評価によって回収されてきたことを踏まえるならば、得意分野の示されていないデュヴァル・ル・カミュは、そもそもどのようなかたちで回収されえるのか。

2:フュルヌ版『ピエール・グラスー』に登場する画家

こうした伏線と回収の非対応性は、フュルヌ版*7への収録に際して施された加筆修正によって、別の読みへと転じることとなる。

*7 1842-48年にFurne社から刊行されたバルザック全集を指す。

フュルヌ版においてグラスーの師匠として挙げられているのは、❶デッサンのセルヴァン(『人間喜劇』の登場人物、「ラ・ヴァンデッタ」に登場)、❷色彩のシネール、❸構図のグロ、❹室内画のソメルヴィユ(『人間喜劇』の登場人物、「毬打つ猫の店」の主人公)、❺室内画のドローリング、❻得意分野無しのデュヴァル・ル・カミュへと変更が加えられている*8。つまり、①グランジェと③ルティエール、④グラネーが外されて、❶セルヴァン、❷シネール、❹ソメルヴィユという架空の画家へと置き換わっていく。そして、初版で2番手に置かれていた「②色彩のグロ」は「❸構図のグロ」へと変更されている。

*8 Balzac, Honoré de, “Pierre Grassou.” Œuvres complètes de M. de Balzac: Scènes de la vie parisienne Tome Ⅺ. Paris; Furne, 1844, p. 65.(なお、フュルヌ版の画家を指す場合には、❶~❻の記号を用いる。)

人名には異同が見られるものの、1番手の師匠がデッサン、2番手が色彩を得意とするように、画家の得意分野の順列自体は維持され、グラスーの遍歴も変わらず、6番手のデュヴァル・ル・カミュ以外では修了できなかった。

得意分野の順列が維持されたまま、人名のみが変更されているということは、個々の画家の得意分野と人名に絶対的な結び付きが見られないということである*9。言うなれば、得意分野に結びつけるのは誰でもよかった。さすれば、初版から番手も人名も変わらないドローリング、およびデュヴァル・ル・カミュとそれに呼応するヴィニュロンとデュビュフこそが着目すべき画家となろう。

*9 フュルヌ訂正版(バルザックの死後に編集され、1869年以降Michel Lévy社によって刊行された全集)では、⓵セルヴァン、⓶シネール、⓷ソメルヴィユ、⓸グラネー、⓹ドローリング、⓺デュヴァル・ル・カミュへと修正がなされている(Balzac, Honoré de, “Pierre Grassou.” Œuvres complètes de H. de Balzac. IX, La Comédie humaine Tome 9. Paris; Michel Lévy frères, 1869, p. 617.)。フュルヌ版では「❹室内画のソメルヴィユ」だっだが、フュルヌ訂正版では「⓷構成のソメルヴィユ」になり、「❸構成のグロ」は外され、「⓸室内画のグラネー」には、初版の「④室内画のグラネー」が舞い戻ってくる。ソメルヴィユが、❹から⓷へと番手が変わったことは、先述したグロの例(②→❸)と共に、得意分野と人名に相関性が薄いことを示す資料となる。

得意分野の順列が維持されたまま人名のみが差し替えられている以上、各師匠の名は、特定の技法や能力を体現する固有名として配されているのではないことを示している。その意味で、画家の名前は、番手とそこに結びついた技法とを仮に結びつけるための媒介にすぎない。ここで重要なのは画家ではなく、教育過程における「順序」と「得意分野」である。要するに、「1番手のデッサンが得意なセルヴァン」として不可分なものとして捉えるのではなく、「デッサンが得意」と「1番手のセルヴァン」という2つの要素を切り分けて把握する必要がある。

以上の議論は言うなれば、「デッサンが得意」という得意分野と人名の結びつきを中心に検討してきたことになる。ならば次に問うべきは、「1番手のセルヴァン」という番手と画家名の方を紐解くべきだろう。

紙幅に限りがあるためセルヴァンに限って検討すれば、フュルヌ版以降1番手の師匠としてセルヴァンが置かれていることは、グラスーがプロの画家としての基礎を身につけようとした、という前提そのものに少なからず疑問を投げかける。「ラ・ヴァンデッタ」に登場するセルヴァンは、「裕福なあるいは上流の家庭の生まれの娘しか生徒として受け入れない」*10画塾として評判を取っていた。そこで学んだ生徒は、「美術館の絵を批評すること、見事な肖像画を描くこと、絵を模写すること、風俗画を描くこと、ができるようにな」*11った。フランス文学者の村田京子はこの状況を纏めて「セルヴァンのアトリエはこうした女性たちが嗜む芸事の場として機能していた。それゆえ彼のアトリエは、公的空間で活躍する画家たちの拠点ルーヴルとコントラストを成すものであった」*12という。「画家を志望する娘たち」*13さえ拒んでいた、「女性専用のアトリエ」としての側面にしか言及されていないセルヴァンの下で、グラスーが美術教育を受けたと設定されるならば、フュルヌ版のグラスーは、初版に比してプロの画家としての資質の無さ、基礎すら十分でない人物として読まれることになる。すなわち、彼が「基礎を身につけようとした」という前提そのものが成立せず、グラスーは当初からそのような資質を欠いた存在として解される。

*10 Balzac, Honoré de, “La Vendetta.” La Comédie humaine Études de mœurs: scènes de la vie privée. Paris; Éditions Gallimard, 1976, p. 1040.

*11 ibid., p. 1041.

*12 村田京子「マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール『ある画家のアトリエ』:バルザックの絵画小説との比較研究」『人間科学:大阪府立大学紀要』第8巻、大阪府立大学人間社会学部人間科学科:大阪府立大学大学院人間社会学研究科人間科学専攻、2013年、11頁。

*13 Balzac, La Vendetta, p. 1040.

結びに代えて

セルヴァンによってグラスーの教育の出発点がすでに歪められているとすれば、デュヴァル・ル・カミュは、グラスーの到達点としてどのような画家だったのだろうか。デュヴァル・ル・カミュは全身肖像画を得意とし、ベリー公妃マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン(Marie Caroline Ferdinande Louise de Bourbon, 1798-1870)の気に入りとなり、1837年にはレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受勲し成功を収めた一方で、美術批評において軽んじられる画家として位置づけられていた。グラスーが最終的に行き着く地として、デュヴァル・ル・カミュが──および、ヴィニュロンやデュビュフが──選ばれたのは、まさにそのような画家像へと収斂していくことを予示している*14

*14 バルザックは「何人ものエピシエ、つまり自尊心の強い連中が、どこかの田舎で市長となり、地方にパリ文明を映し出す」(Balzac, Honoré de. “L’Épicier 1840.” Fantaisies et Œuvres Historiques Tome XXVI. Les Bibliophiles de l’originale, 1976, p. 138.)として、商業的成功を収めた者の中から政界へ進出する者の存在を示唆している。デュヴァル・ル・カミュもまた、1853年から1854年に死去するまで、サン=クルー市長を務めていた。もっとも、50年に没するバルザックがこのことを知るべくもないが、デュヴァル・ル・カミュは「ピエール・グラスー」が成立した時点で、バルザックが「エピシエ」論において構想した人物類型を体現する存在として把握されていたようだ。

そもそも、『ピエール・グラスー』は、画家の苦悩や挫折を辿るものではない。最初から「彼は今日、世間の脚光を浴びているが、その人生はほろ苦い省察から語り起される」*15という一文を伴う主人公が、画家としてあるべき道を逸れてブルジョワに迎合する画家へと変貌していく姿を描いている。さすれば、「ほろ苦い省察」とはブルジョワに迎合して金銭的に成功する前段階、若い頃の苦労を指していよう。

*15 Balzac, Babel, p. 370; Balzac, Furne, p. 62.

しかしながら、本研究ノートが『ピエール・グラスー』に登場する実在の画家を紐解くことによって示したように、本作は主人公が、芸術家としての素養をいかにして身につけ損なったのか、その結果何が生じたか、という教育の過程を描いた作品でもある。作中に列挙される6人の師匠は、主人公を優れた芸術家へと導く存在ではなく、デッサン、色彩、構図、室内画といった、本来であれば芸術家へと通じるはずの諸要素が、いずれもグラスーにおいて結実しなかったことを可視化するものだった。とりわけ、版を跨いで人名が差し替えられながらも得意分野の順列が維持されている点は、画家個々の特徴よりも、教育過程そのものの不成立が重視されていることを示している。

グラスーの社会的成功は、バルザックが同年に執筆した「エピシエ」論*16において示した姿の一例である。「エピシエ」論では、画家の作品そのものは問題とされず、彼らの生き方、社会の歯車としての有用性が皮肉交じりに語られる。バルザックは彼らを、「社会を支える要であり、穏やかに生きる存在で、実践的な哲学者、休むことなく働き続けるこの産業」*17として捉えている。

*16 Balzac, L’Épicier 1840, pp.130-139. (épicierは、元々食料品店主の意味だがブルジョワの蔑称としても使われる)

*17 ibid., p. 134.

グラスーもまた、物語の冒頭から真の芸術家となる可能性を欠いた存在として設定され、芸術家教育の不成立を経て、エピシエ的画家として社会的に「有益な」人物へと至る。その意味で、物語終盤に示される、ブルジョワの需要に応える肖像画家としての成功したグラスーが、金に困った有名画家の作品を買い集める行為は、バルザックが同時期に展開した「エピシエ」論と整合する。

エピシエ≒ブルジョワ芸術家を批判しつつも、有用性を見出したバルザックの視点に立てば、グラスーのこの行為は、芸術家教育に失敗し真の画家になることができなかった一方で、審美眼を備えたエピシエであったからこそ可能となったものとして理解される。グラスーは画家としての才能は無かったが、「美に対して傑出した感受性を持ち、美を見極めることができた。そして、彼の助言は的確な判断に裏打ちされていて、その指摘の的確さは皆に受け入れられていた*18」。すなわち、真の画家を育成する教育ではなく、審美眼を備えたエピシエを形成する教育を受けていたことの帰結である。

*18 Balzac, Babel, p. 385; Balzac, Furne, p. 71.

したがって、師匠名の列挙は、教育が結実しないことを予め示し、主人公が芸術家ではなくエピシエとして完成していく過程を先取りして示すものだったのである。

*本稿は、JST次世代研究者挑戦的研究プログラムJPMJSP2110の支援による研究成果の一部である。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、菊間晴子、角尾宣信、二宮望、井岡詩子、柴田康太郎
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2026年2月28日 発行