反復、対立、強意──接頭辞をめぐって
ここ『REPRE』53号の巻頭言でも話題にされたように、翻訳語としての「表象」という言葉は、1912年に刊行された『英独仏和 哲学字彙』の編纂過程で、心理学者の元良勇次郎(1858–1912)によって導入されたものであるらしい。より正確に言えば、漢語由来の「表象」はすでに西周や井上哲次郎によって用いられていたものの、前述の『哲学字彙』においてはじめて、「表象」は独語のVorstellung、英語のrepresentation、仏語のreprésentationを貫く訳語として位置づけられたのだという(大久保遼「表象と写象」『REPRE 53』)。
このエピソードを読んで思い出したのが、これと近い時期にフランスで編纂された、アンドレ・ラランドの『哲学辞典』のことである(André Lalande, Vocabulaire technique et critique de la philosophie, Paris : PUF, 1926)。この辞典は、当時フランスで用いられていた哲学用語の批判的考証を数多く収録しているのが特徴だが、そこでは「表象(représentation)」の概念についてもいくつかの興味深い記述を見つけることができる。
そこでまず確認できるのは──日本語とはもちろん事情は異なるとはいえ──仏語における哲学用語としてのreprésentationもまた、独語のVorstellungの訳語として導入されたものである可能性が高いということだ。これは当時フランス哲学界の重鎮だったラシュリエ(1832–1918)が指摘していることだが、哲学的な語彙としてのreprésentationを、se représenter(みずからに表象する)という動詞からじかに導き出すことはできない。なぜならその場合、se représenter の名詞形はreprésentationではなくse-représentationとしなければならないだろうから。ラシュリエはこれをひとつの論拠として、哲学用語としてのreprésentationは独語のVorstellungを翻訳するために導入された言葉ではないかと推測する。なお、このse représenterという代名動詞に強いこだわりを示すラシュリエの立場については、かつてジャック・デリダが踏み込んだ指摘を行なっているのでここでは立ち入らない*1。
*1 Jacques Derrida, « Envoi », dans Psyché : Invention d l’autre, Paris : Galilée, 1987.[「送付」『プシュケー──他なるものの発明』藤本一勇訳、岩波書店、2014年]
さて、この『哲学辞典』の「表象」に関わる議論のなかでもうひとつ興味深いと思われるのが、présentationという語彙をめぐって提出されたベルクソン(1859–1941)の次の発言である。
仏語における「表象[représentation]」というのは曖昧な単語であって、語源学によれば、それは精神にはじめて呈示された[présenté]知性的な対象を指すものでは決してありません。精神によって先立ってなされた働きをしるしづける諸々の観念やイメージのために、その単語をとっておくべきでしょう。だからこそ、(イギリスの心理学で同様に用いられている)呈示=現前[présentation]という語を導入する必要があるのです──つまり、純粋かつ端的に精神に対して呈示されたあらゆるものを一般的なしかたで指し示すために*2。
*2 André Lalande, Vocabulaire technique et critique de la philosophie, op. cit., po. 820–821; Henri Bergson, Mélanges, Paris : PUF, 1972, p. 506.[『ベルクソン全集』第8巻、花田圭介訳、白水社、1966年、251頁]
このベルクソンの発言が示唆するのは次のことである。意識に対する一次的な所与としての「呈示=現前」と、その二次的なしるしとしての「表象=再現前」を厳密に区別する発想は、語源学的にいえば事後的に成立したものにすぎない。「表象」という言葉の起源は、人間の本質的な能力を「表象能力」として規定したアリストテレスの『魂について』にあるとされるが(phantasia)、18世紀にヴォルフがラテン語のperceptioの訳語として独語のVorstellungを用いたのがその近代的な始まりである。ラテン語のperceptioは、その語幹からも明らかなように今日の「知覚(perception)」に相当する単語であり、そのことからヴォルフにおけるVorstellungは、「再現前」よりもむしろ「知覚」に相当する意味を担っていたと言うことができる。ライプニッツもまたVorstellungをperceptioに相当する意味で用いていたが、他方でやや時代を下ったバウムガルテンなどは、同じラテン語のrepraesentatioの訳語としてVorstellungという語を用いている。ここでは各々の詳しい定義に立ち入ることはできないが、このように19世紀以前のドイツにおける「表象」概念は、哲学的な文脈に限っても今日以上に錯綜した容貌を帯びており、この事情は同時代のフランスにおいてもさほど異なったものではなかった*3。
*3 Cf. Historisches Wörterbuch der Philosophie, Basel : Schwabe, 1971–2007, Bd. 11, SS. 1227–1246.
すくなくとも、20世紀初頭の時点でreprésentationという語が哲学的にいまだ曖昧さを残していたという事実は、ラランドの辞典におけるprésentationの項目からも明らかである。そこではまず仏語のprésentationと英語のideaの類似性が指摘され、さらに次のような説明が書き加えられている──「[présentationという言葉は]イギリスの心理学ではきわめて普及しており、フランス語でも表象[représentation]という言葉がもたらす曖昧な意味を避けるためにしばしば用いられる」。
ここからわかるのは、ベルクソンがこの発言を行なった当時(1901年)のフランスにおいて、「表象」はいまだ「現前」に対する「再−現前」という意味を明確に担ってはいなかったということである。それゆえベルクソンは、イギリスの心理学で用いられていたpresentation、つまり仏語で言うところのprésentationを導入することで、「表象」という語につきまとう曖昧さを払拭すべきである、と主張する。さきほどの言葉をパラフレーズすれば、ベルクソンは「純粋かつ端的に精神に呈示されたもの」をprésentationという言葉に担わせ、représentationという言葉は、精神によって先立って行なわれた「働き」をしるしづけるものとしての「観念」や「イメージ」のために取っておくべきだ、というのである。
ようするに「表象」とはもともと──現在そう思いなされているような──「再−現前」を意味するものではなかったということだ。それならば、ラテン語のrepraesentatioとは実際のところ何だったのか。さきほどのベルクソンの指摘に続けて、当時のフランス哲学会では、それがもともと「複製」や「反復」ではなく、「主客対立におかれた」現前のことではなかったか、という意見まで飛び出している*4。さらにこの議論を引き受けるかたちで、「表象」を「露呈され、誇示された」現前──すなわち強−現前──だと論じたのはジャン゠リュック・ナンシーである*5。
*4 かつてわたしはこの「主客対立」説をベルクソンに帰したことがあるが(「表象と再現前化──『哲学辞典』におけるベルクソンの「表象」概念再考」『表象』第3号、2009年、122–137頁)、関連する文献をあらためて参照してみたところ、これは同会議に出席していたフランク・アボジ(1870–1938)の発言とみなすのが妥当であるように思われる。
*5 Jean-Luc Nancy, Au fond des images, Paris : Galilée, 2003, p. 73.[『イメージの奥底で』西山達也・大道寺玲央訳、以文社、2006年、85頁]
いずれにせよ、「表象」の由来であるrepraesentatioの含意を見極めるには、いまいちど接頭辞「re」の意味に立ち返る必要がありそうだ。そしてそれは、今日のさまざまな「表象」文化論の来し方にふたたび思いをめぐらせるためにも、けっして無駄な作業ではないはずである。
*2026年1月7日、学会誌『表象』のバックナンバー所収の論文のうち、前年12月までに許諾が取れた74本がJ-STAGEで公開された(2月1日現在では計90本)。本巻頭言の内容は、同事業にかかわるワーキング・グループから公開の可否を問われたおりに、『表象03』に所収の拙論を読み返したときの副産物である。同誌のJ-STAGE公開に尽力された皆様にはこの場を借りて御礼申し上げたい。