尽くされた [附]「尽くされた」という単語/姿勢
サミュエル・ベケット(1906–1989)は生涯にテレビ作品を5本作った。そのうちの4作品(1977–1984)——とある理由から第1作「ねえジョー」(1967)は除かれた——のスクリプトがフランス語に訳され、『クワッド その他のテレビ作品』という題で出版されたのが1992年である。そのテクスト群に註解として付されていたのがジル・ドゥルーズ(1925–1995)の「尽くされた」である。
このテクストは、言語運用とのベケットの長年の格闘をまるごと視野に収め、あらためて総括的に解明を試みる試みとしても読める。これはまた、晩年のベケットの取り組みを、これまた最晩年のドゥルーズが読み解き、さまざまな意味でギリギリのところで言葉にした記録だということからも関心の対象となってきた。
「尽くされた」には、すでに宇野邦一による日本語訳『消尽したもの』(白水社、1994)が存在していた(高橋康也によって訳されたベケットのスクリプトも併載されていた)。だが現在、これは古書以外では流通していない。今回の出版は、当該テクストのイタリア語版に付された翻訳者ジネーヴラ・ボンピアーニによる前書き「「尽くされた」という単語」(1999)とジョルジョ・アガンベンによる後書き「姿勢」(2015)を含めて新訳を刊行しようという版元からの企画を承けたものである。
(なお今回、ベケットのスクリプトは収録していないが、『新訳ベケット戯曲全集』第3巻(白水社、2022)で新訳が参照できる。)
さて、アガンベンの短い論考「姿勢」で展開されている座位に関する議論は当然、ドゥルーズの行論を追うためにも有益だが、アガンベン自身の思考の展開を確認するにあたっても注目に値する。覚え書きふうに少しだけ書く。
「尽くされ」て座りこむ研究者がドゥルーズのテクストのとある箇所で描き出されるが——読者は否応なく作者自身の姿をそこに重ねてしまう——、じつはこの研究者の形象はアガンベンにおいてはすでに『散文のイデア』(1985)所収の「研究のイデア」に、おおむね同じ姿で見あたる。
「研究のイデア」では、その形象の極端化したものがバートルビーだとされている。そのテクストは、ハーマン・メルヴィルの創造したこの人物にアガンベンがはじめて言及したもののひとつである。ちなみにバートルビーは、イタリア語での合作『バートルビー 創造の定式』(1993)で、「バートルビー 定式」(1989)——フランス語では論文集『批評と臨床』(1993)に収められた——のドゥルーズと「バートルビー 偶然性について」(1993)のアガンベンを結びつけた、いわば因縁の存在でもある。
しかし、バートルビーの死に際の姿勢はいわば寝そべりと取られ、アガンベンもバートルビー論では単にこれを「横たわる」と表現している。そこから20年あまりを経て、「壁の下のところに奇妙なふうに体を屈して膝をかかえ、横向きに寝そべり(lying on his side)、頭は冷たい石に触れて[……]」というバートルビーの姿勢が、単なる横たわりではなく、いわば横倒しになった座位——座りこんだまま死を迎え、おそらくはその形のまま力なく横に倒れてしまったもの——として捉えなおされたとも言える。
アガンベンは当然、ドゥルーズの「尽くされた」を発表から間を置かずに読んでいるだろう。だが、「尽くされは人が寝そべるにまかせない」というドゥルーズの言明によって示されている、寝そべり(横たわり)/座位という対置を正面から読み解き、正確を期した説明をおこなうには、「姿勢」を書くという機会があらためて到来するのを待たなければならなかった。
ところで、「バートルビー 偶然性について」と「姿勢」のあいだに『アウシュヴィッツの残りのもの』(1998)が刊行されている。その忘れがたい形象といえば、ナチ収容所における「ムーゼルマン」である。生きる力を失い死を待つだけの虚脱した人が、座りこんで体を屈している礼拝さながらの姿勢からかそのような隠語で呼ばれた。
私自身も、アガンベンのバートルビー論の日本語訳を出した際に解説論文「バートルビーの謎」(2005)を添え、ムーゼルマンと死んだバートルビーの類縁性に言及してはいた。しかし、おそらくは今回の「姿勢」においてはじめて、1980年代なかばから断続的におこなわれた考察の果てに、研究者、バートルビー、ムーゼルマン、そしてベケットの「尽くされた」登場人物が、横たわりと対置される座位という同じ限界的姿勢のもとに、他ならぬアガンベン自身によって据わらされたことになると言える。
この座位を捉えることはまた、現在までやはり断続的に追究されているアガンベンの身振り論という、より大きな問題設定と向きあうにあたっても不可欠である。これは非常に短い論考ではあるが、この「姿勢」の粗描から身振り論へもまた、その解明に資する補助線が、見間違えようもないしかたで引かれている。
(高桑和巳)