ポストヨーロッパ
ポストヨーロッパという語はかつて、第二次世界大戦後にヨーロッパがもはや世界権力の中心ではなくなったことを意味したが、著者ユク・ホイは、この言葉をより深い意味で再解釈し、今日いっそう差し迫った主題としてあらためて世に問う。
ひとつには、現代文明がテクノロジー文明であるかぎり、それは依然としてヨーロッパ文明であるということ(なぜならテクノロジーはヨーロッパの文化であるから)。そしてもうひとつには、ポストヨーロッパは新たな哲学の呼びかけであるということ(なぜなら哲学はヨーロッパの文化であるから)。このふたつはさらに、テクノロジーとはヨーロッパ哲学の究極的な達成であるという技術思想に裏打ちされるかたちで結び合わされる。ようするに、この惑星全体をテクノロジーが覆い尽くす現代文明は今なお、ヨーロッパ哲学に基づき、ヨーロッパ技術に支えられた、ヨーロッパ文明であり、ポストヨーロッパではない。
この文明は今日、惑星規模の危機に直面している。環境危機と人道危機が複雑に絡み合い、誰もが故郷を喪失してゆく。テクノロジーの発展は資源の収奪に人々をかりたて、開発や紛争・戦争による故郷喪失に歯止めがきかない。近代化以降、テクノロジーがグローバルに蔓延するとともに、植民地主義や人種主義そして世界大戦がこの惑星を焼き尽くしてきた。そして歴史は今さらなる破局に向けて突き進みかけている。
本書はこの苦境を切り抜ける思考の方向を示唆する。近代の限界を乗り越えるにはまずもってテクノロジーを乗り越えなければならず、そしてそのためには何よりもテクノロジーをヨーロッパ哲学と不可分のものとして理解しなければならないということである。
近代化とはヨーロッパ化であったが、このとき日本に限らずどこにおいても大抵、テクノロジーの実利的な部分のみ取り入れて、その背景をなすヨーロッパ精神と実存的に向き合うことはほとんどなされてこなかった。それは一面においては、非近代文化と近代西洋文化との相容れなさや分かりあえなさと根気強く付き合うことなく、なし崩し的に自然や他者を支配する力としてのテクノロジーだけを追求してきてしまったということであり、それを別の面から見るならばようするに、ヨーロッパ文化としてのテクノロジーに対するリスペクトを欠いてきたのである。本書はまさにこの問題にメスを入れる。そこでは日本の近代化と近代の超克の試みも主たる考察対象とされる。近代化を通じた実存的対話の欠如こそが、今日の多文化共生を分断と対立そして排外主義に直面させる根深い要因をなしてきたのではないかと考えさせられる。
ホイがここで提唱するのは、思考の個体化という考え方である。個体化は、両立しがたい緊張関係にある差異の統合的な生成変化の原理であるが、弁証法のように対立する二者の一方が他方を自己の発展のために利用することで矛盾を乗り越えてゆく進歩的な歴史の運動ではなく、対立するものたちが新たに一体不可分のもの(個体)として準安定的な整合性を創出するなかでともに変化することで暫定的に矛盾を解消してゆくような、別の歴史的運動をモデル化する。この思考の個体化によってこそヨーロッパ哲学をポストヨーロッパ哲学にすることが思想の課題として示される。
ホイはもともと技術多様性の提唱者として有名である。人類一般に普遍的な技術などありはせず(ふつうはテクノロジーがそれであると考えられてきた)、文化ごとに根本的に異なる複数の技術があり、それは各文化の宇宙論と不可分であるという、宇宙技芸論で知られる。しかるに、本書で論じられる思考の個体化という考え方は、この技術多様性の考え方を補完するものであるといえる。技術多様性は、思考の個体化の条件として、あらためてその意義がはっきりと浮かび上がるからである。テクノロジーの克服は、別の技術(たとえば日本技術のような非ヨーロッパ技術)を文化本質主義的に持ち出すことによるのではなく、テクノロジーも含めた諸技術の新たな個体化を成し遂げなければならないのであり、技術多様性とはその条件として諸技術の緊張関係と向き合うことなのである。
本書でホイは、故郷喪失を恐れてナショナリズムという紛い物の権威に飛びつく過ちを重ねるより、むしろ積極的ニヒリストの態度で故郷喪失を肯定すべきであるという。故郷喪失は、故郷回帰の条件ではなく、さらなる自由そして愛と平和の可能性たりうることに気づかされる。
近年、アーティストやデザイナーやエンジニアに、ホイのこうした問題意識に共感し、技術多様性と思考の個体化という課題を引き受けようとしている人々が登場しはじめていることをうれしく思う。そうした取り組みから、新たな思想と技術・芸術が誕生することを心待ちにしている。
(原島大輔)