マンガはうたう なぜ平面から音が聞こえてくるのか
本書の題名は「うたう」と、平仮名にして開かれている。歌う、唄う、詠う、謡う、謳う……こころみに日本語入力変換を叩いてみるだけで、「うた」の多様性がわかる。いや、というよりも、著者が本書冒頭で「うた」を「マンガを読みながら感じられる、未だ音にも声にもなっていないメロディや速さやリズムのようなもの」(9頁)と説明しているように、マンガの「うた」は、多様性であるよりは、その手前で未分であることなのだろう。
副題にあるように、本書はマンガの画面から読者に「うた」が「聞こえてくる」ことがテーマとなっている。それはひとまず、私たちがマンガの画面上に並置されたイメージから一つの作品内世界を構築し、しかるのちその世界の中で響いているであろう音声を聞き取る、ということだろう。だがもうひとつ重要なのは、並置されたイメージを私たちが一定の筋として組み立てていくこと、言い換えればマンガを読むことそれ自体が「うた」でもあるような局面についても語られている点である。
たとえば、本書書き下ろしである「うたとうどん:高野文子『奥村さんのお茄子』論」は、「うた」が私たちにこのマンガを読ませるという事態について論じている。この論考で細馬は、絵描きうたをモチーフとした高野文子の短編『奥村さんのお茄子』を、作中の各コマにあらわれる歌詞とイメージの関係に着目して読み解いている。絵描きうたは、喉を震わせることが線を引くという身体動作と一体化した歌唱であるとともに、棒が一本あった、はっぱかと思ったらはっぱじゃなかった、というような脈絡のない歌詞を、線を引く動作によって縫い合わせる不思議な「うた」である。著者によれば、『奥村さんのお茄子』は「うたが描いたマンガである」(64頁)。つまり、絵描きうたが画面上のイメージの羅列をひとつの像として私たちのうちに結ばせているのである。
本書はマンガ論の著作ということになるのだろうが、「うた」がマンガを引っ張っていくような事態も視野に入っているのだとすれば、本論の主要テーマはマンガなのだろうか。それとも、じつは「うた」が主で、マンガは従なのだろうか。いやむしろ、そうした主従が決定できないような場所こそを、本書が論じようとしているのではないだろうか。
本書ではマンガの外側の「うた」にも頻繁に触れられる。『ちいかわ』マンガ版の文字表現をアニメ版の音響と比較する冒頭の論考(「動作のリズム:ナガノ『ちいかわ』」)を皮切りに、替え歌にされた軍歌『月月火水木金金』(「替え歌と節:中沢啓治『はだしのゲン』」)、植木等風に調子がつけられた『山のロザリア』(「赤塚不二夫『レッツラゴン』が鳴らす声」)といった数々の「うた」が、それぞれの作品を読むうえで、そしてそれらの読みにおいて読者をいかにして(内面的あるいは身体的に)動かしているのかが論じられる。だがそれは、あるマンガを読むためには作中に登場する楽曲を知らなければならないということでは、きっとない。むしろ、登場する楽曲を知らないにもかかわらず、私たちが元となった楽曲と同じとも違うとも言えない、音や声以前の「うた」を、私たちが聞き取ってしまうことの神秘に接近しようとしている。
本書はマンガ論に限らず、より広いスタンスで視覚メディアと聴覚メディアとの関係性を問うているように思われる。マンガの「うた」は、マンガというメディアから聞こえてくるにもかかわらず、絵描きうたでもあり、テレビや映画の音楽とも共鳴している。平仮名にされた「うた」には、そうした意味も込められているのかもしれない。
(鶴田裕貴)