単著

長谷正人

ベンヤミンの映画俳優論 複製芸術論文を読み直す(クリティーク社会学)

岩波書店
2025年8月

YouTube、X、BeReal、Instagram、TikTok……。スマホを片手に、誰もが簡単に文章や映像を発信できる時代になった。SNSに疎い私でも、そういう時代になったという実感はある。例えば仕事の一環で自分の研究のPR動画をYouTubeで作成する、というようなことがしばしばある。好むと好まざるとにかかわらず、誰もがカメラの前で演技をし、発信することのできる(あるいはそうしなければならない)時代になった。この時代に読み直すべき言葉が、ヴァルター・ベンヤミンの複製芸術論文──「技術的複製可能性の時代の芸術作品」(1936)──のなかにある。本書はその言葉を掘り起こし、それに「映画俳優論」という名を与えている。

複製芸術論文は映画というメディアの含みもつ社会変革の可能性をさまざまな観点から考察したエッセイである。この論文のなかでは、「映画俳優」だけではなく、「監督」や「観客」といった観点からも映画についての考察がおこなわれている。しかし、ベンヤミンが真に重きを置いていたのは「俳優」であると著者は言う。つまり、作品を制作した「監督」の意図や手法ではなく、作品の意味についての「観客」の解釈でもなく、「俳優」がカメラの前で演技をすることの意義に、ベンヤミンは関心を寄せていた。もう一歩踏み込んで言えば、民衆、、が俳優として自由、、に演技をすることが社会変革につながる可能性を、ベンヤミンはこの論文のなかで主張していた。

このベンヤミンの発想には、元ネタがある。民衆を映画や演劇に出演させ、自由に演じさせることは、1920年代ロシアのアヴァンギャルド芸術のなかで実際におこなわれていた試みだった。本書ではその例として、農場や工場で働く労働者の姿を撮影したジガ・ヴェルトフの「ニュース映画運動」や、路地に屯する子どもたちを集めて自由に即興劇を演じさせたアーシャ・ラツィスの「子ども劇場」の試みが挙げられている。ベンヤミンが共感を抱いていたこの種の試みは、しかし1930年代に入ると逆風にさらされるようになる。その背景にあったのは、ソ連共産党の「社会主義リアリズム」路線への転換である。この転換によって、芸術における民衆の立ち位置は大きく変わる。1920年代のアヴァンギャルド芸術においては、民衆は自由に演技をする主体に位置付けられていたが、1930年代の社会主義リアリズム芸術においては、民衆は党の描いた社会主義の「英雄」のイメージをなぞるだけの受動的な観客へと変貌する。そしてこの社会主義リアリズムの考え方は、ベンヤミンが亡命生活を送っていたパリにも浸透していた。具体的には、反ファシズムの「人民戦線」を構成していたフランスの「左翼知識人」たちのあいだにも、社会主義リアリズムの考え方は広く共有されていた。著者はこうした状況を踏まえたうえで、社会主義リアリズム芸術が広がりを見せていた時代において、ベンヤミンがあえて1920年代のロシアアヴァンギャルド芸術の精神に立ち返り、自由に演技をする民衆の可能性に賭けていたことを指摘している。

ここまでが第一章の内容だが、この時点ですでに複製芸術論文を覆うステレオタイプな理解を破るような鋭い読みが、随所で差し挟まれている。まず、複製芸術論文がファシズムの美学との対決を意図して書かれたものであることはよく知られているが、本書ではベンヤミンVSファシズムという構図の裏に隠れた、ベンヤミンVS社会主義リアリズムというもうひとつの構図が明らかにされ、この論文を取り巻く複雑な歴史的文脈(コンテクスト)がくっきりと可視化されている。さらにこの作業を通じて、この論文はふつうそう思われているような「アウラの凋落」という事態を診断した芸術理論としてではなく、1930年代の歴史的文脈(コンテクスト)のなかで練り上げられた新しい文化政策の提言として読まなければならないということが、あらためて強調される。そしてこの文化政策の核心に見出されるものが、従来の研究ではあまり取り上げられてこなかった、「映画俳優論」なのだ。

第二章以降では、この「映画俳優論」の中身が、詳細なテクスト分析を通じて明らかにされていく。分析の鍵を握るのは、「テスト」という言葉である。ベンヤミンの考えでは、俳優は現実世界を生きる人間とは違って、カメラの前で自らの演技をさまざまなかたちで「テスト」することができるという点にその特徴がある。つまり、俳優はより良いパフォーマンスを目指して、繰り返し何度でも、さまざまなヴァリエーションの演技を遊戯的に試してみることができる。著者はこの点についてのベンヤミンの議論を次のように要約している。「映画俳優とは、人々を代表して、カメラとマイクを前に、例えば恐怖の叫び声をいかにうまく上げられるかを、陸上競技の選手たちが新記録を狙うのと同じように、繰り返し「テスト」してみる存在だと彼は論じている。つまり、映画というメディアは、社会生活のオルタナティブな可能性をテストしてみることのできる、実験的な領野を人間に与えてくれるテクノロジーだということになる。」

「社会生活のオルタナティブな可能性」とは、言い換えれば、社会変革の可能性、、、、、、、、にほかならない。民衆は俳優として演技を「テスト」することを通じて社会変革の可能性に与ることができるという帰結が、ここから導き出される。この帰結はたしかに納得のいくものではあるが、いくつかの問いが思い浮かぶ。まず、ここで言われている社会変革とは、具体的にどのようなものなのか。1930年代のベンヤミンが(あるいは複製芸術論文の成立に際して大きな影響を与えた友人のブレヒトが)独自のコミュニズムの立場から思い描いていた演技を通じた社会変革のイメージを、スマホを片手に演技をする90年後の現在の〈私たち〉は、どの程度共有できるのか。そもそも〈私たち〉は1930年代の映画俳優がそうであったような意味において、「俳優」と言えるのか……。これは著者自身が認めていることだが、本書はそうした問いに対する答えは示されていない。ベンヤミンの映画俳優論=社会変革論のアクチュアリティーを素朴に肯定することは難しいというのが第一感だが、それでも本書を読んでいると、肯定できる何かを探したいという思いがふつふつと湧いてくる。本書は著者の20年にわたる複製芸術論文の読解の成果であると同時に、大学での講義を通じた学生との対話の記録でもある。そのため、この本にはベンヤミンのテクストのもっている熱を、誰もが俳優になりうる時代の最先端を生きる若者たちに届けるための工夫が、随所に散りばめられている。熱、というと抽象的な言い方だが、言論と活動が封じられていく閉塞状況のなかで〈私たち〉のための遊戯空間をこじあけようとしたベンヤミンの自由への渇望が、その熱の正体と言えるだろう。同じ閉塞感、ではないにせよ、似たような閉塞感がこの時代にも漂っている。この閉塞感を破る思想の熱を、本書はたしかに、この社会の主役である〈私たち〉に伝えてくれている。

(宇和川雄)

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、菊間晴子、角尾宣信、二宮望、井岡詩子、柴田康太郎
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2026年2月28日 発行