単著

長島皓平

絶対的内在とアナーキー ジョルジョ・アガンベンの政治哲学

法政大学出版局
2025年10月

政治とはいったいなんなのだろうか。それはたとえば、西洋哲学のひそみにならって幸福をめざすものであると答えることができるだろうか。とはいえ、わたしたちは現代の政治において幸福などという甘美な言葉がとうてい似つかわしくない状況にしばしば出くわすことがある。とある政治家はみずからの一存で他国を好き勝手に攻撃し、また、ある政治家は移動がきわめて難しい極寒の冬にわざわざ選挙を実施しようとしている。移民や難民にたいする人々(なによりも政治家)のまなざしはますます厳しくなるばかりだ。それぞれの背景は異なっているにせよ、こうした状況をふまえてみたとき、政治が幸福をめざすものであるという言葉がどれほどの価値をもちうるだろうか。政治がたとえ幸福をめざすものであるとしても、それが「この」政治ではないことはたしかだろう。わたしたちはもっと別の政治を考えることができるのではないか。本書は、以上のような問いかけをおこなう者にとって、ひとつの参照点となってくれるにちがいない。

本書の研究対象であるジョルジョ・アガンベンについてはもはや説明するまでもないだろう。かれは1995年の著作『ホモ・サケル』でいちやく有名になったイタリア出身の哲学者であり、現在にいたるまでずっと政治哲学の最前線で活躍しつづけている。しかし、かれの思想についてはこれまでのところ、日本においてまとまった研究書はほとんど存在してこなかったと言っていい。もちろん、かれの思想について論じた入門書や概説書は多数あるものの、アガンベンの著作を初期から後期まで読みとおしたうえで、しかもその理論的変遷をくわしく論じるといった試みは、わたしが知るかぎり、本書がはじめてである。この点だけでもすでに本書の意義は十分にあるのだが、さらにすばらしいのは、著者がアガンベンにたいする数々の批判を無視することなく、それらをできるかぎり紹介しながら論述を展開していることだ。このあたりに、著者の研究者としての誠実さを垣間見ることができる。

よく知られているように、アガンベンにとって政治とはなによりもまず生政治である。かれは、古代ギリシアにおいて人間の生が、ビオス(それぞれの個人や集団の生きる形式)とゾーエー(生きているという、たんなる事実)というふたつの言葉によってあらわされていることに注目し、主権がゾーエーを法秩序から締め出し、ひるがえってビオスを付与することで、人間の生が政治的な生を与えられもすれば、奪われもする不分明な状態に置かれてきたと指摘する。この典型的な例が難民であって、かれらは人権を認められているとは言われつつも、その内実、国民国家の法的枠組みに入らなければ、権利をもつことはできないとされるのだという。アガンベンが注目するのは、こうした生政治の機能がそもそもどのようにして成立しているのか、という点である。議論をだいぶ単純化してしまえば、アガンベンはアリストテレスの哲学を読解するなかで、そこにおいてめざされている政治が現勢力の政治であり、これが人間のたんなる生を排除するものであることを明らかにする。つまり、アリストテレスの政治において「〜しないでいること」という「非の潜勢力」は排除され、人間はつねに行為へと駆り立てられるのである。それゆえ、アガンベンにとって生政治への抵抗の契機になるものとはまさに、この「非の潜勢力」にほかならず、それはまた「無為」とも呼ばれる。

とはいえ、アガンベンの無為論が抵抗論としての内実を獲得するのは、著者の説明によれば、その政治神学論とりわけオイコノミアにたいする理解が深まってからの話である。本書の見どころのひとつは、ここにある。現代国家のパラダイムの由来をキリスト教神学にさぐるアガンベンは、オイコノミアを分析するなかで、それが基礎も原理もないアナーキー(無根拠)なものであることを明らかにする。つまり、西洋の政治的権力はそもそも根拠がないものであり、人間の生を捕捉し分割するという権力の基礎は恣意的な操作にもとづいているというのだ。このように、権力と生との結びつきが恣意的なものであるとすれば、わたしたちが既存の政治的権力から離れて存在することもまた可能になる。それはつまり、「潜勢力への固執」である。著者が説明しているように、「潜勢力を生きるとは自分の存在へと固執し続ける欲求、衝動であり、そのようなあり方は、生政治的主権に依拠することなく共同的で自由」(312頁)なのだ。このように、存在をそれが「自ずから存在するままに任せる自体的存在」(11頁)として捉える立場を、アガンベンは「絶対的内在」と呼ぶのである。

アリストテレスはかつて、政治の目的は幸福であると言った。そこで、アリストテレスが考えていたのは、ロゴスをもつ有徳な人間にとっての幸福である。かれによれば、幸福は政治的権利をもった人間にのみ開かれている。しかし、アガンベンがわたしたちにもたらしてくれるのは、こうした幸福のイメージとは別のものである。自ずから存在するままに、なんであれかまわないものとして存在するという幸福のイメージ、おそらく、これは現代の政治にあまりにも慣れきってしまったわたしたちにとっては想像しがたいものである。だが、想像しがたいだけで、この幸福はたしかに可能なのだ。本書をつうじて、わたしが受けとったものとはまさしく、このような希望であった。

(江川空)

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、菊間晴子、角尾宣信、二宮望、井岡詩子、柴田康太郎
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2026年2月28日 発行