バタイユとアナーキズム アナーキーな、あまりにアナーキーな
二〇一〇年代から、英語圏でバタイユを「ポストアナーキズム」の視点から扱う動きが見られるようになった。近年に出版された重要な論集『はじまりのバタイユ』(澤田・岩野編、法政大学出版局、2023年)でも、「アナーキズム」がバタイユの思想を捉える上でのキーワードとなっている。たしかに彼の展開した指導者なき共同体たる「アセファル」の実験、有用性を蕩尽する無益な消費、絶対知の権威を失墜させる「非知」といった活動や理論から、アナーキズムの側面を引き出すことが可能だろう。本書も表題の通り、バタイユをアナーキズムの文脈において読み解く試みであるが、その議論はバタイユによるアナーキズム批判から始まっている。著者はバタイユの思索を「硬直した原理」たるアナーキズムと定式化するのではなく、原理や秩序を絶えず否定し乗り越えるアナーキーな情念による生成の運動として描いていく。
アナーキーな情念はアナーキズムとして形成されるものの、そういった凝り固まった主義を絶えず乗り越えていく。このような情念の流れを、本書は主に二〇年代から四〇年代までのバタイユの思索と活動において辿っている。初期のバタイユが中世研究やシェストフの教示から汲み取るアナーキーな思想を紹介しながら、著者はバタイユの度重なる「蹉跎」の経験に着目する。若年の彼は近代の「有用性の意味体系」に支配されたり、カトリックに精神的な救いを求めたりしていた。こうした支配から抜け出そうと「無神論」を実践し始めた彼は、結社「アセファル」を立ち上げるが、自らが支配者となることに気づき、この試みを放棄した。繰り返される蹉跎の経験の中に、著者はバタイユにおける自己否定するアナーキーな情念の噴出を看取するのである。
バタイユという個人の内面にたぎる情念の分析にとどまらず、著者は時空を越えて繰り返し生きられる生命力としてのアナーキーの広大無辺な流れを、さまざまな文学者と思想家たちから引き出している。三島由紀夫、フェネオン、ボードレール、ブルトン、カフカ、キルケゴール、そしてアナーキズムの源流であるバクーニン。著者がこれらの人物に見出したのは、既存の認識と言語の秩序による統制に抵抗し、転覆するアナーキーな情念の動きである。
著者はあとがきの中で、本書がジャン・リュック・ナンシーのバタイユ批判に触発されて書かれたと述べている。ナンシーの名を馳せた「無為の共同体」はバタイユ論でもある。本書の議論に即せば、ナンシーの批判とは、バタイユのアナーキーな情念が最終的に一種のアナーキズムとして固定化したのではないかということだろう。ナンシーは、バタイユが共同体の可能性を限界まで追求したと評しつつも、「恋人たちの共同体」といった具体的で排他的なものに結局甘んじてしまったと批判した。バタイユの体験に決定的な躓きを見定めるナンシーに対して、本書はむしろバタイユの度重なる蹉跎をアナーキズムから溢出するアナーキーな生成として再評価し、今日におけるバタイユの思想の新たな可能性を提示したと言える。
(林宮玉)