戦争と占領の日本映画史 歴史の「闇」を捉え返す
紙屋牧子の初の単著である本書は、彼女がこれまで発表してきた日本映画に関する数多くの論文のうち、12篇を収録している。現存する貴重な天活作品『五郎正宗孝子伝』(吉野二郎監督、1915年)にあらわれる嗜虐性/被虐性を日清・日露戦争後の社会的・文化的状況のなかに置きなおす第一章と、京都府政百年記念映画『祇園祭』(山内鉄也監督、1968年)をめぐる騒動の政治性を降板した伊藤大輔の側から照射する第十二章に挟まれるかたちで、残りの10章はすべて1940年前後から50年代前半までの作品を扱っており、本書の中心をなすのはやはりこの戦中から戦後占領期、およびポスト占領期までの(いわゆる「貫戦期」の)日本映画史の問いなおしであるといえる。
本書を貫いているのは、副題にある「歴史の「闇」」への視線である。この「闇」という言葉のさまざまな含意については「はじめに」で紙屋が説明しているが、本書を読んだ者にとって各章で捉え返される「闇」とは何より、各々の作品を規定する歴史性と政治性にほかならないだろう。それは、過去の映画作品を表層的に見るだけでは認識することのできないもの(というより、テクストの表層にあらわれているにもかかわらず認識することのできないもの)であり、歴史の「闇」に沈みこんで不可視となったそうした政治的文脈を、紙屋は確かなテクスト分析力と圧倒的な資料調査力によって見事に明らかにしてみせる。
各章で取り上げられる作品を簡単に紹介しておこう。第Ⅰ部は、「隠された欲望」と題されている。先の第一章に続く第二章では、『長谷川・ロッパの家光と彦左』(マキノ正博監督、1941年)を皮切りに戦時下において立て続けに5本製作された長谷川一夫と古川ロッパのコンビ作が取り上げられ、そこでの二人のホモソーシャリティが軍国主義の高まりとともにいかに変容したかが論じられる。第三章では、その長谷川・ロッパが占領下においてふたたびコンビを組んだ『傷だらけの男』(マキノ正博監督、1950年)におけるホモソーシャルが問題となる。紙屋はとりわけ二人が奪いあう女性の和装/洋装をめぐる葛藤に着目し(8回もフラッシュバックされる着替え!)、そこに当時の「田中絹代問題」を接続しつつ、この作品におけるアメリカニズムに対する両義的な感情を読み取る。
第Ⅱ部「「闇」の女たち」で主題となるのは、占領期からポスト占領期の日本映画における女性表象である。第四章では、1948年から流行した「パンパン映画」が取り上げられる。『肉体の門』(マキノ正博監督、1948年)、『夜の女たち』(溝口健二監督、1948年)、『白い野獣』(成瀬巳喜男監督、1950年)という3作の分析によって明らかにされるのは、そこでのヒロインたちの罪と受難がキリスト教という「機械仕掛けの神」によって救済される構造の政治性である。そこには当然、GHQの影がある。続く第五章では、『山猫令嬢』(森一生監督、1948年)を嚆矢として大映を中心に50年代後半まで大量生産された「母もの映画」が俎上に上げられるが、ここでのポイントはその「パンパン映画」との連続性である。豊富な資料によって両者の連関を明らかにする紙屋は、そこから「母もの映画」において母が脱性化される過程、およびその性的な側面が罰せられる構造を解き明かし、最終的に「母子」の像が聖なるものとして(キリスト教的に)表象されることを問題化するだろう。第六章では、いずれも田中絹代が主演した小津安二郎監督作『風の中の牝雞』(1948年)と『宗方姉妹』(1950年)においてある種の「罪」を背負った妻に夫がふるう暴力に、前2章と同様の問題が見出されることになる。ポスト占領期の『やっさもっさ』(渋谷実監督、1953年)を論じる第七章では、「混血児」およびその母親である「パンパン」の表象と、それと並行して描かれる主人公夫婦の「講和」のありようから、同時代のナショナリズムと結びついたジェンダー構造が析出される。
第Ⅲ部「明朗という「闇」」では、戦時下の日本映画において「明朗」という言葉が帯びていた政治性、つまりプロパガンダ性が一貫して考察されている。第八章では『ハナ子さん』(マキノ正博監督、1943年)、第九章では『鴛鴦歌合戦』(マキノ正博監督、1939年)と『春秋一刀流』(丸根賛太郎監督、1939年)、第十章ではエノケン主演の『孫悟空』(山本嘉次郎監督、1940年)。紙屋は、これらの「明朗」で「明るく楽しい」映画が(とくに時流に反したミュージカル映画と評されることの多いマキノの2作が)いかに当時のナショナリズムに沿うものであったかを丹念な資料の精査とテクスト分析によって明らかにする。と同時にそこでは、そうしたプロパガンダ性から逸脱する要素もまた探り当てられることになる。
第Ⅳ部「歴史の「闇」」は、戦後日本における大衆運動と映画作品との関わりが主題になっているといっていい。第十一章では、マキノ雅弘監督の傑作シリーズ最終作『次郎長三国志 第九部 荒神山』(1954年)が「松川事件」をめぐる当時の社会運動への共鳴を示しているという意外な視点が提出される。先に触れた第十二章では逆に、大衆運動的に企画された『祇園祭』をめぐる状況と、伊藤大輔のイデオロギーとのすれ違いが論じられるだろう。
このようにまとめると、日本映画研究者以外には関係のない書物のように見えてしまうかもしれない。しかし、本書のすべての章がきわめて広い射程をもっていることは強調しておきたい。上のまとめではまったく記すことができていないのだが、各章いずれも、それぞれの時代における映画以外のさまざまな社会的・文化的事象が豊富な図版ともにふんだんに記述されており、映画作品はあくまでそうした文脈との関わりのなかで論じられる。その点で本書は、映画研究者だけでなく、貫戦期日本の文化や社会や歴史に興味のある読者にも間違いなく重要な一冊となるはずだ。
そのことが十全にあらわれているのが、『ハナ子さん』を論じた第八章である。「身体の規律化/機械化」という視点のもと、戦時下における「合唱」の政治的機能、「自転車に乗る女性」にまつわる言説、体育イベントやマスゲームやラジオ体操の隆盛、バスビー・バークレーが振り付けたハリウッド・ミュージカルからの影響など、本作に関わるさまざまな歴史的文脈が次々に接続され、この楽しい映画がいかに国策に沿うものであったかが説得的に明らかにされる。さらに本作に対する検閲の状況を詳細に検討しながらナショナリズムとアメリカニズムとの複雑な関係の論究へと進んでいくこの章の多相的な展開は、もう圧巻の面白さである。本書の白眉であるとともに、日本映画史研究の最高水準を示すものといっていいだろう。
最後に余計なことを。上記の内容紹介から明らかなように、本書の陰の主人公は、マキノ正博(雅弘/雅広)である。この名匠が職人的につくり続けた娯楽映画が、そうであるがゆえにまとうことになった政治性。それが本書の裏テーマであり、本書を面白くしている要素のひとつでもある。紙屋がいつか本格的かつ包括的なマキノ論を書くことを勝手に待望している者のひとりとして、本書が広く読まれることによってその気運が高まることを密かに期待している。
(川崎公平)