現在、「エコロジー」は単なる環境意識の合言葉ではなく、感覚の調律、政治的意思決定、ケアの倫理、技術的インフラの設計を横断しながら、現場で運用される作法と制度を問い直す複合的課題へと拡張している。本パネルは、この拡張を見取り図として「新しいエコロジーとアート」を軸に据え、芸術実践とキュラトリアル実践が交差する地点で、関係の結び替え(翻訳/協働)、空間の編集(導線・滞留・公開性)、そしてプロトコルの更新(安全・合意形成・記録)を通じて〈生き延びるための場〉をいかに試作しうるかを検討したものである。すなわち、作品の提示にとどまらず、知の循環と身体のアクセス、地域や制度との接続を同時に設計し、倫理的・空間的・感覚的な再編の可能性を具体的事例の水準で照らし出す試みである。
まず長谷川は、人新世における自然=外在的対象というモデルの限界を踏まえ、アクターネットワーク理論による「翻訳」を手がかりに、展覧会を思考実験として構想するキュラトリアル実践の射程を提示した。ブルーノ・ラトゥールの系譜に学びつつ、感覚的共有を触媒する展示が、科学知と社会制度を可感化しうる「翻訳の現場」として機能すること、そして《すべてのものとダンスを踊って》に見られるように、学際協働と異種間コミュニケーションが共生(cohabitation)への通路を開くことが論じられた。会場では、巨大化・不可視化するエコロジー的事象(ハイパーオブジェクト)をどうチューニングし、観客が意味生成に参与できる場を設計するかが具体的事例とともに示された。
続く髙木は、自身のキュレーション実践を「コンヴィヴィアリティ(共宴性/共友性)」の回復として位置づけ、「地区」「庭」といった場の生態に内在する関係網に介入するための設計原理を整理した。事例としては、《生きられた庭》(京都府立植物園、2019年)や熱海の廃ホテルを舞台とした《四肢の向かう先》(2021年)を中心に検証し、キュレーションを「空間倫理の翻訳」として再定義した。さらに、2025年10月に金沢21世紀美術館で開催予定の《SIDE CORE: Living road, Living space》の構想として、美術館の中心と外縁を貫通する「道」の再設計や、災後の地域と往還するフィールドワーク型プログラムを提示し、公共空間の読み替えと地域との共編の可能性を示した。
最後に清水は、エコフェミニズム/マテリアル・フェミニズム/クイア・エコロジーの議論を踏まえ、「自然」を本質化しないポスト人間中心的なケアの倫理を提起した。人間/非人間、技術/自然の二分法を解体し、物質的実践としての「回折(diffraction)」が差異を生成するプロセスに注目。アニカ・イ、毛利悠子、アーイシャ・ハミードらの作品における翻訳不可能性や、腐敗・風・亡霊・記憶といった非人間的行為体への感受性が、断絶された関係の再接続を駆動することが具体例を通じて論証された。テクノロジーを単なる道具ではなく「ケアの協働者」と見なす視点は、感覚の倫理と芸術の政治を架橋する理論的基盤として説得的であった。
その後、山内はコメントにて根源的な問いを提示した。「芸術/キュレーションこそが何かを開示できる」という理論的前提は、エコロジカルなネットワークや非人間の主体性を前面化する議論において妥当かという懐疑である。アートやエコロジーといった概念自体も歴史的構成物である以上、批判的再構成が必要であり、開示の事例として作品を提示するよりも、具体的な制作やキュレーションがそれ自体アクターとして巻き込まれているネットワークを「どう変容させたか」を記述することが重要ではないかとした。登壇者からの応答として、長谷川は、現場のリアルとして、認識論の次元から存在論へ、そして再び認識論へと往還する必要を強調した。理論だけで脱人間中心主義を唱えるのではなく、科学者らとの協働を通して人文学と再接合していくプロセスこそが自身のキュレーション実践である、と述べた。髙木は、展覧会自体を「人間を変える装置」と位置づけた。人間中心主義のもとでは、まず人間が変わることが前提であり、まず人間への感謝とリスペクトを回復することによって、他のアクターにも視線が開かれる。そのきっかけを展覧会がつくるのだと応答した。以上二名は、キュレーション実践の観点から具体的な返答を与えた。清水は、先の二者の指摘に同意しつつ時間性の問題を強調した。現場のリアルは即時にリアルへと転化するわけではなく、存在論的に感性や認識を変えていくには時間がかかる。その意味で、アーカイブ化の視点(プロセスや変化が見える形式)は重要であると述べた。さらに、言語だけでも視覚だけでもない多層的な身体経験を提供する点でアートの方法には可能性があり、同時に科学の重要性を認めつつも、フェミニスト科学論が指摘してきたとおり科学自体の歴史性・非中立性を併せて検討すべきだと補足した。
最後に、司会の星野が時間超過のため本パネルの終了を告げた。会場からは多数の質問が寄せられ、提示された論点への関心の高さがうかがえた。司会所見にも示されたとおり、エコロジーとアートというテーマやキュレーション実践に焦点を当てた研究の今後の深化と蓄積が期待される。
パネル概要
今日、「エコロジー」はもはや環境意識にとどまる概念ではなく、感覚、政治、倫理、テクノロジーを横断する複合的かつ実践的な問いへと再構成されつつある。本パネルは、「新しいエコロジーとアート」を共通の軸に据え、芸術実践とキュラトリアル実践のあいだに立ち上がる倫理的・空間的・感覚的な再編の可能性を探る試みである。
長谷川祐子は、「新しいエコロジー下におけるキュラトリアル実践」として、人新世における人間と自然の「イントラアクティブ」な関係性に注目する。アーティストをリサーチャーかつ情報の翻訳者と位置づけ、科学的知見と芸術的感性を融合させた展覧会「すべてのものとダンスを踊って」を事例に、異種間コミュニケーションと学際的協働の可能性を検証する。髙木遊は、「庭」や「地区」といった空間に内在する共生的ネットワークに着目し、制度化されない〈ともに生きる〉かたち=「conviviality(共宴性)」を育む空間実践の可能性を、自らのキュレーション経験を通じて提示する。清水知子は、エコフェミニズムおよびポストヒューマニズムの理論的視座から、テクノロジーと非人間的存在を媒介とする現代アートの表現を分析し、感覚の倫理と芸術の政治の新たな回路を提示する。
以上を通して本パネルは、芸術とキュラトリアルな実践が生み出す「生きられる空間」に、新たなエコロジーの形象とその想像力を見出すものである。
新しいエコロジー下におけるキュラトリアル実践/長谷川祐子(京都大学)
人新世において、自然は対象として外在化するのでなく、イントラアクテイブ(もつれあうエージェンシーたちの相互構成)的に人間の世界と複雑に絡まっている。包括的な認知の変換が迫られる中、「政治、科学、芸術が一体となってこの状況に対応しなくてはならない」という緊急性のもとに、ブルーノ・ラトゥールが行なった複数の「思考実験としての展覧会」はこの状況に対応するキュラトリアル実践の意味を明確化した。アーティストはリサーチャーであり、情報の翻訳者であり、多様なメデイムを通して、変容する事象に形を与え可感化する。キュラトリアル実践は事物の関係を解釈によってつなげ、新しい意味を生産する。
本発表においてはこの関係性を明らかにし、エージェントによる「翻訳」行為によってつながりを形成するアクターネットワーク理論と、展示行為の関係の検証を試みる。また発表者が企画したエコロジーに関する展覧会「すべてのものとダンスを踊って──共感のエコロジー」展(2024-25年)を通じて、異種間コミュニケーションと学際的な協働による「つながり」を形成するキュラトリアル実践の可能性を論じる。ステファノ・マンクーゾとPNATによる科学的情報の翻訳と可感化、データ情報の新たなデザインを探求するファルマ・ファンタズマ、コンピュータと物質の間で、環境が造形をつくりだす実験を試みるエイドリアン・ビラール・ロハスの作品などを参照しつつcohabitation のリアリテイへの道を探る。
キュレーション実践を通じた「conviviality」(共宴性/共友性)の回復/髙木遊(金沢21世紀美術館)
本発表では、都市や自然との関係を再構築するキュレーション実践を通じて、エコロジーと空間の共生的な再編成について考察する。とりわけ、「地区」や「庭」といった有機的諸関係の織物、すなわちエコロジーに着目し、それらを媒介とする空間がいかにして「conviviality」(ともに生きる歓び)を宿し得るのかを探る。芸術に付随するキュレーションによって生み出される空間は、しばしば制度的枠組みや設計された秩序に従属するが、本発表では、宴会や共同作業といった、一見逸脱的で非制度的な行為を含む空間実践に注目し、「生きられる空間」の生成における自律性の回復可能性を提示する。
さらに、こうした空間における「宴会の秘事」とも呼べる、形式を逸脱した共存在のあり方が、アートとエコロジーを媒介する鍵となることを、実際のキュレーションの事例およびフィールドワークに基づいて論じる。
とくに、発表者自身が手がけたキュレーション実践に焦点を当てる。2019年に京都府立植物園を会場に開催した展覧会「生きられた庭」、2021年に熱海で実施された展覧会「四肢の向かう先」、そして2025年10月に開催予定の「SIDE CORE」展である。これらのプロジェクトでは、空間が観客と作品、作家と土地のあいだに新たな関係性を織り上げ、制度化されない「生きられる空間」の可能性を示唆することを試みている。
感覚の倫理、芸術の政治──ポスト人間的ケアとエコロジー/清水知子(東京藝術大学)
1974年にフランソワーズ・ドボンヌが「エコフェミニズム」という言葉を提唱して以来、エコロジーとフェミニズムの交差は、自然=女性という本質主義的構図に陥る危険を孕みつつも、自然との共生や生命倫理をめぐる多様な議論を展開してきた。だが21世紀の現在、この枠組みは大きく変容しつつあり、技術や非人間的存在をめぐる新たな倫理的想像力が模索されている。
本発表では、アニカ・イ、毛利悠子、アーイシャ・ハミード、イオナット・ズールといった現代アーティストの作品を取り上げ、彼女たちがテクノロジーとエコロジーの交差点において展開する芸術実践を考察する。それらの作品は、自然と技術を対立的に捉えるのではなく、断絶された関係を詩的かつ物質的に再接続する試みとして提示される。微生物、果実、風、腐敗、亡霊、記憶といった非人間的存在、あるいは「声なき他者」たちへの感受性を通じて、「ともに生き延びる」ための感覚的政治と倫理の回路を開いている。理論的枠組みとしては、「子どもではなく類縁関係をつくろう」と呼びかけるダナ・ハラウェイ、「批判的ポストヒューマニズム」を提唱するロージ・ブライドッティ、そして「人間以上」の存在とのケアの倫理を論じるマリア・プイグ・デ・ラ・ベラカサの議論を参照しながら、ポスト人間中心的なエコロジーとフェミニズムの交錯点と、その未来的展望を探っていきたい。