個人研究発表セッション5
日時:2025年8月31日(日)10:00-12:00
場所:武蔵大学江古田キャンパス 11204
・蓮實重彦における記号と反記号──表象文化論のメソドロジーに向けて/入江哲朗(東京外国語大学)
・「冥の会」における領域横断的な協同作業──『メデア』(1975)の作劇・演出上の仕掛けについて/新里直之(京都芸術大学)
・「NTR」はいかにして成立したか──美少女マンガ誌『コミックコーヒーブレイク』(富士美出版)の分析/森田百秋(京都精華大学)
【司会】大橋完太郎(神戸大学)
大会二日目である8月31日の午前に開催された個人研究発表セッション5では、三名の会員による研究発表がおこなわれた。
最初の発表は入江哲朗氏(東京外国語大学)による「蓮實重彦における記号と反記号──表象文化論のメソドロジーに向けて」であった。入江氏の発表は、蓮實重彦の著作や論考を主な対象として、「表象文化論」という本学会の骨子ともいえる概念の構造と形成過程を歴史的かつ理論的に問い直すものである。従来ある種離散的な知的傾向として考えられてきた「表象文化論」の問い直しだが、入江氏は、その知的源泉のひとつと見なされてきた蓮實重彦の数々の言説を具体的な対象として、その論理的な特徴を抽出・再構成することを通じて表象文化論的な思考の方法化・形式化を試みる。より具体的には、氏の問題提起は大学において「表象文化論」を教えるという現場的な切実さに起因していた。表象文化論に対するこうした教育的要請に応じるために、氏は蓮實の反記号的思考のなかにある表象文化論的思考の核心を捉えようとする。蓮實が繰り返し主張した文体や言語の物質性とは、蓮實によれば記号的なものに反するものであったが、入江氏はそこに内在する記号運動の側面に着目し、それを北米の哲学者C・S・パースによる「現実(リアリティ)」の概念と重ね合わせることで、蓮實的思考を記号的リアリティの探究として一般的に理解可能な形に落とし込むことが可能であると提唱した。
二人目の発表者である新里直之氏(京都芸術大学)による「「冥の会」における領域横断的な協同作業──『メデア』(1975)の作劇・演出上の仕掛けについて」は、1970年に日本の古典芸能、西洋演劇、演出家や研究者によって結成された「冥の会」における演劇活動を取り上げるものである。新里氏によれば、「冥の会」の目的は、ギリシアの古代悲劇と日本古来の能の接点を探究し、演技スタイルや仮面の使用のあり方を模索するなかで、伝統的なもののアクチュアリティを検討するというものであった。新里氏はそうした試みのなかで、1975年に上演された『メデア』に着目し、原作から施された潤色およびそれを元に進められた演出の特徴を描き出そうと試みた。結果として本発表は、『メデア』をはじめとした「冥の会」の西洋演劇翻案の中心的な担い手である渡邊守章の演劇観や演出手法を中心に論じるものとなった。詳細は措くが、潤色のポイントとして、セネカの原作を元にした「劇構造の重層化」「コロスの再編成」「劇言語の多元化」があげられ、また演出のポイントとしては能面の使用や日本古典芸能の発声法についての考察や検討があった点などが指摘された。「冥の会」における渡邊守章の演劇的功績を中心に扱う新里氏の論は、当時の貴重な上演映像と合わせて指摘されたこともあり、演劇史的な研究成果を示すのみならず、渡邊がその扱いをめぐって数々の試行錯誤を繰り広げた「役者の身体」がもつ圧倒的な存在を垣間見せるものでもあった。
三人目の発表は森田百秋氏(京都精華大学・博士課程)による「「NTR」はいかにして成立したか、美少女マンガ誌『コミックコーヒーブレイク』の分析」であった。森田氏は、まず1990年代中盤から2000年にかけて刊行された美少女漫画雑誌『コーヒーブレイク』を中心的対象とし、そこで活躍した当時のメジャー作家やそれと関連の深い同人作家によって創設されたポルノグラフィー的装置(「NTR」)が、それ以降の美少女を侵犯対象としたゲームの特徴的な展開(「凌辱」)にまで継承されている経緯を明らかにするものであった。森田氏の発表は、漫画の筋としては最悪のものだと考えられる展開が、ゲームにおいてはプレイの選択の結果生じる「バッドエンド」の演出へと転化していったプロセスを可視化するものであった。またそれに加えて、それぞれのコンテンツの詳細に注目することによって、当時一般化しつつあった個人のビデオカメラによる撮影行為や、ビデオテープによるその流布と再生といった、映像の私的な生産と流通が、そうした行為においても大きな役割を果たすという点が同時に示されたことも、森田氏の発表の重要な指摘であったように思われる。
発表終了後の質疑も非常に活発に行われ、入江氏に対しては蓮實における出来事概念と現実概念との関係や、パース哲学的解釈とベルクソン哲学的解釈との相違点などについて、新里氏に対しては冥の会の発端や終焉の歴史的経緯やとりわけ観世寿夫の存在の貴重さについて、また森田氏に対しては小説的マゾヒズムとゲーム的マゾヒズムの違いや90年代文化における「ビデオテープ」の存在感などをめぐって、短い時間ではあったが充実した数々の議論が会場参加者と交わされた。蓮實重彦の著作や渡邊守章の演劇的功績を追いかける表象文化論の起源を問う研究と、ポルノグラフィーをめぐる漫画的装置とゲーム的装置の比較を問う最近の研究という、表象文化論の過去と未来の突端を問う研究発表が並んだが、それらの問題系が図らずも時折奇妙に出会いつつ、表象文化論の知的な総体を浮かび上がらせる、知的刺激に満ちた時間を過ごせたことは、たまたま司会を務めた一研究者にとって、実に実り多い幸せな経験であった。
蓮實重彦における記号と反記号──表象文化論のメソドロジーに向けて/入江哲朗(東京外国語大学)
本発表のモチベーションは、「表象文化論入門」の担当という教務ゆえに発表者のなかで強まった、表象文化論のメソドロジーを求める思いに存する。これを叶えるための手段として本発表は、表象文化論という学問分野の確立に寄与した蓮實重彦を俎上に載せる。より具体的に言えば本発表は、表象文化論ならではと形容しうるアプローチの明示化を目標に据えつつ、記号をめぐる蓮實の言説を分析する。
「表象」(representation)という語は、「記号」(signないしsymbol)や「記号作用」(signification)などの近傍にある。ゆえに「表象文化論ならでは」の探究はおのずと、記号論(semiotics)との差異化を伴う。表象文化論の立役者たち──蓮實を含む──はその差異をしばしば、記号作用を条件づけている(政治的or文化的or歴史的or唯物論的or……)力学との交渉に求めた。
「記号」は蓮實の批評のキーワードであるが、実のところ「反記号」も同様である。記号をめぐるこの見かけ上のアンビヴァレンスは、互盛央が論じたとおり、蓮實の批評にとってその価値の一源泉である。他方でそれは蓮實において、語「抽象的」の一貫した悪口的使用に帰結してもいる。本発表は、あえて後者の側面を批判的に検討することにより、どのようなかたちでなら蓮實の批評のアプローチを表象文化論のメソドロジーに組み込みうるかを考察する。
「冥の会」における領域横断的な協同作業──『メデア』(1975)の作劇・演出上の仕掛けについて/新里直之(京都芸術大学)
「冥の会」は、能・狂言の役者、新劇の俳優、演出家、評論家らによって1970年に結成されたグループであり、1976年までギリシアやローマの古代悲劇や前衛戯曲などを素材とする実験的な舞台を発表している。その活動は、伝統演劇と現代演劇の垣根を超える協同のフィールドにおいて表現行為の根拠を問い直す、他に類例を見ない先駆的事例でありながらも、従来の批評・研究ではその真価が充分に見極められてきたとは言い難い。
本発表は、冥の会の代表作の一つである『メデア』(1975年、セネカ作、渡邊守章訳・潤色・演出、観世寿夫ほか出演)に焦点をあて、独自の上演関係資料の調査にもとづき作品の生成過程を跡づける。その上で、作中人物の心理や情念の表出に加えて祭儀や侵犯行為にちなむ啓示の言葉が織りなされているテクストの特性、また能楽の技法を起点としながらも異なる領域へと拡張していく俳優の身体演技のありようについて、作劇・演出上の仕掛けという観点から考察する。
グローバル化した現代世界ではさまざまな文化的越境が顕在化しており、今日の舞台芸術においても既存の枠組みを超える交流や混成的なコラボレーションの機会は増えている。そうした現状に対して、領域横断的な協同作業を本領とする冥の会のクリエイションが、どのような示唆を含んでいるのかについても、あわせて論じたい。
「NTR」はいかにして成立したか──美少女マンガ誌『コミックコーヒーブレイク』(富士美出版)の分析/森田百秋(京都精華大学)
本発表は美少女マンガ誌『コミックコーヒーブレイク』(富士美出版)の分析を通じて、2000年頃における「NTR(寝取られ)」ジャンルの成立過程を考察する。NTRとは、主人公の妻や恋人が第三者と性愛関係を結ぶ描写を特徴とするポルノである。同誌には1999年10月号から2000年3月号まで、NTRの金字塔的作品としてジャンルの普及に多大な影響を与えた嶺本八美「LILLIPUTIAN BRAVERY」が連載されていた。その誌面で注目すべきは、掲載期間の一部が同作の連載と重なっていた毛野楊太郎「イケないコとして♡」である。同作は最終話が複数用意されたマルチエンディング方式を採用しており、1999年12月号掲載の「タイプA」ではヒロインが見知らぬ男達に快楽を覚える展開を美少女ゲームの分岐ルートとして表現した。この形式の採用は作者が美少女ゲームの愛好家であったことに加え、出版元と美少女ゲーム会社elfの関係性もふまえるべきである。当時の誌面には「鬼畜」ゲームとして名高いelfの『遺作』『臭作』の攻略情報を扱ったムック『ELF MANIAX』(1999)の広告が繰り返し掲載されており、作者と読者との間に「鬼畜」ゲームが持つ形式と内容が共有されていたと考えられる。
本発表ではelf作品と「イケないコとして♡」の比較を通じて、「バッドエンド」の描写がNTR的な審美性の基盤となっていることを明らかにする。