パネル3 クィアの外縁から 高齢のトランスジェンダー・Aro/Ace・「異性愛」
日時:2025年8月31日(日)16:00-18:00
場所:武蔵大学江古田キャンパス 6103
・アメリカ合衆国における高齢のトランスジェンダーによるケアの歴史──無償のケアを再考する/両角詩穂(同志社大学)
・中年期以降のAro/Ace的な時間経験とオルタナティブな親密性──大谷朝子『がらんどう』を事例に/井ノ下朝陽
・アートにおける「クィア」の再考──グレイソン・ペリーの実践を中心に/中嶋彩乃(京都大学)
【コメンテイター】久保豊(金沢大学)
【司会】両角詩穂(同志社大学)
本発表パネルでは、これまでのクィア・スタディーズの知見を援用しつつ、クィアをめぐる批評言説や芸術実践、およびそれらに関する研究のなかで見過ごされてきた「クィアなもの」の可視化が目指されていた。トランス・コミュニティで親しまれたニュースレターや雑誌、日本の現代小説、芸術作品としての地図といった文字テクストを対象に、高齢かつ有色トランスジェンダーによるケアの歴史、アセクシュアルやアロマンティックの経験、シスジェンダーで異性愛者の白人男性芸術家による「クィア・アート」実践の読解がなされた。
両角氏の発表は、老年学の先行研究に依拠しながら、高齢のトランスジェンダーがコミュニティのなかで担ってきた無償のケア実践の歴史を紐解き、人種やジェンダーの交差性を踏まれたケア論の再構築を促すものであった。特に、雑誌『Metamorphosis』にトランス男性が寄せた疲弊をめぐる記事への着目は、トランス・コミュニティの形成と維持の中心にも無償のケア労働が根強く存在した事実を明らかにした。ケア負担への注目は、人種や民族の差異がトランス・コミュニティにおいて高齢のトランスジェンダーが果たすケアやペアレントフッドの役割に与える影響や、高齢になってからトランス・コミュニティへ参入する際にどのような障壁が生じうるかという問いと複雑に絡み合うものであった。今後の課題としては、ニュースレターや雑誌記事のより具体的な分析や、発行部数や流通経路など、トランス・コミュニティ内におけるニュースレターおよび雑誌の位置付けがどのように高齢(かつ有色の)トランスジェンダーのケアをめぐる課題とつながっていたかについて、さらなる検証が期待される。
大谷朝子の小説『がらんどう』を分析対象とした井ノ下氏の発表は、40歳前後の女性二人が同居生活において育む親密さを「アセクシュアル的共鳴」の視点を通じてAro/Ace表象として読み解くために、「失敗」や「無い」という経験を手掛かりに、女性主人公・平井が生きるクィアな時間性を言語化しようと試みるものであった。また、クィア・プラトニックな相互ケアの実践として、二人の女性の関係を位置付けようとする試みも、日本文学において描かれてきた、「名付けを拒否する/拒否してきた」関係を読み解くための方法論の萌芽を感じさせるものであった。一方で、ジャック・ハルバースタムの『失敗のクィアアート』とIn a Queer Time and Placeを主な理論的な柱として置きつつも、「失敗」や「無い」をめぐる経験がプロットの展開に従ってのみ抽出されていた点は否めないため、小説という特定の媒体や構造が持つ語りの力に対して「アセクシュアル的共鳴」を援用する分析が提示しうる解釈可能性をより広く捉えることで、『がらんどう』の面白さをさらに探求できると考える。
芸術家グレイソン・ペリーの地図作品を分析対象とした中嶋氏の発表は、批判的異性愛研究の視点から〈異性愛者の男性〉というペリーの「規範的」位置を斜めから読み替えることを目的とした。そのなかで、男性性の恣意的境界と病理化、異性愛的パートナーシップの序列とアイデンティティの反復的再生産を可視化し、「ストレートに考える」思考を攪乱することで、異性愛制度をクィア化する批評的視座が提示された。創作物としての地図の空間的解剖から、ペリー自身の欲望と家父長制の批判実践の可能性を見出す方法は刺激的であった。ただし、ペリーの芸術作品にクィアネスを同定する美術史的意義は十分に理解できるものの、ペリーがインタビュー等で発揮するマッチョな男性性はその読解実践においてどのような障壁となりうるものであり、また、美術産業そのものにおけるクィアネスの商品化の構造に対して本研究をどのように位置付けうるか等、今後の研究で明らかにされることを期待する。
以上、「クィアの外縁から」という共通項から紡がれる三者の視点はいずれも刺激的であった。本報告の最後に、パネル全体に投げかけた問いを振り返りたい。
パネル要旨には、「積み上げられてきたクィア・スタディーズの議論への批判的応答という側面を重視しながら、「クィア」という視点をひらきうる可能性を探りたい」とある。確かに、三者の発表では、クィア・スタディーズをさらに更新しうる視点が提示されていた。しかし、その一方で、少し意地悪な見方をすれば、「「クィア」という視点をひら」く以前の問題意識として、本パネルのタイトルにある「クィアの外縁から」に対して、それぞれの発表者は自らの研究をどのように位置付けていたのか。
本パネルの「クィアの外縁から」というタイトルにある、「外縁」とは何であり、どこを指すのか。 学会初日のシンポジウム「通じなさを抱えて──言葉をまたぐフェミニズム/クィアのポリティクス」では、beyond、beneath、besideなど、位置や空間認識をめぐる表現が用いられていたが、本パネルが関心を寄せる「から」とはどのような視点であり、そこからどこかへ向かえるのか、あるいは向かえないのか。「外縁から」という空間的な認識において、各発表はそれぞれの学術あるいは関心分野を軸に、「クィア」に対してどのような位置にいると考えているのか。さらには、その位置付けがなぜ重要だと考えられるのか。非常に抽象的な問いの連鎖ではあるが、今後の研究を進める上で、これらの問いに時折立ち返ってもらいたい。
パネル概要
クィア理論という語が学術領域において提起された一九九〇年以降、クィア・スタディーズは既存のカテゴリーを絶えず問い直しながら、その輪郭を変容させ続けてきた。クィア理論内部のインターセクショナルな視点の欠如や、都会性規範への批判に応答しながら豊かな議論が開かれてきたことが示すように、クィアな営みの中には認識されることが困難な実践や関係性が多数存在する。クィア・スタディーズが過去の人物や表象にクィア性を遡及的に見出しながら不可視化された歴史を掘り起こしてきたように、大文字の歴史のなかで埋もれた実践を取り上げてゆくことは重要である。
本パネルではこうした問題意識を共有し、これまでのクィア・スタディーズの中であまり焦点化されてこなかった主題を三者三様の視点から取り上げる。両角は、シスジェンダー中心的なものとされてきたケアを批判的に捉え、高齢のトランス女性がどのように互いをケアし、生き延びてきたのか検討する。井ノ下は、文学作品を用いて、中年期におけるAro/Ace的な時間経験と、恋愛や家族の枠組みに限定されないオルタナティブな親密性を検討する。不可視化されてきたマイノリティの親密性に焦点を当てる両者に対して、中嶋はマジョリティであるがゆえに自明視されてきたシスの異性愛男性であるグレイソン・ペリーを取り上げ、クィアと美術という枠組みにおいて捉え返すことを試みる。以上の発表を通じ、積み上げられてきたクィア・スタディーズの議論への批判的応答という側面を重視しながら「クィア」という視点がひらきうる可能性を探りたい。
アメリカ合衆国における高齢のトランスジェンダーによるケアの歴史──無償のケアを再考する/両角詩穂(同志社大学)
本発表では、トランスジェンダーが担ってきたケアに着目し、特に高齢のトランス女性によるケアを論じる。近年、クィア・エイジングの議論が進み、高齢のLGBTQ+の経験が可視化されつつある。高齢のLGBTQ+に対しては、例えばアメリカ合衆国で最も歴史ある団体SAGEが幅広い支援を行ってきた。一方で、高齢のLGBTQ+への支援がゲイやレズビアン中心的なものに留まり、“happy, healthy, and proud”といった肯定的なイメージの推進に注力していることを批判的に捉える必要がある。なぜなら、高齢のトランスジェンダーに特徴的なケアの営みやままならない関係性を不可視化してしまうからだ。故に、本発表では高齢のトランス女性同士のケアに着目し、彼女らの経験を含めたケア論のあり方を再考したい。
トランス女性は母娘のような関係性を築くことで、互いをケアし、居場所を作ってきた。彼女たちは、誰もケアしないトランス女性の住まいや仕事といった生活の世話を引き受け、生き延びてきたのだ。言い換えれば、彼女たちは当事者間でケアの責任を担わざるを得なかった状況にあったともいえる。このような当事者による無償のケアは、コミュニティの循環に貢献する一方で、燃え尽き症候群や当事者間のケアの限界といった問題を浮き彫りにする。こうした問題は、ある高齢のトランスジェンダーによれば“Voluntary Gender Workers”と表現される。
本発表は、老いのクィア性を問い直しながら、高齢のトランス女性が無償のケアを担ってきた歴史を辿ることで、トランスジェンダーとケアの未来を検討しようとするものである。
中年期以降のAro/Ace的な時間経験とオルタナティブな親密性──大谷朝子『がらんどう』を事例に/井ノ下朝陽
本発表では、恋愛的/性的惹かれを経験しない性的指向、アロマンティック/アセクシュアル(Aro/Ace)的な要素を持つ人々が、特に中年期以降に直面する親密性の問題と時間経験を取り上げる。
社会における「成熟した大人」や「幸福な人生」のイメージは、恋愛を経て結婚・家族形成へと至る規範的なライフコースを前提としており、それに沿わないAro/Ace的な生のあり方はしばしば「未熟さ」や「空虚さ」と結び付けられる。こうした経験については、異性愛的な結びつきや再生産、健常性を基盤とした社会規範と、人間の「成長」に関する時間的規範が強く結びついていることを指摘するクィア時間論を参照することができるだろう。しかしながら、その中でAro/Aceについてはこれまでほとんど論じられてこなかった。本発表では、Aro/Aceを時間的観点からクィア・スタディーズの議論に位置づけるとともに、これまでのクィア表象における性的/恋愛的欲望が「ある」という前提を批判的に再考する。さらに、中年期という時間に着目することで、焦点化される「若さ」と「老い」の間で宙吊りになった時間を再検討したい。
ケーススタディとして、大谷朝子の小説『がらんどう』を対象に、クィア・リーディングの知見を援用したAro/Aceリーディングを行う。「クィアな時間性」(Halberstam, 2005)の観点からAro/Ace的に読める主人公<平井>の経験を分析するとともに、アロー(非Aro/Ace)として読めるもう一人の登場人物<菅沼>との間にある、恋愛的パートナーシップとも規範的家族とも異なる親密性の在り方について考察する。
アートにおける「クィア」の再考──グレイソン・ペリーの実践を中心に/中嶋彩乃(京都大学)
本発表は、イングランド出身の現代美術家グレイソン・ペリー(1960-)の制作実践をクィアという観点から分析することを試みるものである。美術史やアートにおける「クィア(性)」を語る際、しばしば問題化されるのがどこまでをその射程に含めるか、という点である。クィアやLGBTQ+であると(遡及的に)名指すことができるアーティストによる作品や、明示的な同性愛表象を指す場合に限ることもあるが、近年の議論の中では、ストレートなものや規範性に対する批判的態度をそこに読み取られ得るものを広く、アートや文化における「クィア」とみなす傾向が顕著である。
ペリーは妻子を有する異性愛者の男性であるが、彼の異性装によるジェンダー表現の曖昧さや現代美術における伝統的メディウムの使用については、一定のクィア性が認められてきた(Roberts 2020)。その一方で、パントマイム・デイムやコメディにおける女装との類似性などから、異性装を含む彼の実践は非クィアなものであるとの批判も浴びてきた(Murphy 2015)。このようにペリーの異性装は、異性愛規範を脅かすことのない安全な位置へとおかれることで大衆に受容されてきたとも言え、そのクィア性は再考の余地がある。
本発表では、異性愛男性像の構築という観点から改めてペリーの実践を造形作品と紐付けて解釈することで、異性愛的なものをクィアに読み解くクィア・リーディングを試みたい。こうした視座のもとにペリーを捉え直すことで、その自己表象が孕む揺らぎを検証し、自明とされてきた美術史およびアートにおける「クィア」をも批判的に再検討することを目指す。