本研究発表では、ジャン=フランソワ・リオタール、ジャン=リュック・ナンシー、レーヌ・シクスーに関する発表が行われた。各研究発表と質疑応答の概要を報告する。
浅野の発表「リオタールの『装置』概念について──その芸術作品論での応用と思想的意義」では、1971年から1973年にかけてリオタールが展開した思考、とりわけ『言説、形象』から『リビドー経済』に至る過程を、美学・芸術論の観点から捉え直すことを目的としている。これまで「失敗」とみなされがちだった『リビドー経済』を切り捨てるのではなく、その生成と発展を検討することで、思想史的な意義を再評価しようとする試みだ。中心となるのは、一般にはフーコーやアガンベンを通じて知られる「装置」概念であるが、浅野によればリオタールが彼らに先行して独自に展開していたという。特に、絵画を特権的な思考実験の場=「装置」として位置づけていた点に注目する。
発表ではまず『言説、形象』における視覚の構築主義とセザンヌ論を取り上げ、後の装置論や経済論の基盤を確認した。続いて「リビドー装置としての絵画」において、その美学が装置概念によって理論的に完成する過程を示し、最後に「ハイパーリアリズム論」を通じて、同時代芸術との関わりからリオタールのリビドー経済がどのように発展していったのかが考察された。個人的な見解ではあるが、本発表が示す理論と美術史の事例の往還は、リオタールの難解な議論を具体的に理解させる力があり、特筆すべき成果と考える。
金田の「我々は変われるか──ジャン=リュック・ナンシーの哲学から考える到来の問題」は、ジャン=リュック・ナンシーの「共存在論」において中核的な位置を占める「到来」という概念を再考する試みであった。金田は、これまで「到来」が先行研究において詳細に論じられてきた一方で、その多くがナンシーが自分の哲学の中でどう問題を設定しているかを尊重せず、別の立場から欠点を指摘する批判にとどまり、思想内部から前提を問い直す視点が不足していることを問題として提示した。
具体的には、ナンシーの哲学における「到来」を、身体の接触や感覚の仕組み、さらに言語による発声や傾聴の関係から検討し、それを奇跡的な瞬間としてだけではなく、物理的・生理的・社会的・教育的条件に支えられたプロセスとして捉え直した。考察は二つの問題に整理された。第一に、最初から完成した形で決まっていて、その枠組みが動かせないものと見なされてしまうことや、その権威や不変性が暗黙に肯定されてしまうのではないかという点。第二に、共存在を成立させる実践(参加や発言)が神秘的なものとして過度に称揚され、その実現条件や制約が見えにくくなる危険である。
発表ではこれらを「到来の問題」として提示し、誕生の比喩や睡眠に関するナンシーの議論を参照しながら、共存在を「共」の柔軟性・透過性に基づき捉え直す必要性が論じられた。結論として「到来」と「我々」は明確な境界として奇跡的に生じるのではなく、現実的な条件に依存しながら育まれる過程として理解されるべきであるとされた。ナンシー自身の理論の中から問題を問い直そうとした点が新鮮であった。
竹山は「ドローイングにおけるエクリチュール・フェミニンの触覚性──エレーヌ・シクスーの「画家のように書く」身振りを手がかりに」において、芸術実践論とフェミニスト哲学を架橋しながら、ドローイングにおける感覚的な回路を明らかにした。エレーヌ・シクスーの「エクリチュール・フェミニン」を理論的手がかりとし、シクスーのテクストや実際の書き方を精査することを通じて、ドローイングの不定形性や身振りの生成力が検討された。とりわけ、シクスーが「画家のように書く」と述べた実践に注目し、その草稿調査や書法の分析を通じて、ドローイングが終わりなきプロセスの只中にあるパフォーマティブな営みであることを示した点が特徴的であった。発表は三段階で展開された。
まず、シクスーのドローイング論的エッセイ「絶え間なく、いいえ、素描をすることにある状態、いいえ、むしろ:処刑執⾏⼈の切り離し」を手がかりに、エクリチュール・フェミニンとドローイングの双方を「身振りそれ自体」として捉える視点が提示された。次に、その身振りの内実として「最大の受動性」が取り上げられ、他者を通過させる触覚的なエコノミーとして再解釈された。ここでは、カレン・バラッドの触覚論やクィアな親密性の概念が参照され、ドローイングの行為が新たな所有や関係性を開くことが強調された。
最後に、アンリ・フォションの「タッチ」やティム・インゴルドの「ラインズ」と結びつけながら、身振りとしてのドローイングを非線形的な思考を生み出す場として位置づけ、芸術的存在を生成するメディアであるとの結論が導かれた。シクスーの思想をドローイング論へと開き、触覚性を中心に芸術実践の新たな意義を示すものであった。
質疑応答では、用語確認から理論枠組みの射程、制作実践への還元まで多面的な議論が行われた。全体として共同性・接触・メディウム、そしてエコノミー/局所論といった論点が立体的に浮かび上がったという説明が司会の柿並からされ、まとめられた。
リオタールの「装置」概念について──その芸術作品論での応用と思想的意義/浅野雄大(東京大学)
本発表は70年代J-F・リオタールにおける「リビドー経済」の理論的枠組みの位置づけと、彼の芸術批評という実践を連関させて考察するものだ。そこで問題となるのは「装置[dispositif]」という概念である。
「装置」については特にフーコーとの関連で注目されてきた(Agemben, 2007)。しかしフーコーがその概念を定式化する70年代後半にさきだって、リオタールは独自の文脈で装置論を展開していた。彼は学校や刑務所などだけでなく、表象一般や言説、さらには絵画、小説などの芸術作品を欲望の鬱積によって有機化した装置だと捉え、デリダの書字の差延経済に対して、形象的な欲望の経済を志向した。さらにこうしたリビドー経済理論は、大量に行われた芸術批評とともに構想されており、彼の装置論はこの実践と切り離すことができない。数少ないリオタール芸術論と装置の関係についての理論的研究はこうした70年代リオタールの形象論との関係と、芸術批評実践との関係を問う議論が不足している。
本発表が主張するのは、以上の二点、リオタールの形象論と作品論が密接に関わっており、この関係が彼の「装置」論の意義をなしていることである。そのために本発表では①特に『言説、形象』における形象-絵画論との関係で思想的位置づけと②特に重要であるジャック・モノリとデュシャンにおける「装置」概念の意義を連関的に考察する。
我々は変われるか──ジャン=リュック・ナンシーの哲学から考える到来の問題/金田瑞樹(広島大学)
この発表では二十世紀後半から二十一世紀初頭までのフランス哲学に表れる「到来」に関する理論の文脈で、ジャン=リュック・ナンシーの「共存在論(co-ontologie)」における到来、共存在の「予期せぬ到来(la survenue)」の理解及びそこに含まれる重要な前提について、特に彼の一九九〇年代以降の身体と共存在に関わる著書を頼りに考察を行う。ポストデリダ派とも形容される哲学思想のうちナンシーのそれを哲学、美学や政治の文脈で解説する研究や著書はフランス語圏外でも見られるものの、彼の思想体系や到来の構造についてより批判的な精査を行うもしくは疑問を投げかけるような研究は、おそらく時間的な要因もあるが故に依然として少ないように思われる。ここでの考察は彼の到来の理解とその構造を理論-実践的問題として扱い、そこに含まれる前提、彼が「世界」と呼ぶ意味の全体的な領域の青写真の所与性、そして共存在もしくは到来の実演や実践の神秘性、この「世界」と共存在に関わる二つの前提について議論を行う。これらについての議論によって導かれる疑問は現存の「世界」の権威や現状維持の間接的肯定及び「世界」自体の柔軟性や可塑性の忘却、さらには到来の神秘性の保存による共存在やリアルの未来性の盲目的な崇拝及び共存在の実演そのものの実現可能性に関わる疑問である。この発表が貢献を試みるのはナンシーの哲学の前提や立場のさらなる理解及び到来に関する議論の発展である。
ドローイングにおけるエクリチュール・フェミニンの触覚性──エレーヌ・シクスーの「画家のように書く」身振りを手がかりに/竹山真熙(東京藝術大学)
本発表は、「エクリチュール・フェミニン」の代表格として知られるエレーヌ・シクスーの「私は画家のように書く」という言葉を起点に、ドローイングを描く身振りに内在する触覚性について考察するものである。その際、シクスーが1991年にルーヴル美術館で開催された展覧会「修正」の図録に寄稿したエッセイ「絶え間なく、いいえ、素描している状態、いいえ、むしろ処刑執行人の斬首」とその草稿をもとに、実際の書くプロセスを観察し、「描くように書く」身振りと「女性的に書く」実践との関係性を確認する。シクスーにおいては、書くときの身体の状況・文体・意味は不可分であり、書くときの脱中心的な自己の身体と、触覚的な特徴をもつ「女性的なリビドー・エコノミー」の構造とが、ともに「画家のように書く」ときの感覚的回路を可視化している。これを踏まえ、ドローイングの身振りにも同様の触覚性が内在している可能性について、カレン・バラッド、ティム・インゴルドを援用しながら論じる。ドローイングとは単に輪郭線を描く行為ではなく、素材との応答的関係性を通じた感覚と思考の非線形な生成のプロセスであり、描かれたフォルムの背後にある身振りこそがメディアとして意味を伝達する詩的効果を発揮することを示す。「クィアな親密さ」を体現する表現形式のひとつとして、ドローイングを再解釈するためのオルタナティブなレンズを提供する。