第19回大会報告

パネル2 新即物主義100周年 今、ヴァイマル共和国時代の芸術文化を考える

報告:池田真実子

日時:2025年8月31日(日)13:30-15:30
場所:武蔵大学江古田キャンパス 6301

・「観相学者」デーブリーン──「症候学的パラダイム」のなかの「標本」写真集/相馬尚之(筑波大学)
・新即物主義音楽が拒んだ〈私〉──音楽的表現対象の変遷史/小島広之(東京大学)
・展覧会になにができるのか──「苦難にある女性たち」展(1931)をめぐる考察/池田真実子(京都大学)
【コメンテイター】石田圭子(神戸大学)
【司会】池田真実子(京都大学)


1925年のマンハイムで「新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト、Neue Sachlichkeit)」の名を冠した展覧会が開催されてから100年を迎える昨今、ドイツなどでヴァイマル共和国時代(以下、ヴァイマル時代)の芸術文化の再検討が進んでいる。これを背景とした本パネルでは、ヴァイマル時代の芸術文化の分野横断的な検討が目指され、それぞれヴァイマル時代の文学・音楽・美術を研究する三者による研究発表、石田圭子氏によるコメント、そして全体討論がおこなわれた。

相馬尚之氏の発表「「観相学者」デーブリーン──「症候学的パラダイム」のなかの「標本」写真集」では、アルフレート・デーブリーンの未来小説『山と海と巨人』(1924)を、彼の観相学への関心から読み解くことが試みられた。当時流行した観相学は人物の相貌から個人の性格を判別する娯楽を超えて、相貌の背後にある属性や特質を読み解く一種の症候学へと発展した。デーブリーンも観相学に関心を寄せていたが、彼は個々人の相違を消失させ均質化する「平板化(Abflachung)」を相貌に読み解く一方で、なおも個人への執着を残していた。このように普遍と個別いずれもが棄却されないデーブリーンの観相学を可能にしているのは、相馬氏によると「距離(Distanz)」である。すなわち、人物に対する遠近に応じて、その相貌には平板化された普遍性も、残存する個別性も読み解くことができる。このデーブリーンの観相学の文学的展開を、相馬氏は『山と海と巨人』の分析をつうじて追跡する。そこではたしかに、群衆として語られる人々はもはや個人ではないばかりか、カンマや接続詞を繰り返し省略した独特の文体によって他の動物や事物とともに「それ(Das)」という、まさしく「平板化」された集合体と化している。しかし、ヒトと動植物や鉱物を混ぜ合わせた「巨人」の描写において、融合し各部位を成すヒトも動植物も依然として均一化されず、個別性を残す存在であることが示される。以上の分析から、『山と海と巨人』は普遍性と個別性を同時に読み解く「距離」を文学的に探り出したと結論づけられた。

続いて、小島広之氏の発表「新即物主義音楽が拒んだ〈私〉──音楽的表現対象の変遷史」では、新即物主義音楽とは何かという大きな問いが立てられた。明確な定義を欠いてきた、むしろそれこそが特徴ともいえる新即物主義音楽に取り組むにあたり、小島氏が分析概念としたのが〈私(ich)〉である。音楽批評家ルートヴィヒ・ミッシュが1927年に「主観的音楽」として「Ich-Musik」という言葉を用いたように、当時の音楽批評にも表れる〈私〉は、小島氏の発表では作曲家の内的なものと捉えられていた。その上でまずは、1920年代に新即物主義音楽の規範とみなされていた19世紀後半の音楽美学者エドゥアルト・ハンスリックにおいて、音楽における〈私〉の読み替えがなされていたこと、さらに表現主義音楽を代表する作曲家アーノルト・シェーンベルクにおいては、世界の本質に接続するような「純粋な〈私〉」と小島氏が形容する、無意識的な普遍的自己の表現が重視されていたことが確認された。このような前史を踏まえてヴァイマル時代の議論に目を向けると、〈私〉なき無調の音楽に即物性が見出されることもあれば、〈私〉なき音楽たる新即物主義音楽は厳密には存在しない、あるいは〈私〉が純粋なかたちで表現される音楽こそが即物的であると主張されることもあるという、錯綜した状況が明かされる。そのなかで小島氏が着目するのが、音楽に新即物主義という語を持ち込んだ音楽批評家ハインリ・シュトローベルらの見解に見出せる、音楽における手工芸性である。手工芸的制作のように制作者のオリジナリティが問われない営みとして新即物主義音楽の作曲を捉えることで、新即物主義音楽は〈私〉を否認することが示された。

最後に、池田真実子の発表「展覧会になにができるのか──「苦難にある女性たち」展(1931)をめぐる考察」では、妊娠中絶を罰することを規定した刑法第218条をテーマとした1931年の「苦難にある女性たち」展(以下「女性たち」展)が、展覧会という手段の点から論じられた。1918年のドイツ革命やその後の階級闘争に共鳴した芸術家や批評家にとって、展覧会は芸術をつうじて社会へ作用する手段であった。他方でヴァイマル時代後半には、芸術への一般の関心が薄れ、展覧会は観客が集まらないという「展覧会危機」に直面した。このような時代背景に目を配りつつ、第218条反対運動に呼応した「女性たち」展で展覧会という手段がいかに用いられ何が目指されたのかを問い、展覧会という手段に改めて見出された意義の一端を明らかにすることが、池田の発表の目的であった。発表ではまず「女性たち」展の中心的企画者として画家オットー・ナーゲルと批評家アドルフ・ベーネが取り上げられ、「女性たち」展の企図が、労働する女性たちに自らと第218条の関係を認識させるという啓蒙、さらに出展芸術家とその女性たちの共同体の構築にあったことが指摘された。その上で、ベーネ周辺で展開していた「展覧会危機」をめぐる言説において、展覧会は大都市の加速度的な動きや視覚的イメージの充満から離れて絵画を考察しうる空間として捉え直されていたことが示され、池田によると「女性たち」展はこの捉え直しを有効に活用した。社会への作用の手段としてのヴァイマル時代の展覧会の蓄積と「展覧会危機」を織り交ぜた「女性たち」展は、展覧会という手段に、社会問題を扱い、芸術家と観客両者の共同体を構築するという社会的意義を付与しようとしたと結論づけられた。

石田圭子氏によるコメントでは、パネル全体について、今日ヴァイマル時代の芸術文化を再検討する意義が述べられた。第二次世界大戦後のとりわけ西ドイツにおける言説のなかで、ナチ時代に対してヴァイマル時代の芸術文化が過度にポジティヴに捉えられた結果、ヴァイマル時代の芸術文化のなかでも死角となってしまった部分、見えづらくなった部分がなおもある。そのような部分を明らかにしていくことが必要となる。各発表については、ナチ的な人種主義と地続きでもあるデーブリーンの観相学の危険性、〈私〉と普遍性を架橋するための精神分析の参照の必要性、西ドイツで避けられたヴァイマル時代のリアリズムや左派の芸術動向を論じる重要性が述べられた。これに各発表者が応答したのち全体討論となり、相馬氏と池田の発表に対して具体的な質問があがった。また最後には、「新即物主義は今日どのように再評価されているのか」、「それぞれの発表で扱われた対象は新即物主義にどのように関係づけられるのか」という質問が寄せられた。小島氏によると、音楽の観点からの新即物主義の再評価は未だ十分ではない。他方、池田は「ドイツ/1920年代/新即物主義/アウグスト・ザンダー」(ポンピドゥー・センター、2022年)や「新即物主義 100周年」(マンハイム美術館、2024-2025年)といったヴァイマル時代の芸術文化に関する大規模な展覧会を挙げ、1925年のマンハイムでの展覧会で展示された絵画のみならず、とりわけポンピドゥー・センターが企画した展覧会においては写真や映画なども含めて分野横断的かつ包括的に新即物主義が捉えられていると応答した。

上記のような今日の新即物主義の再評価は、まさしくヴァイマル時代の芸術文化のなかでも戦後見えづらくなった部分を、分野横断的に見直す契機となっているだろう。「それぞれの発表で扱った対象は新即物主義にどのように関係づけられるのか」という質問にも少しかかわるが、発表で扱われた対象は必ずしも今日の新表現主義の再評価に際して取り上げられているわけではないものの、各発表は今日のその再評価の動向に多かれ少なかれ呼応するように、見えづらくなった部分にそれぞれ光を当てたと言えよう。さらに、俯瞰的なコメントや充実した全体討議を経て、本パネルは分野横断的にヴァイマル時代の芸術文化を再検討する場となったのではないだろうか。


パネル概要

昨今、ヴァイマル共和国の時代(1918-1933)に、多方面から再び光が当てられている。文化や芸術の領域においても、関連する展覧会の開催は多い。特に今年2025年は、「新即物主義(Neue Sachlichkeit)」という言葉を打ち出した1925年のマンハイム美術館での展覧会から数えて100年を迎えており、数年前から今年に至るまでパリやマンハイムなどで「新即物主義」にかかわる展覧会が相次いで開かれている。

しかし、こうした振り返りにあるのは、100周年を記念する祝賀的な雰囲気だけではない。短命に終わったヴァイマル共和国の時代にまなざしを向けるとき、そこには、世界的なポピュリズムやナショナリズムの台頭、戦争や暴力の蔓延、メディアの発達による情報や視覚的イメージの伝達速度の加速と氾濫などを内包する今日との接続あるいは類似があることも、意識されている。ヴァイマル共和国の時代は、幾分不気味なアクチュアリティとともに再び立ち現れているのだ。

本パネルはこのようなヴァイマル共和国の時代の文化や芸術を、文学・音楽・美術の観点から論じる。具体的にはそれぞれ、作家デーブリーン、新即物主義音楽、1931年の展覧会が取り上げられる。ヴァイマル共和国の時代がアクチュアリティを帯びる今日において、その文化や芸術のなにを、いかに論じることができるのかを、三つの個別事例によって分野横断的に検討することが本パネルの目的である。

「観相学者」デーブリーン──「症候学的パラダイム」のなかの「標本」写真集/相馬尚之(筑波大学)

本発表は、作家アルフレート・デーブリーンと同時代の「標本学的」写真芸術の関係について検討する。実験的モダニズム文学の大家として知られるデーブリーンは、ライン地方の様々な市民や労働者たちの肖像を収めたアウグスト・ザンダー『時代の顔』(1929)や、人々や建築物の写真により人種の類型化を試みたルートヴィッヒ・フェルディナント・クラウス『人種と魂』(1926)など、「標本学的」写真集に繰り返し書評を寄せた。そこで彼は、特定の人種や階級の示現を唱える本質主義を否定しながらも、ある集団に広く認められる身体的特徴において生活や環境、また何らかの「力」の作用を判読しようと試みる、一種の「観相学」を展開した。人体は、「魂」が表出する「劇場」として捉えられたのである。

本発表は、このようなデーブリーンの「観相学」を、世紀末・戦間期ヨーロッパ社会における「症候学的パラダイム」(ギンズブルグ)の広がりのなかで再考する。精神分析や図像解釈、指紋検査など「可視的なもの」から「不可視なもの」さえ読み解こうとする「科学的」営為の広がりのなかで、人体のみならず植物などあらゆる事物が「可読的なもの」とみなされたのだ。しかし、1930年代にはナチの台頭に伴い、相貌の類型論が極端な人種主義に転落したことからすれば、デーブリーンの「観相学的まなざし」を、危機の前の鈍麻とみなすこともできるのではないだろうか。

新即物主義音楽が拒んだ〈私〉──音楽的表現対象の変遷史/小島広之(東京大学)

「新即物主義」という語は、感情的・主観的な表現を排し、より客観的な音楽を志向した先進的な音楽家にとって魅力的に響いた。新即物主義音楽の本質は、音楽語法よりも、むしろそれ以前の音楽を特徴づけた主観的な表現に対する批判意識にあったと言える。新即物主義音楽の音楽的特徴とされているジャズの導入、オーケストラの縮小、けたたましい打楽器の採用は、〈私〉の表現を行わない非表現的な音楽の探求の痕跡として理解されるべきである。

では、ここで拒絶された表現対象〈私〉とは何だったのか。音楽芸術は長らく、この芸術だけが巧みに表現できる〈私〉を探求してきたため、それは多彩であった。19世紀前半には概念的なものに還元されない不定型な感情が、19世紀後半には知的な精神が、20世紀初頭には無意識的な要素が、それぞれ音楽独自の表現対象であるとみなされてきた。これらを音楽から排斥しようと試みたのが新即物主義の音楽家たちであった。しかし彼らの音楽美学史的な立場には葛藤があった。彼らは、1950年代以降に開拓されたラディカルな非表現的方法を知らないまま、表現的なものを批判した。彼らが行ったのは、実質的に、〈私〉を諸側面に切り分け、そのうち何かを拒み何かを受け入れるというあくまで中道的な解決であった。本発表では、音楽における表現対象としての〈私〉の歴史を音楽美学的な観点から分析した上で、新即物主義音楽が目指した「非表現」の構造を分析する。

展覧会になにができるのか──「苦難にある女性たち」展(1931)をめぐる考察/池田真実子(京都大学)

世界恐慌と左右両翼の政治闘争が激しさを増す1931年10月、人工妊娠中絶を禁じる第218条への左派の反対運動を背景に、ベルリンの無審査館(Haus der Juryfreien)にて、ある展覧会が開催された。「苦難にある女性たち(Frauen in Not)」展である。アドルフ・ベーネやパウル・ヴェストハイムといった批評家が後援者に名を連ね、以前から第218条反対ポスターなどを制作していたケーテ・コルヴィッツや1924年のソヴィエトロシアでの展覧会企画に携わったオットー・ナーゲルのほか、オットー・ディックスやハンナ・ヘーヒ、さらにはマルク・シャガール、エミール・ノルデ、パブロ・ピカソなどを含む94名の名が出展作家として挙げられている。

本発表では、この「苦難にある女性たち」展を、展覧会という観点から考察する。もちろんこの展覧会は、人工妊娠中絶の禁止という身体的規制によって社会的抑圧を受ける女性という主題の点で挑戦的であったが、そのような主題を展覧会というかたちで取り上げる点で──左派美術史家フリッツ・シフが展覧会カタログでやや誇張的に用いた言葉を借りれば──「展覧会の歴史におけるひとつの事件」でもあった。本発表ではとりわけ、絵画と映画あるいは展覧会と映画館をめぐる当時の言説を補助線とし、「苦難にある女性たち」展において展覧会というかたちに託された意義を明らかにする。それにより、激動の時代に呼応しようとした展覧会の試みを浮かび上がらせることができるだろう。

広報委員長:原瑠璃彦
広報委員:居村匠、菊間晴子、角尾宣信、二宮望、井岡詩子、柴田康太郎
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2025年10月31日 発行