個人研究発表セッション7
日時: 2025年8月31日(日)13:30-15:30
場所::武蔵大学江古田キャンパス 11204
・「組み立て」と「透明性」──戦間期ドイツにおけるラースロー・モホイ=ナジの造形美学/保科泰(立教大学)
・ベルリン・ホロコースト記念碑におけるグリッドについて──ピーター・アイゼンマンのグリッド概念の変遷に関する分析/待鳥天志(横浜国立大学)
・天気を描く──17世紀後半から19世紀における風景画と気象学の交差/村山雄紀(日本学術振興会)
【司会】池野絢子(青山学院大学)
個人研究発表セッション7では、池野絢子氏の司会のもと17世紀から21世紀にかけての西洋の芸術に関する3名の研究発表が行われた。以下に各発表と会場での質疑応答について報告する。
はじめに、保科泰氏による発表「「組み立て」と「透明性」──戦間期ドイツにおけるラースロー・モホイ=ナジの造形美学」は、1920年代のベルリンで活動した芸術家ラースロー・モホイ=ナジの「組み立て」および「透明性」といった概念が、彼の多様な作品形態にいかなる形で表れたかを検討した。モホイ=ナジは自作で工業製品の「組み立て」を思わせる部材や手法を取り入れ《金属の構築物》などの立体作品を制作した。これはダダイズムの芸術家クルト・シュヴィッタースのメルツに見られる手法とは似て非なる、光の反射や透過、すなわち「透明性」の効果を追究したものであったことが言説・作品双方の検討から示された。また、「フォトプラスティック」シリーズにおいては、ラウル・ハウスマンらと共通するフォトモンタージュの手法が用いられつつもその主眼が異なるという。ハウスマン自身が自作の政治的・商業的プロパガンダ性に言及する一方で、モホイ=ナジのフォトプラスティックでは大都市を構成するさまざまな断片が配置し直され、視覚的な全体像の見通し、つまり「透明性」が強調される。このようにモホイ=ナジは立体・平面作品それぞれにおいて異なる形で「組み立て」および「透明性」概念の造形化を試みたと結論づけられた。
続いて待鳥天志氏による発表「ベルリン・ホロコースト記念碑におけるグリッドについて──ピーター・アイゼンマンのグリッド概念の変遷に関する分析」は、アメリカの建築家ピーター・アイゼンマンの建築作品にしばしばみられるグリッド使用の変遷を検討したうえで、ベルリンの《虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑》(1997-2005、以下《ホロコースト記念碑》)におけるグリッドの位置づけを試みた。まず「住宅」シリーズ(1967-78)では、建築内部における論理や形式といった「内部性」がキーワードとされ、当初は下部構造として機能していたグリッドが、シリーズの展開に伴い徐々に視覚表現として表面化していったことが示された。一方でヴェネツィアやベルリン、オハイオ州を舞台に構想された「模造の発掘都市」シリーズ(1978-89)では、対象区域にある既存の街路などがグリッドとしてアイゼンマンの建築プランに取り込まれる形で用いられ、すなわち「外部性」を強調するグリッドの使用であったという。それらを踏まえた上で《ホロコースト記念碑》におけるグリッドは、コンクリート柱のグリッド平面と、ベルリンの都市的文脈から取り出されたグリッド平面といった内部性と外部性に関連づけられる複数のグリッドの対立からなり、この解消されない対立の不均衡さが訪問者に不安や緊張をもたらす景観を作り出していると結論づけられた。
最後に村山雄紀氏による発表「天気を描く──17世紀後半から19世紀における風景画と気象学の交差」は、西洋美術史において従来神学的・宗教的含意をもって描かれてきた雲の描写が17世紀後半から19世紀にかけて世俗化するなかで新たに生じた、自然現象としての雲や気象の描写の系譜を提示した。まずは18世紀のフランスにおいてクロード=ジョゼフ・ヴェルネやピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌによる、嵐や特異な自然現象の描写を象徴的に描き出した風景画の出現が、ヴェルネ作品に対するディドロ評、ヴァランシエンヌの構築した風景画理論とともに複数の作例をもって示された。次いで18世紀末から19世紀には気象学の進展に伴い科学的探究と芸術的探究とが接近する。気象学者らによる雲の分類法は多様な形態の雲を描いたジョン・コンスタブルにも影響を与え、《干し草車》などの実制作においても用いられたという。さらに19世紀後半には写真技術の進化によって雲のさまざまな様相を捉えるために用いられたモンタージュ、さらに精緻な雲の分類体系を提示した国際雲図帳の作成といった例を通し、写真が気象現象を観測するための中心的技術となったことが示され、このような写真技術の普及が絵画の新たな位相を示すこととなったとして発表が締めくくられた。
各発表ののち、フロアとの質疑応答がなされた。保科氏に対しては、モホイ=ナジの概念にみられるイタリアの未来派やアルベルティの「窓」概念との関連性、また、作品の展示形態といった外部との関係性についての質問が提起されたほか、透明性と反射、「フォトプラスティック」にみられる窓枠(フレーム)といった作品内在的な疑問が寄せられた。待鳥氏に対しては、アイゼンマンのグリッド概念が住宅と記念碑といった異なるタイプの建築に同様に適応可能かどうか、また《ホロコースト記念碑》におけるリチャード・セラとの関わりや両者のグリッド概念の差異がいかなるものであったか、都市におけるグリッドの繰り返しの利用に批評的含意があったかどうかといった、主にグリッドに関する疑問が提起された。村山氏に対しては、初期の写真は絵画よりもより客観的な観察をもたらしたというよりもむしろ、モンタージュ的な手法をとるなど絵画的なアプローチに近かったのではないかとの疑問、また、ターナーやゲーテといった異なる趣向を持つ同時代の科学・芸術の状況に関する質問がなされた。これらの質問に対し発表者からは充実した補足情報が付加された。
以上、17世紀から21世紀という広範な時代にわたった三者の発表は、いずれも歴史的な事象が芸術家に大きな着想をもたらした作品群がテーマとされており、各発表者による多様なアプローチは活発な質疑応答を生んでいた。
「組み立て」と「透明性」──戦間期ドイツにおけるラースロー・モホイ=ナジの造形美学/保科泰(立教大学)
ハンガリー出身の芸術家ラースロー・モホイ=ナジ(1895-1946)が活動した戦間期ドイツは、機械化を背景として、工場における組み立て作業と、芸術の領域のモンタージュという手法が、断片を組み立てるという観点において不可分に結びついていた時代であった。モホイ=ナジもまた、組み立て作業と芸術におけるモンタージュとの相互関係から多様な形態の芸術作品を作り上げた芸術家の一人といえる。本発表では彼の立体作品と平面作品に通底する美的特徴を「組み立て」と「透明性」という概念をもとに明らかにする。
立体作品の分析では、機械部品の組み立てがモホイ=ナジの立体作品の制作の契機となっていたことを確認した後、芸術の領域からその立体作品に影響を与えたクルト・シュヴィッタース(1887-1948)のメルツとの比較検討を行う。都市の廃材を主な素材としたメルツとモホイ=ナジの立体作品は共に、素材同士の「関係性」を共通の美学としている一方で、モホイ=ナジの作品ではガラス等の透過性のある素材の関係性が生み出す光の効果にその美学の力点が置かれていることを指摘したい。
平面作品の分析では、モホイ=ナジのフォトプラスティックに焦点を当てる。フォトプラスティックは同時代のダダのフォトモンタージュとは異なるモンタージュ法として彼が編み出した手法であるが、この手法においても透明性の美学がダダのフォトモンタージュへの批判として前傾化していることを明らかにする。
ベルリン・ホロコースト記念碑におけるグリッドについて──ピーター・アイゼンマンのグリッド概念の変遷に関する分析/待鳥天志(横浜国立大学)
ベルリンの《虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑》(1997-2005年。以下、ホロコースト記念碑)は、約2万平米の敷地に2,711本のコンクリート柱がグリッド状に並ぶ記念碑である。デザインを手がけた米国の建築家であるピーター・アイゼンマンは、異なるふたつのグリッド面を重ねることでこの記念碑のデザインを作り出した。ホロコースト記念碑のグリッドを巡る思考はいかに編み出されたのか。アイゼンマンはグリッドを操作してデザインを作り出す手法を、その操作の仕方は異なるものの、初期作品以来度々用いており、ホロコースト記念碑のグリッドはアイゼンマンの過去作品の延長線上にあるといえる。この記念碑以前のアイゼンマンのグリッド概念は主に次の対立的な在り方に整理できる。第一には初期の《住宅》シリーズ(1969-78年)に見られる自律的なデザインのために外部環境の要因を排除して作り出すためのグリッドで、第二には主に“Cities of Artificial Evacuation”のプロジェクト(1978-88年)における対象敷地の周辺地形等の外部要因を抽象化して導入するためのグリッドである。本発表では、アイゼンマンのこうしたグリッド概念の変容は、ホロコースト記念碑において次のように結実することを主張する。すなわち、ホロコースト記念碑のグリッドにおいては、自律性と外部要因導入の両要素が取り入れられるが、その対立は乗り越えられることなく残されることでホロコースト記念碑は独自の内部景観を形成するということである。
天気を描く──17世紀後半から19世紀における風景画と気象学の交差/村山雄紀(日本学術振興会)
ルイ14世の治下に設立された王立絵画彫刻アカデミーは、歴史画を絵画ジャンルの頂点に位置づけたが、17世紀後半にはニコラ・プッサンやクロード・ロランに代表されるように、風景画も一定の芸術的価値を認められていた。18世紀に入ると、クロード・ジョゼフ・ヴェルネやピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌらの登場により、風景画の地位はさらに高まっていく。このような風景画の発展と軌を一にして、18世紀中葉には気象学が萌芽し、19世紀初頭には理論化・体系化されていった。例えば、イギリスの気象学者ルーク・ハワードは雲の分類を行い、その観察のために多数のスケッチを描いた。一方、同時代の風景画家ジョン・コンスタブルは「絵画は科学である」と述べ、自然を精密に写し取った彼の作品は気象学の発展にも寄与した。すなわち、ハワードが雲の観測に絵画的手段を用いたように、コンスタブルもまた自然現象の一瞬の変化を絵画によって捉えようとし、科学に貢献したのである。このように当時において、風景画と気象学は相互に協働し、天気という曖昧な現象の解明に取り組んでいた。ところが、19世紀初頭に写真が発明されると、両者の均衡は大きく崩れる。自然を正確に記録するという点において、写真は画家の筆致を凌駕したからである。本発表では、天気の移ろいを捉える手段として風景画と気象学が密接に結びついていた時代から、写真の登場によって絵画が記録媒体としての役割を終え、芸術として固有の表現を模索しはじめるまでの過程を明らかにする。