日時:2025年8月30日(土)10:00-12:00
場所:武蔵大学江古田キャンパス8号館 8501
・マッシモ・カッチャーリの美学──現代芸術とイコンをめぐって/江川空(京都大学)
・どこで作るのか、どこを作るのか──グロイスにおけるインスタレーションの政治哲学的理解とそのモダニズム的側面/大岩雄典(多摩美術大学)
・瞬時性の回路──クレメント・グリーンバーグの美的判断における反復性と持続性の経験/大澤慶久(東京藝術大学)
【司会】岡本源太(國學院大學)
個人研究発表セッション1では、主に美術における、作品や観賞の形而上学的なステータスを主題とした美学的議論が行われた。三者が扱った対象(カッチャーリ、グロイス、グリーンバーグ)は、一見時代や地域の面で比較的離れた文脈にある固有名だが、発表と質疑応答を通じて、それらのあいだに共通する主題も示唆された。(以下敬称略)
江川空は、イタリアの思想家・政治家であるマッシモ・カッチャーリの美学について発表した。これまでカッチャーリは、その形而上学や政治哲学については論じられてきたが、美学・芸術論はまだ体系的に扱われていない。江川の発表は、「ケノーシス」概念を導線に、この探究の「出発点」を目したものだ。
江川はカッチャーリの芸術論とイコン論に共通する、究極的な「共可能性」を扱う議論を追うことで、一貫した枠組みを抽出する。
まずカッチャーリは、キリスト教における「ケノーシス」を「共可能性」と捉えることで、ヘーゲルがロマン主義芸術に診断した否定性と重ね合わせる。ケノーシスとは、神の人間(キリスト)への受肉における、神性の自己否定である。これをカッチャーリは生(存在)とその否定たる死(非存在)という背反する二項が共に可能になる「無限の共可能性」と捉えることで、ヘーゲルの芸術論に結びつける。精神の内容たる「本質」が芸術を通じて真理として現象するというヘーゲルの理解を、カッチャーリは、芸術は真理の「否定的なもの(死)」であると読み直す。すなわちこれもまた二律背反的「共可能性」である。ヘーゲルの議論においてこの否定性を自覚的にあまねく反省するのが、ロマン主義に至った芸術のイロニーだが、カッチャーリがより重視するのは、さしずめ天才に依拠せざるをえないイロニーではなく、平然と矛盾にもとづく喜劇である。いかなる基礎もない「空虚」に至った芸術は、対象を解体し、具象空間さえ否定する。カッチャーリにとって「始まり」とは、そこから始める過程に縛りついた始点ではなく、何ものにも条件づけられない出来事である。ケノーシス=二律背反、空虚としての始まりを直観する顕著な例が、カジミール・マレーヴィチの絵画である。
江川はこれらの概念を、より早い時期のイコン論『法のイコン』に遡って参照する。キリスト教において、見えざるはずの神が、人間という見えるイメージをまとって出現するキリストはイコンである。神性も人性も現れなければならないイコンは二律背反的だ。カッチャーリはこの表現として、イコンにおける金と色彩の対立を見出す。金の表す光だけでは形象は現前せず、色彩だけではその形象の源泉たる光を示せない。両者の「適切な距離」(フロレンスキイ)を推し進め、絶対的に抽象化したものとして、カッチャーリはやはりマレーヴィチを持ち出す。なおも自然主義に留まるキュビスムや未来派、また「心の状態」を問題とするカンディンスキーの抽象と異なり、「黒い正方形」のシュプレマティスムは無対象で、形式という純粋を実現し、形而上学的実在を肯定する「イコン」である。黒と白の「リズム」は「共可能的なものの無限の世界」を明らかにする。
このように整理することで、江川は、必ずしもキリスト教的な概念に回収されない、「始まり」「二律背反」「共可能性」の概念系を一貫して見出し、ヨーロッパ芸術を論じる「ケノーシスの美学」の可能性を提案する。
江川自身はイコンからマレーヴィチへ進む議論を「あまりにも性急」と慎重に振り返るものの、主要な概念系の連関は、端的な形でこそあれ指し示されたと言える。カッチャーリという美学者の思想の整理としてだけでなく、創造の無限性と否定性とを御せんとする一連の哲学的美学の歴史にたいして新たな見通しを与えることを期待できる。
他方で、マレーヴィチをロシアの伝統や同時代の運動いわゆる構成主義の文脈から取り出しておきながら、「ヨーロッパ芸術」あるいはそれを美学的に代表する位置におくこと、すなわち芸術論的側面については、その説得力のためには、江川自身が目配せするカッチャーリのその他のイコン論の分析や、また後半で寄せられる質疑にも関係するが、ロシアの特有性を強調したフロレンスキイの議論との比較を通じて、今後さらに踏み入っていく余地があるだろう。
続く大岩雄典は、ロシア(ソビエト連邦)出身の美術批評家であるボリス・グロイスのインスタレーション論について発表した。奇しくもグロイスもまたマレーヴィチを象徴的に論じる思想家だが、この点は後述する。大岩は、グロイスのインスタレーション論に登場する「主権」という語に注目し、これを本来の政治哲学的議論に照らすことで、グロイスの議論がモダニズムにおける「自律」の問題系を変形したものである点を示した。
レディメイド以降、芸術家も「ものを選択して展示する」。この状況においてキュレーターと芸術家とを区別する基準として、グロイスは「公/私」を提案する。キュレーターの展示行為(キュレーション)は、大衆の代表として公共空間と連続的に行われるが、芸術家の展示行為(インスタレーション)は公共空間を「象徴的に私有化」する。キュレーションは、制度によって公共へのその責任を保証される民主的言論の自由に準えられる。対してインスタレーションは、「主権的な決定権」によって無条件に行使される自由に準えられる。グロイスは展示行為をまず政治的に捉えており、特にインスタレーションを政体の創立に擬えている。
大岩は、このように展示行為の立場を扱うインスタレーション論が、2000年代にグロイスが展開した「芸術のトポロジー」の一翼であると整理する。従来、美的なものの生産や選択に関する権力=作者性(authority)は、芸術家たる「天才」にしばしば還元されてきた。現代ではこの権力は複数の立場に分散し、各々の行為が多重的に作用することで芸術の場所(トポス)を構成する。
「主権」はこの権力を論じる一表現である。だがそれは、社会契約説における、権利に関する人民の契約を通じて措定される「主権」概念よりも、シュミットの議論における実効的な「主権」概念のほうに近しい。というのも、グロイスはデリダを参照して、この主権的権力の暴力性として、秩序の最初の導入と、秩序の警察的維持を指摘するからだ。これは、契約によって統治と分離される「眠れる」(リチャード・タック)主権ではなく、友敵の領域の区別を代表とした例外的決定をつねに担うシュミットの主権概念に一致する。
すなわちグロイスにとってインスタレーションの行為の主権性は、自律を内在的に構成する契約というより、外から内を区分する権力の実効である。大岩は最後にこの観点を、美術批評家クレメント・グリーンバーグとマイケル・フリードの議論と比較する。グリーンバーグは、芸術の「主権性、作者性、自律」はメディウム・スペシフィシティの禁欲的な還元でのみ得られるとした。一方グロイスの主権性は、還元の内容ではなく、禁欲するという決定自体にこそ見出される。またフリードは、アンソニー・カロの彫刻には内容を構成するシンタクスを評価し、対してミニマル・アートは観賞者の目の前にあることでその無内容さが隠蔽されつづけると批判する。これは、内的に構成される正統性より、外に対する権力の実効からインスタレーションを捉えるグロイスの視点と重なり合う。
大岩は、様々な芸術的行為の性質を俎上に挙げるグロイスの「トポロジー」の骨子を示すことで、それが芸術の領域の自律をめぐる戦後の批評言説の延長線上にある側面があることを示した。発表では時間の都合上スキップしたが、近年の国際芸術祭やインスタレーション作品に見られる、国家や難民といった主題を考えるうえでも、グロイスの分析は大きな示唆を与える。
他方で、グロイス、主権論、美術批評の相互の概念系上のアナロジーを確認するに尽きたのは物足りない。グロイスの議論の基礎には、芸術が、オブジェクトにせよパフォーマンス/イヴェントにせよ、さらにデジタルなものも含め、実際の空間的リソースを占めるという事実がある。主権論において土地をめぐる経済論的側面、またグリーンバーグに影響したマルクス主義的唯物論との連関が、依然余白として残る。実際の芸術作品の分析に移るならばなおさら必要な作業である。また、デリダ『友愛のポリティクス』を積極的に参照できていない点は課題として残る。
最後に大澤慶久が、美術批評家クレメント・グリーンバーグの「瞬時性」概念について発表した。グリーンバーグが美的経験の分析について用いたこの概念は、従来、非時間的で静態的な視覚をモデルに理解されてきた。一方、加治屋健司はラカンを参照して「瞬時性」を、漸次的に展開する意味の理解として時間的に解釈した。大澤はこれを先行研究として評価したうえで、それとは異なり、瞬時性は不意を突くような美的経験/判断だという理解を、グリーンバーグの記述を丹念に読解することで提示した。
大澤はまず、美的経験(=美的判断)について、1970年代以降のグリーンバーグの記述を整理する。はじめに、美的経験が非自発的に「受け取られ」それから事後的にようやく意識されること、絵を観るプロセスが順次的な瞬間には分析できないことを確認する。後者の点は、加治屋が着目した「論理的諸瞬間に分析できる」という記述が、その前後を確認すると、実は留保つきの消極的な意見であり、そのうえ美的経験との無関係を強調している点を明らかにしている。次に大澤は、美的経験は、作品から受け取る全体的な印象(結果)がそれを可能にしている機序(原因)よりも先に与えられ、それから遡行して原因が統合されて成立するというグリーンバーグの説明をまとめる。結果と原因のこの「統一性」の経験が「不意を突くように受け止め」られるという記述に大澤は注目し、かつてグリーンバーグが「一挙性(at-onceness)」と呼んでいた、美的経験の瞬時性の啓示的性格に相当する表現であると指摘する。
大澤の議論で重要であるのは、グリーンバーグのこれらの見解の背後にある、カント美学との相応を跡付けている点だ。「結果」の表象がその原因を概念的な範疇で意識するより先に受け取られることは、カントの「目的なき合目的性」の議論に相応する。またその統一を瞬時的に受け取る「一挙性」が、ただ単一ではなく反復すること、とどまることは、カントの「観照の自己再生産」の議論に相応する。
このような遡行・一挙性・反復といった契機の動的構造が非概念的なレベルで展開する点を、大澤はあらためて強調する。大澤の議論は、従来の静的モデルによる理解に対する反駁、またグリーンバーグのモデルにカント的反省構造を認めない意見に対する反駁に成功するだけでなく、美的経験は、加治屋が「遅延された瞬時性」として解釈した構造が、機序として概念的にではなく瞬時的かつ反復的に経験されるものだというグリーンバーグのモデルの複雑さの説明にも成功している。
大澤が加治屋の議論に付け加える点はこれだけではない。大澤は「補足」として、グリーンバーグのモデルでは「一挙性(全体性)が反復する」のにたいして、フリードの「現前性」モデルでは「全体性が連続的に刷新される」、という相異を紹介する。加治屋は、フリードの「芸術と客体性」や『マネのモダニズム』における、グリーンバーグを陰に陽に参照した「瞬時性(一挙性)」の記述が、この概念を知覚的・時間的一回性に還元している(と読める)点を、グリーンバーグの瞬時性の含意を「わかりづらくさせた(obscured)」と批判的に述べている。後年のフリードが「芸術と客体性」冒頭の引用文を根拠に、これが単なる時間的瞬間ではないと註釈している点を加治屋は紹介している。大澤による「補足」は、フリードの各言説のもつ効果やそれに対する加治屋の評価には触れずとも、当該の引用文を重視し、フリードの「刷新」をグリーンバーグとは別のモデルとして取り上げる点で、瞬時性の議論にさらなる奥行きを持たせている。
質疑応答に移る前に、司会の岡本源太は、まず江川の発表について、カッチャーリの別の著書『死後に生きる者たち』におけるベンヤミンの「悲劇」、ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」を合わせて考えられる点を提案した。続けて大岩の発表について、ブルクハルトの「芸術作品としての国家」、カントロヴィッチの「芸術家の主権」を挙げて、芸術と国家のアナロジーの系譜を示した。最後に大澤の発表について、デリダの初期の仕事、特に「痕跡」や「差延」の概念への連想を示した。
以降は発表者同士、また会場との質疑のやりとりに移った。
まず大澤の発表内で水を向けられた、フリードのモデルに関する説明を始める形で、大岩が口火を切った。大岩は、フリードが初期に影響を受けたジェルジ・ルカーチの「永遠革命」やスタンリー・カヴェルの「連続的現前性」の概念が「刷新」という強いイメージに影響しているのではないかと示唆した。回答内で触れ忘れた点を以下追記する。「芸術と客体性」本文中でフリードは現前性の経験を「もしも人が限りなく鋭敏だったならば、ひとつの限りなく短い瞬間でさえ、すべて(everything)を見ることができるほど充分な長さであるかのよう」と述べている。裏を返せば、実際には人はそれほど鋭敏ではない。知覚的にごく短い瞬間でさえ本来その内容の全てを含み込みうるが、人間にとって時間はそれより早く流れる。次の瞬間も同様に全体を含んでいるが同様にすぐ流れ去る。したがって、永遠にこの失敗を繰り返すこと――まるでタイムアウトとリロードのように――の中で作品の現前が直観される、とフリードのモデルを解釈できるだろう。これはフリードが「全体性(wholenss, entirety)」という語をモダニズムの芸術について用いないことの説明にもなる。グリーンバーグの、統合された全体性が瞬間的に与えられるというモデルとも対照的で、さらなる検討の価値がある。
大岩は続けて大澤に、ニーチェの換喩論との比較について質問した。ジョナサン・カラーが『ディコンストラクション』で参照するように、ニーチェが『力への意志』で記した因果論もまた、原因が結果に倫理的に先立つという構造の概念を自明とせず、むしろ換喩的な操作があると指摘する。人は痛み(結果)を感じてから蚊(原因)を見て、因果関係を推定する。これが私たちの内的経験である。大岩は、この種の遡行は美的経験以外にも言えるのではないか、そこには概念的把握の有無の差があるのか、と大澤に質問した。大澤はこれに、通常の経験ではその因果関係が論理的に説明可能だが、美的経験は論理的に説明可能ではない、と回答した。
大岩は加えて、グロイスもまたマレーヴィチについて、画家本人の発言に依拠しながら、芸術と非芸術の革命的交換(『全体芸術様式スターリン』)、形態のラディカルな破壊による芸術の破壊不可能性のイメージ(『流れの中で』)などと解釈している点を紹介した。そのうえで三者の発表が共通して、美的なものや芸術の自律の淵源として、共-可能性(カッチャーリ)、主権的な決定(グロイス)、瞬時性(グリーンバーグ)を扱っていると付言した。
これを引き継いで大澤は江川に、カッチャーリの議論において、観賞者はイコンにたいしてどのような態度をもつのか、何か言えざるものに接近するならば何らかの理念が前提されているのではないか、と質問した。江川はこれに答え、イコンを前にした信者は実際に到達していないものに触れているという「大胆」なカッチャーリの見解を紹介し、具体的な観賞態度は語られないと註釈したうえで、イコンに対する反復的な身振りを重視した東方正教会が温存していた、そこに表象不可能なものを見る態度を、はじめこの身振りを軽視していた西洋が後に再評価した、というカッチャーリの議論を紹介した。補足として、要旨にありながら触れられなかった点として、モンドリアンの絵画とブラウワーの数学的直観主義を関連づけた議論の射程を紹介した。
大澤は続けて、表象不可能性に触れうるというカッチャーリの議論について、啓示的な概念だと確認したうえで、「目的なき合目的性」などのカントの議論から示唆を得た可能性はあるかと質問した。江川は、発表でも主に参照したカッチャーリ『始まりについて』がまさにカント『純粋理性批判』〔江川発表内では『判断力批判』と述べられたが、本稿準備段階で本人より訂正された〕の読解から始まる、と応答する。『純粋理性批判』における「知性が経験を生み出す」(1781年:第一版)「認識は経験を判断する」(1787年:第二版)という見解の不一致について、カッチャーリは両方共存すると解釈し、これが共-可能性の議論に通ずる。
さらに会場から二人の質問があった。
一人目は二つ質問した。(1)まず江川に対して、フロレンスキイがイコンと近代絵画を対照させたことはカッチャーリの議論において問題はないのか、(2)続けて江川・大岩に対して、カッチャーリの「ケノーシス」は、「世界を更地にしてそこから芸術制作=創造を始める」すなわち「自己を空白にする」というニュアンスをもつに対して、例外状態に発揮される主権は、むしろ「周りの世界を空白にしてそこから芸術制作を始める」という、対照関係があるのではないか、と質問した。
まず(1)に対して江川は、フロレンスキイは近代絵画の三次元的な遠近法主義に対してイコンはそれを脱している点を評価しており、カッチャーリもまた現代芸術もこの遠近法主義を脱しているとみなすことで、両者が接続する、と答えた。一見遠近法主義に接近して見えるフランチェスカやファン・エイクについても、その構成の合理性や幾何学性に現代芸術に通じるイコン的性格が見出されるという議論に触れた。(2)に対しては、ケノーシスに関して江川が凡そ同意したのち、主権に関して大岩が答えた。シュミットの主権論の背景には、民主主義の正統性を構成する議会主義の情況的機能不全に対する批判がある。外に「敵」を見出すとき、周りの世界は「空白」どころかむしろ具体的なものが迫ってきている。空白にされるのは統治の正統性の内在的構成、すなわちやはり「自己」のほうではないか。ただしケノーシスとこれを類比できるかは判断しがたいと付言したうえで、大岩はこう答えた。
また司会の岡本が再びカントロヴィッチの「芸術家の主権」に言及したのに大岩は答え、芸術家が寡占していた「天才」が神の世界創造に擬うならばそれは自然法の反映ではないか、と前提したうえで、グロイスの「トポロジー」の目的はその行為が分散・多重化した演劇的状況の分析にこそあり、フリードが演劇性に関する議論の延長性上で芸術が生まれる空間的システムを「装置(dispositif)」と呼ぶときにも、「実定法(ius positivium)」の概念が反映されているのではないか、と連想した。
二人目の質問はシュミットに関わる。後期シュミットの「ノモス」すなわち空間的資源の取得・分配・利用に干渉する権力や、それと法的秩序との関係に関する議論を参照したとき、インスタレーションとのアナロジーはどう語れるか、と質問した。
大岩は、シュミットは専門でないと前置きしたうえで、秩序づける主権という概念へのグロイスの参照は抽象的なものにとどまり、インスタレーションでいえば構成にあたるだろう具体的なノモスの布置やその維持についてはあまり踏み込んで論じていない、と答えた。そのうえで、芸術家としての経験から次のように答えた。たしかにインスタレーションの「創設」や維持に関する権力の発揮は、物質的か宣言的か、経済的か美的かという側面はいずれも相当に分散的かつ不分明であり、その個々の判断が作品にとって公共空間の(再)私有化(対外的)なのか内的構成(対内的=ノモス)なのか、論理的な区別、批評的なアナロジーを実際の空間的出来事に当てはめるのは難しい。
ここで時間の限りが来たので、閉会した。
マッシモ・カッチャーリの美学──現代芸術とイコンをめぐって/江川空(京都大学)
マッシモ・カッチャーリ(1944-)は、イタリアの哲学者である。彼の思想についてはこれまで、その形而上学や政治哲学に焦点が当てられ、一部の論者を除いて(Perniola: 2009, 岡田: 2008/2014)、その美学が体系的に論じられることはほとんどなかった。
しかし、カッチャーリの著作全体を見渡すと、そこでは一貫してイコンが問題にされていることがわかる。彼にとってイコンとは、見えるものと見えざるものとの二律背反を通して表象不可能なものへと接近する芸術の形式であり、それはマレーヴィチやモンドリアンのような現代芸術家たちの絵画実践に結びつくとされる。カッチャーリの思想において特筆すべきことは、こうした現代芸術を、たんにイコンの神学と接続するだけではなく、フロレンスキイやブラウワーといった20世紀前半の神学者ないし数学者の思想と突き合わせながら論じてゆく点にある。ここから明らかになるのは、イコンと現代芸術の関係が、美学あるいは神学の領域にとどまらず、20世紀前半の思想潮流全体の傾向を反映するようなかたちで現れているということだ。
以上を踏まえ、本発表ではおもに『法のイコン』(1985)と『踊る神』(2000)を読解することで、イコン論を中心としたカッチャーリ美学の内実を明らかにするとともに、それを通して現代芸術とイコンをめぐる議論に新たな視座を与えることを目指す。
どこで作るのか、どこを作るのか──グロイスにおけるインスタレーションの政治哲学的理解とそのモダニズム的側面/大岩雄典(多摩美術大学)
本発表では、美術批評家ボリス・グロイスが、芸術家によるインスタレーション・アートの制作を、主権者による国家の創立になぞらえて論じた議論について取り上げる。その政治哲学的・存在論的含意を、ルソー、シュミットらの国家論と比較することで、グロイスが美的モダニズムの問題系を独自に再解釈している点を明らかにする。
グロイスは主に2000年代、現代美術の要点が「何を作るか」ではなく「どこ(どのような場所)で/を作るか」に移ったとして、「トポロジー」という語で考察した。その事態を特に象徴するジャンルが、「空間」をその媒体とするインスタレーション・アートである。さらにグロイスはこの観点からインスタレーションを、公共空間に根ざす行為であるキュレーションに対置して、芸術家が私的空間を「主権的」に画定する行為として特徴づけた。
本発表では、(1)この観点を、グロイスの参照するデリダの立法論を越えて、複数の政治哲学者の主権論および国家論と比較し、(2)それを通じて、グロイスの議論が一見主権的行為に重点を置きながら、その力(権威)を分立させる、統治にあたる構造についても考察している点を指摘し、(3)そのように政治哲学的な概念系で解釈された、作品における「どこ」と「何」の概念的構図が、美的モダニズムにおける作品の自律に関する問題系を、インスタレーション論を通じて独自に更新したものとして位置づける。
瞬時性の回路──クレメント・グリーンバーグの美的判断における反復性と持続性の経験/大澤慶久(東京藝術大学)
本発表はクレメント・グリーンバーグにおける「瞬時性」概念を、美的判断の重層的な時間構造という観点から考察する。従来、「瞬時性」はロザリンド・クラウスやステファニー・シュワルツらによってモダニズムの非時間的・反時間的な視覚体制の表れとして、またエイキン・エルカンによってカント的判断構造を欠くものとして批判的に論じられてきた。これに対し、加治屋健司は「瞬時性」の内部に判断の事後的再構成という「遅延された瞬時性」を読み込み先駆的な視点を提示している。
この議論を重要な参照点としつつ、本発表は批評家のテクストにおける「視覚の衝撃」、「結果が先に来て、原因を包み込む」、「とどまる」、「反復」といった語彙を解読する。これにより、「瞬時性」が感覚的即時反応や時間性の不在ではなく、美的判断における原因と結果の意識、快の生成、そして経験の反復と持続に関わる因果論的・時間的プロセスを内包することを示す。特にグリーンバーグの美的判断が、カント『判断力批判』における合目的性の構造や観照の自己再生産の概念と共鳴し、瞬時的な経験の中に判断が反復し持続する様相を明らかにする。
以上の分析を通じてグリーンバーグの「瞬時性」概念を、感覚的反応論から美的判断の時間的構造論へと再定位し、さらにマイケル・フリードの「現前性」概念の再検討やインスタレーションにおける時間経験の分析へも接続可能な理論的基盤を提示することを目指す。