新刊紹介

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン
『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』
橋本一径(訳)、平凡社、2006年08月

 「想像不可能」といわれるほどの、人類にとっての極限的な経験が繰り広げられる場となった、ナチス・ドイツの強制収容所は、その一方で大量のイメージの生産現場でもあった。しかしそれらのイメージの大半は、ナチス側の視点から撮られたもの、あるいは解放後に連合国側の兵士たちの手により撮影されたものがほとんどで、収容所の稼働中に囚人自身の手によって作成された映像は、当然ながら極めて数が限られている。そんな稀有な例のひとつが、1944年夏にアウシュビッツ=ビルケナウの第五焼却棟付近で、監視の目を盗んで密かに撮られた、4枚の写真である。
 本書の冒頭をかざる、これらの写真の分析はもともと、2001年パリで開催された展覧会『収容所の記憶』のカタログ巻末に収められていた論文である。これら4枚の写真を含む、収容所をめぐるイメージを総合的に回顧した同展に、厳しい批判を寄せたのが、雑誌『現代(Les temps modernes)』を中心とするクロード・ランズマンらの一派であった。そのひとりであるジェラール・ヴァジュマン(ヴァイクマン)の論文「写真的信仰について」(『月刊百科』2006年8〜11月号に翻訳掲載)は、「想像力」の問題に関して、一定の説得力を持つものであるように思われる。
 イメージが、不完全ではあれ、「それでもなお」何がしかの歴史的真理を表象しているとして、その真理に到達する経路が、観者の想像力でしかないとすれば、それは結局感情移入的な同一化にすぎず、結果として対象を貶めることになるのではないか。ヴァジュマンのこうした批判に対して、ディディ=ユベルマンは、サルトルに依拠しつつ、思考に占める「想像力」の役割について論じるのだが、十分に論駁しきれているとは言いがたい。そして彼がクラカウアーやゴダールの『映画史』に依拠しつつ打ち出す「モンタージュ理論」も、クラカウアーの思想の再検討(主著『映画の理論』はフランスでも日本でも未訳のままだ)を含めて、さらなる展開が必要とされていよう。
 つまり問いは開かれたままなのである。本書の日本語訳の刊行が、この問いに終止符を打つことなく、むしろさらなる議論を呼び込むものとなることを期待している。 (橋本一径)