PRE・face

来るべき「現代哲学論」に向けて──アレント、メイヤスー、そしてノスタルジー

國分功一郎

過日、東京工業大学で行われた表象文化論学会第14回研究発表集会では、山崎亮(studio-L代表取締役、慶應義塾大学)、門脇耕三(明治大学)、白井聡(京都精華大学)の三名をお招きし、私も登壇してシンポジウム「建築・政治・コミュニティ」を開催した。その際、問題提起の中で私はハンナ・アレントが1946年の論文「実存哲学とは何か」で記した次の言葉を引用した。

「世界は不気味だという現代の感覚は、つねに、個々の事物が機能的な連関から切り離されているという認識にもとづいている。現代の文学、それに現代の絵画の多くがこのことを反駁できない仕方で証明している」
(『アーレント政治思想集成I』、みすず書房、223頁)

ここに言われる「現代の感覚」は二〇世紀の芸術の一般的傾向として指摘できることかもしれないが、今はむしろ世界を「不気味Unheimlich」でなくすること、すなわち世界への「親しみHeimlich」を取り戻すことが重要ではないかというのが私の問題提起であった。

この論文はアレントにとっての「現代哲学」を論じたものであり、彼女はそれを「実存哲学」として規定している。実のところ私もまたこの一文を引用しながら、自分にとっての現代哲学のことを考えていた。そして、自分にとっての現代哲学を考えるために、彼女が実存哲学を論じるための出発点としたのと同じ哲学に遡ることを考えていた。

その哲学とはカント哲学であり、自分自身にとっての現代哲学というのはカンタン・メイヤスーが主張する「思弁的実在論」のことである。

アレントによれば、「実存哲学」における「実存」とは、哲学において古代(具体的にはパルメニデス)より暗黙のうちに前提とされてきた「思考と存在の統一」が破壊されてしまった後で、なおも哲学が哲学するために見出された足がかりのようなものである。ここで「思考と存在の統一」とは、人間の理性による自然の探究が、自然の諸存在の本質を概念という形で明らかにしうるということ、つまり、思考と存在とが最終的には調和することを意味している。

これを破壊したのがカントだとアレントは言う。詳細は省くが、カントは、総合的命題の分析によって、私たちの判断が所与の存在の概念を超え出てしまうことを示し、アンチノミーによって、存在が人間の理性による思考の領域を大きくはみ出していることを証明した。思考は存在と一致しない。存在は思考とは重なり合うことのない途方もない異質性を備えており、思考は存在に接近するにあたって、存在からはとても導き出せない何か(超越論的諸概念)をそれに帰属させることでそれを「解明」したことにしている。

確かにこれによって近代的な数理科学は基礎づけられた。ということは、第一哲学としての形而上学はある意味で一つの完成へともたらされた。しかしそれはまた、同時に、存在と思考の統一が木っ端みじんに砕かれたことをも意味していた。ハイネは「思想界の大破壊者であるイマヌエル・カントは、テロリズムではマキシミリアン・ロベスピエールにはるかにまさっていたが、いろんな点で似ているところがあった」と述べているが、まさしくその通りだったわけである(ハイネ、『ドイツ古典哲学の本質』、伊東勉訳、岩波文庫、一九九五年、一六七頁)。

哲学はこれ以降、伝統的な仕方で諸々の存在の本質を概念化したところで、存在のリアリティは少しも説明されていないということを認めなければならなくなった。そして哲学は、本質の概念化によっては少しも説明されない現実そのものに、つまりは、思考といかなる相関関係ももたない現実そのものに直面しなければならなくなった。アレントはここから次のように述べる。プラトン以来ずっと概念によって思考してきた哲学は、いまや概念への信頼を失ったのだ。したがって、「哲学者はそもそも哲学に没頭することに対して抱く良心の疚しさを払拭することはできなくなった」(「実存哲学とは何か」、230頁)。

一言で言えば、哲学にはもうやることがなくなった──少なくとも、そうと思われたわけである。

アレントによれば、そしてこれは多くの研究者の同意するところであろうが、この事態に最も敏感に反応したのが、シェリングに他ならない。シェリングは、「ものの“何”であるか」(Was)によっては存在のリアリティに迫ることはできないのであって、「ものがある“こと”」(Daß)を問わねばならないという「積極哲学」を晩年に主張した。シェリングはカントが「思考と存在の統一」を破壊したことの意味を真正面から受け止めたのである。

実存とは、この「ことDaß」の別名に他ならない。実存哲学とはすなわち、カントによって伝統的な哲学のあり方が不可能とされた後に、それでもなお哲学しようとする背水の陣のような試みであった。アレントはこの試みを引き受けた何人かの哲学者・思想家に言及しているが、それを最も鋭く推し進めた哲学者としてここで言及しなければならないのは、言うまでもなくハイデッガーである。

これも詳細は省くが(そして、私にはとても十全にこれを説明する能力はないのだが)、ハイデッガーにとって、「ことDaß」そのものに迫るとは、存在の意味を問うことであった。だが、「こと」そのものをそのまま論じることはできない(おそらく、それでは単に個別具体的な事例を扱うだけになるだろう。おそらく、それでは哲学とはならないだろう。そして、おそらく、20世紀の哲学が文学に接近したことの理由の一つがここにあるだろう)。そこで、周知の通りハイデッガーは、自身が「現存在」と呼ぶ人間という存在者を取り上げ、人間が存在している「こと」そのものに迫るべく、それがいったい“どのように”存在しているのかを問うた。「どのように」であれば、確かに哲学的にこれを問うことができそうである。具体的にはそれは、現存在の「平均的日常性」の分析として遂行されることになる(そしてこの日常性の分析から、世界に対して現存在が抱く「親しみ」が導きだされることになる。冒頭に引用したアレントの一文は、ハイデッガーの現存在分析を前提としている)。

とはいえ、結論だけを述べれば、アレントはこのハイデッガーの試みがカント以降の哲学の使命を誰よりも真面目に受け止めたものであったことを認めつつも、それは失敗であったと断言するに至るのである。したがって同論文は、存在そのものの意味に迫るなどという無理難題に挑んだハイデッガーより、人間の理性は「限界状況」に直面してその限界を知るのだと指摘したヤスパースを評価して終わる。なお、アレントがまとめる限りでのヤスパースの思想は実に退屈なものであって(「足るを知る」の思想とでもよいだろうか、この論文では単純化された現代版エピクテトスのような思想として描かれている)、そのことが、アレントは実際にはハイデッガーの哲学の試みの方を高く評価していたであろうことを物語っている(もちろん、ヤスパースの思想の重要性は論を俟たないのであって、アレントによるその評価はとても十分とは言えない)。

アレントは「現代哲学」がカント哲学の決定的呪縛の中にあることを明晰に示してみせた。その彼女は結局、哲学者であること、あるいは哲学者になることを諦める。アレントは生涯にわたって、自分の専門は政治理論であって哲学ではないと言い続けた。それは、カント以降もはや伝統的な仕方では哲学はできないのだし、それを分かった上で何とか哲学をやろうと試みたあのハイデッガーですら失敗したのだという事実を真正面から受け止めた彼女の真摯な結論だったのだろう。

アレントは以上の認識を1940年代に述べたわけだが、実のところ、彼女の指摘は現代にも当てはまると言わねばならない。そう、私たちは確かにずっとカントの呪縛の中で哲学してきた。超越論哲学は確かに何度も疑われてきたけれども、いったい誰がそれを決定的に覆しただろうか。ならば、その呪縛から何とか解き放たれねばならない──そう主張したのが、カンタン・メイヤスーである。

メイヤスーによれば、カント以降の哲学は彼の言う「相関主義」に囚われている。相関主義とは、思考が実在そのもの、存在そのものに迫ることは不可能であって、我々にできるのは思考と存在との相関関係を問うことだけだという考え方である。その著作『有限性の後で』において、メイヤスーはこの相関主義が抱える様々な矛盾点を指摘しつつ、その前提を疑う。そして、ある意味では読者が自らの眼を疑うほど単純なことを述べる。数学を使えば実在そのものに迫れるではないかと言うのである。

メイヤスーの主張は極めて挑戦的であり、その論述のスタイルも論争的であるから、反感を買うことも少なくないようだが、アレントの「実存哲学とは何か」と並べてこれを読んでみるならば、その試みが極めてシリアスなものであることが分かる。それは近代哲学の歴史に基づいた正統なる問いかけである。過大評価と思われるかもしれないが、シェリングやハイデッガーがカントによる破壊の意味を正面から受け止めたように、メイヤスーもまたそれを正面から受け止めようとしているのだ(なおこの点で、ハイデッガーに比べれば明らかに論じられる機会の少ないシェリングが、現代哲学にとって極めて大きな意味を持つことが理解されるように思われるが、そのことを指摘しているのが浅沼光樹氏の注目すべき論考「シェリングと現代実在論──メイヤスーの相関主義批判に寄せて」(『現代思想』、2020年1月号[連載中])である)。

だが、なぜ数学なのか? 結論だけを述べると、メイヤスーが数学による実在そのものへの接近の可能性を主張できるのは、現代の科学が数学を使っているからである。メイヤスーは科学が実際に数学を使っているという事実に依拠している。言い換えれば、メイヤスーは実在そのものへの接近可能性を数学の側から論証しているわけではない。数学を論じていった結果、数学のそのような能力が論証されるのではない。したがって、もし現代の科学が数学とは異なる別の言語に依拠していたならば(確かに数学に代わるものは想像もできないが)、メイヤスーはその別の言語をもって実在そのものへの接近可能性を主張したであろう。つまり、同書では、「なぜ数学なのか?」という問いに対しては、「科学が数学を使っているから」という消極的な、事実に基づく答えしか用意されていない。

メイヤスーの哲学において、数学による実在そのものへの接近の可能性は、数学の側から論証されているのではない──私はこの点からメイヤスーの落ち度を指摘したいわけでは毛頭無い。というのも私は、メイヤスーの哲学の要点は、数学を使えば実在そのものへと接近できる云々ではなく、彼が「相関主義」と呼んだ哲学的思潮への批判にこそあると考えるからである。

ここではこの点をこれ以上論じることはできない。だが、それでも述べておきたいのは、相関主義に対するメイヤスーの批判は、同時代を生き、同時代の哲学を学んできた者として強く同意できる点を多々含んでいたということである。私は『有限性の後で』を読みながら、理論的に納得したというより心情的に共感した。気持ちがよく分かる感じがした。つまり、僭越ながら、彼が抱いてきたように思われる現代哲学への苛立ちを、私自身も共有していたように感じたのである。そして、その共感の事実を前にして、私は自分が問いかけられているような気になった。

メイヤスーの試みは実にノスタルジックなものであるように思われる。なぜならばそれは、「思考と存在の統一」がカントによって破壊された後にあって、もう一度それを取り戻そうとする試みだからである。「我々には存在そのものに迫ることなどできないのだ! そのことを常に胸に刻みつけ、慎みを忘れるな!」──相関主義はそのようなことを実に慎みのない仕方で言ってくる。メイヤスーを読みながら、私は自分がそのような思潮に強く反発してきたことを思い出した(実は90年代以降の政治状況も関係してくるのだが、それについてはここでは論じられない)。だからこそ、それを説き伏せようとするメイヤスーの試みに心情的に共感した。

だが、そこから、「数学を使えば存在そのものに迫ることができる」と主張し、「思考と存在の統一」を、ひいては、かつて哲学に託されていたその地位を取り戻そうとするノスタルジックな試みに乗り出すべきなのか。私にはまだよく分からない。自問の形を借りて批判しているのではなくて、本当にまだよく分からない。

「相関主義への苛立ちを君も感じていたのではないのかね? ならば君だって、哲学に託されていたあの地位を取り戻したいと思っているのではないかね?」──私は『有限性の後で』を読みながら、何度もそう問いかけられている気がした。「思考と存在の統一」をまさしく体現するスピノザ哲学を自分が専門にしているのも、実はこのノスタルジーを共有しているからではないだろうかとすら思った。

まだよく分からない。ただ、アレントが彼女にとっての「現代哲学」の意味を総括すべく「実存哲学とは何か」を書いたのと同じように、いま我々が生きているこの時点での「現代哲学とは何か」が書かれねばならないだろうということだけは確かだと感じている。

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年2月29日 発行