翻訳

竹峰義和(訳)

テオドール・W・アドルノ(著)

模範像なしに

みすず書房
2017年12月
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若いころにウィーンのアルバン・ベルクのもとで作曲法を学んだ経験もあるアドルノにとって、音楽という芸術ジャンルが特権的な存在であることは誰もが認めるところである。現在刊行されている全20巻の『アドルノ全集』のなかで音楽関連のテクストはおよそ半数を占めており、遺著となった『美学理論』(邦訳は『美の理論』大久保健治訳、河出書房新社、新装完全版2007年)においても、ベートーヴェンやシェーンベルクが作曲した作品について実に多くの記述が割かれている。

もっとも、アドルノの芸術美学において、音楽以外のジャンルが等閑視されているわけではないことは、全4巻の『文学ノート』(邦訳は『文学ノート』全2巻、三光長治他訳、みすず書房、2009年)や、あるいは『プリスメン』(邦訳は『プリズメン』渡辺祐邦/三原弟平訳、ちくま学芸文庫、1996年)における文学関連の論考が明確に証し立てている。しかしながら、たとえば絵画や建築などについて、アドルノがその美学的意義を積極的に認めているといった印象は一般的に薄く、とりわけ映画については、『啓蒙の弁証法』の文化産業論における苛烈なハリウッド映画批判のみが人口に膾炙しつづけてきた。

『模範像なしに── 美学小論集』は、晩年のアドルノが『美学理論』の執筆のかたわらで発表した美学関連の論考や講演を収録したエッセイ集であるが、ここに収録されたテクストのなかで狭義における音楽論は──バロック音楽を徹底的に批判した論考を除いては──ほとんどなく、絵画、建築、映画、芸術におけるマネージメントの問題など、これまでアドルノ美学とは縁遠いと見なされてきたジャンルや対象を扱ったものが多くを占めているのがその最大の特徴である。しかも、その際にアドルノは、抽象的で観念的な議論をひたすら展開するのではなく、フランス印象派の絵画、ホテルのロビーを飾る通俗絵画、ロースの建築デザイン論、チャップリン、ニュー・ジャーマン・シネマ、さらには不条理演劇やハプニングなど、きわめて具体的な対象を議論の俎上に上せており、あたかも音楽や文学以外の事柄について考察するなかで、みずからの美学的思考の射程をあらためて問い直そうとしているかのようだ。モダニズム芸術の文化保守主義的な護教論として片づけられがちなアドルノ美学であるが、これらのテクストは、そのなかにいまだに堀りつくされていない鉱脈がなおも眠っていることを告げているのである。 

『模範像なしに』のさらなる特徴として、幼いころに夏季休暇を過ごしたアモールバッハをはじめ、ウィーン、ジルス・マリーア、ルッカといった土地にまつわる断章形式のエッセイが収められていることが挙げられる。子どものころの記憶や滞在した都市について数多くの印象的なテクストを執筆したベンヤミンとは異なり、アドルノがみずからの過去について語ることはきわめて稀であり、その意味でこれらの文章はアドルノの著作のなかでも例外的であると言える。だが、アドルノの思想において幼年時代や知覚経験といった契機にきわめて重要な意義が付与されていることに鑑みるならば、ここに収録された回想録風のエッセイのうちに、アドルノ哲学の核心部分に密かに触れるようなモティーフを読み取ることもできるだろう。「交換不可能なものである幸福の経験がつくられるのは、ある特定の場所においてのみである」(「アモールバッハ」)──アドルノがその生涯において芸術について繰り返し論じるなかでつねに追い求めていたのは、まさにこの「交換不可能なものである幸福の経験」だったのではないだろうか。

(竹峰義和)

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年6月22日 発行