翻訳

竹峰義和滝浪佑紀(訳)

ミリアム・ブラトゥ・ハンセン(著)

映画と経験 クラカウアー、ベンヤミン、アドルノ

法政大学出版局
2017年8月
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広範な資料調査のみならず、詳細な作品分析から20世紀初頭のアメリカ初期映画を「新しい公共圏の出現」として描き出した『Babel and Babylon』(1992年、未邦訳)の著者ミリアム・ブラトゥ・ハンセンによるフランクフルト学派論となれば、まずはヴァルター・ベンヤミンに関する章(3-7章)に注目が向かうだろう。そこでは、今日の映画論やメディア論において頻繁に参照される「複製技術時代の芸術作品」が中心的に論じられ、「アウラの凋落」、「ショック」、「視覚的無意識」といった有名な概念が俎上に載せられるが、ハンセンが注目するのは〈経験〉という論点である。すなわちベンヤミンは、機械化と産業資本主義のもとで取り返しのつかない断片化と毀損をこうむった〈経験〉を、モダニティという歴史的文脈にそくして再創造しようと試みたのであり、ハンセンは一方では、ベンヤミンがいかにしてクラーゲスやショーレムといった異なる陣営に属する思想家を介して〈経験〉の概念化を企てたのかを辿り(4章)、他方では、「一方通行路」、シュルレアリスム論、写真論、複製技術論文の複数の稿などの読解を通じて、ベンヤミンがいかにして──戦争という破局が刻一刻と近づいてくるなかで──映画や街路といったメディア空間を、大衆の経験が遊戯的かつ非破壊的に上演される場として考案しようとしたかをあぶり出すのである(5-7章)。

『映画と経験』はまた、「自然美」や音楽美学との関連において素描されたアドルノの映画論に関する章(8章)を含み、ヴァイマル期と戦後アメリカ亡命時代のクラカウアーをめぐる章(1-2章、9章)によって外挿されている。とりわけジークフリート・クラカウアーに関して言えば、本書を含めたハンセンの学問的業績のひとつに、ベンヤミンとアドルノという批判理論のスパースターに比して後塵に拝していたこの批評家に新しい光を当てたということが挙げられる。たとえば、映画論における古典的著作『Theory of Film』(1960年、未邦訳)は、カメラという装置は現実をありのままに捉えることができると主張したナイーヴなリアリズムの書として、単純化されて理解されてきたが、ハンセンはヴァイマル期の著作や「マルセイユ草稿」(戦時中に書かれた『Theory of Film』の初期草稿)の読解を通じて、クラカウアーの映画論の下層には、バラバラに分断された世界を提示することで、観客を疎外する「偶発的で不確定な〈なおも与えられていないもの〉」(これがさしあたって映画によって露わにされる物質性である)があると主張する。近年、クラカウアーのリアリズムをサイレント期の〈カメラ眼〉の概念──肉眼では見ることのできない無意識的諸相が機械によって暴露される──によって再評価するという機運が高まっているが、ハンセンはこうした主張と軌を一にしながらも、さらに先に進み、偶発的なものによって与えられるショック経験としての疎外効果の含意や、こうした物質性とモンタージュの接続の可能性を示唆するのである。

最後に強調しておきたいのは、ハンセンはフランクフルト学派による映画論を20世紀の切迫した状況──第一次世界大戦による壊滅的ダメージ、アメリカの夢と共産主義のユートピア(およびそれへの幻滅)、忍び寄るもうひとつの大戦、亡命、冷戦、若者たちの対抗文化(クルーゲらによる〈若いドイツ映画〉)──にたいする応答ないし介入として解読しているという点である(それゆえ同じ著者であっても見解に変化がある)。この意味において、『映画と経験』はフランクフルト学派の映画論にたいする注釈をこえて、わたしたちが映画の世紀であると言われる20世紀を再考するにあたって、さらにはデジタル・メディアが遍在的かつ深く生活世界に浸透している21世紀を見通すにあたって、重要な洞察を与えてくれるように思われる。

(滝浪佑紀)

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年2月26日 発行