第11回大会報告 シンポジウム

第11回研究発表集会報告:シンポジウム:いま「自己」はどこにあるのか —— 精神分析、自己啓発、アルゴリズム|報告:上尾真道

日時:2016年7月9日(土)13:00 - 16:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館1号ホール

松本卓也(京都大学)「統合失調症の時代から自閉症スペクトラムの時代へ」
牧野智和(大妻女子大学)「自己啓発・再帰性・異種混交性」
細馬宏通(滋賀県立大学)「自己観を開く:個の認知から相互行為による認知へ」

〈コメンテーター〉小泉義之(立命館大学)
〈司会〉千葉雅也(立命館大学)

2016年7月9日、梅雨の名残の雨も止んだ京都の昼下がり、立命館大学で開催された表象文化論学会第11回大会は、哲学者・千葉雅也の企画によるシンポジウム「いま「自己」はどこにあるのか:精神分析、自己啓発、アルゴリズム」で幕を開けた。

はじめに千葉により、企画趣旨について短い報告が行われた。本シンポジウムは、『表象』02の特集「ポストヒューマン」以来の、21世紀における人間性の変容を問う試みであるという。「非人間」あるいは「準人間」を考えるための準拠点としての「自己」、それがテーマだ。2000年代の議論は、これを「動物」的生を参照し論じていたのに対し(cf. アガンベン、東)、現在、思弁的実在論や新唯物論の盛り上がりに見られる通り、「事物」の自体的他者性との関係が新たな論点を形成しつつある。実際、現代の情報テクノロジーが可能とする管理・マネジメント社会の中、人間は、例えば人工知能アルゴリズムを自らの似姿とする「自己もどき」に堕していないか。だが、そこには同時に、かつては表に出なかった人間のインフラストラクチャーについて思考するチャンスもまた存するのではないか。概ねこのような問いかけを提示したのち、千葉は、そこへ分け入ってゆく手がかりを、「有限性」と「代理なし」の二つのキーワードによって提示する。社会学的「近代的再帰性」(ギデンズ)と、精神分析的「シニフィアンの無際限な連鎖」(ラカン)を重ねあわせながら、20世紀思想の主役たる「主体」が、自己の根拠付けを無限に取り逃がす者として提示されたのち、この連鎖が事実において止まっているという「有限性」の局面の問題に視線が促された。また表象文化論との関係からは、近代的な根拠の無限遡行と一体であった表象代理モデルに代えて、「代理なし」のオブジェクトモデルへの移行が行われているのではないかとする見方が提起された。

この問いかけに答えたのは、それぞれに異なる領域を専門とする三者である。最初の提題者は、ジャック・ラカンの研究で知られる精神病理学者・松本卓也。「統合失調症の時代から自閉症スペクトラムの時代へ」と題し、狂気と創造性を結ぶパラダイムの、20世紀から現代にかけての変化を紹介した。病理学、および病と芸術の関係を論じる病跡学において、20世紀には統合失調症(精神分裂病・スキゾフレニア)が特権的な病として理想化されていた事実を振り返った上で、現在、その理想が失墜し、代わって自閉スペクトラム障害(ASD)が浮上してきたと松本はいう。症候学的側面からこの交替の現状が紹介されたのちに、ASDの理想化の意味するところがラカン理論を参考に検討された。とりわけ後期概念のひとつ、言語と身体のトラウマ的出会いそのものを刻印するシニフィアンの群れとしてのララング(S1)の実例のひとつとして、或る自閉者が常同的に、繰り返しひとつの文字——いかなる他の文脈にも紐つけられずそれゆえ解釈が停止する文字——を描くことで作り出されたアウトサイダー・アートの作品が紹介された。

続く社会学者・牧野智和の提題「自己啓発・再帰性・異種混交性」は、『自己啓発』に関する氏の二つの著作を踏まえて、この言説と実践の現代的布置が細かに示された。自己啓発の時代的変遷を追いかけながら、牧野は、90年代以降の展開を日常生活の「自己のテクノロジー」化として論じる。そこでは、手帳術や片付け術などの日常的事柄が自己啓発的に意義付けされていくのである。さらに、身の周りのあらゆる素材が「自己との関係」に吸着していくこの局面を、ギデンズの再帰的近代性における自己役割の形成の議論との関連に置きながら、言説に回収しきれない社会的構成のあり方を取り出す必要性が確かめられる。すなわち事物との無媒介的な関係が、今日の自己啓発において持つ意義が問われる。こうして牧野は最後に、再帰性の現代的な打ち止めの可能性として、非人間的アクターとしての「モノ」が持つ射程の広がりを強調した。

最後の提題は人間行動学者・細馬宏通による「自己観を開く:個の認知から相互行為による認知へ」。最初に認知科学研究の近年の動向が紹介された。現在、個体心理に範を取る認知モデルを超えて、その身体的、状況的、時間的な制約を考慮に加えるエンボディメント認知、共同行為認知研究へと大きく関心が動いているという。細馬は、このうち、特に「他者」という要素に重点を置いた、共同行為の場面における行動の分析を行う。共同行為においては、区切られたターンごとに情報を交換する将棋やチャットなどと異なり、言語、仕草の微細なやりとりが複雑な相互干渉を通じて生み出される。報告では、「ババ抜き」の開始の場面、特に「誰が誰から引くのか」を決めるという些細な場面を撮影した動画を見ながら、実に細かな他者との駆け引きが、ひとつの決定を析出する様が解説された。

休憩を挟んで哲学者・小泉義之から三者へ寄せられたコメントは、シンポジウムの場を越え、それぞれの提題者の普段の研究の視野全体をも捉えようとする刺激的な指摘であった。今回のテーマの中心である非人間的自己が、現代のイデイオット、「かすかに狂った正常な人間」と考えられることが指摘されたのち、その上で、そうした自己が、アルゴリズム主義、およびそれと無縁でない大学的知に親和的なのではないか、では、これをどう捉えるべきかが問い直された。すなわち一方に、現代ラカン派が推奨するとされるサントーム人間、自己啓発の魔法にかけられた男女、そして言語と裏腹に体が感応しているかもしれない被観察者があり、他方に、それを観察する、というよりは、それに文字どおり魅せられたインテリたちがいる。そうした構図を提示することで、いわばこのシンポジウムのプロブレマティークそのものが、「自己」の現場として問いに付された、と思われる介入であった。

その後の議論では、千葉が「非理由」を手掛かりに全体に見通しを与えたことで、問題の幾つかの核心がいっそうはっきりと浮かび上がってきた。自閉にせよ、自己啓発にせよ、あるいは相互行為においてすら、了解の深まりによってではなく、むしろ理由が消えるという局面で、行動のキューが起動し、自己の輪郭が立ち上がる契機があるのではないか。そのような問いは、さらに、改めて〈他者〉の身分を問い直すことへ議論を導く。千葉が、20世紀思想が〈他者〉に付与してきた奥行きの深さという性格と比較する形で、単に再帰性をストンと打ち止めるそれだけの機能としての〈他者〉に新たな光を当てようとすれば、小泉からは、それを受けつつ、「〈他者〉とはモノである」とのテーゼの再確認が求められた。

現代の「自己」を考えることは同時に現代の〈他者〉について考えることだ——そのような洞察が即座にシンポジウム会場に共有されたことは、他者の暴力性や権威の問題などに言及した、その後の会場質疑からも感じ取られたように思われる。そこに賭けられていることを私なりにパラフレーズするなら、「理由なしに「自己」が定立される環境としての〈他者〉について考えること」であろう。20世紀の現代思想が、言語・言説の構成的な無際限さの中で「理由」を追って飛翔を続けてきたとすれば、物質的でプラグマティックな着地を果たしたあとで、今日、我々は、端的に周りを見渡すことを思想の課題としている、と言ってもよいかもしれない。すなわち〈他者〉のエンボディメントそのものの条件・構成はいかなるものか。また、そこで得られる環境=〈他者〉は、いかに、アルゴリズムの魔法の中に捕獲されているのか、それとも逃げ出す余地もありうるのか。そのとき大学的知はどのような役を自ら任じることになるのか。すぐれて同時代的なテーマを取り上げたシンポジウムは、私たちが目下経験している移行の現実性を突きつけながら、こうした問いの周囲で、来るべき未来を予見するよう呼びかけていたように思われる。今後、関連テーマでのシンポジウムが継続して開催されることを期待したい。

上尾真道(立命館大学)

【シンポジウム概要】

21世紀に入り、人文学では、人間の生産物のみならず、人間の人間性そのものの根底的変容を言わんとする議論がしばしば提起されてきた。何らかの従来的な意味での人間ではなくなった人間にリアリティを認めようとする傾向、それに納得するかどうかはともかくとして、2010年代も後半に入る今日、情報空間の介在を避けがたくなった状況における労働/消費形態の変容が、生活の重要な異質化を体感させていることは確かであるだろう。そうした状況下で今回のシンポジウムでは、「自己self 論」を試みる。大きな問いは、(何らかの従来の基準に照らして)非−人間的ないし準−人間的な自己をどう捉えるか、である。

提案者(千葉)としては、次の文脈を想定している。これまでにしばしば、人間が「より単純」(以前はより「複雑」だった)なあり方になる局面を問題にしなければならないという必要性が示されてきた。生命維持をしているだけの状態(アガンベンの言う「剥き出しの生」)、反省よりも反応・行動(東浩紀の「動物化」論、行動経済学など)、その意味を反芻しないで遂行される一定の手続き=アルゴリズムの優位(自閉症論など)、等々のテーマが挙げられる。こうした単純な、あるいはハイデガー的に形容するならば「貧しい」あり方は、受動的・他律的であり、能動性・自律性の色が濃い「主体subject」という語をそこに当てることには違和感があるようなものではないだろうか。ゆえに今回は、「主体と言うには強すぎる、曖昧な準拠点」として、「自己」という言い方を用いることにした。あるいはもっと弱めて「自己もどき」でもよいかもしれない。今回は、こうした単純化・貧乏(ひんぼう)した自己という自己表象のタイプを中心として議論したいのである。

「たいして複雑には考えない」ということを最大限に利用しようとする現代の制御(コントロール)社会、ないしマネジメント社会は、如上の意味での「自己もどき」を生産する(それに従来の我々が置き換えられていく)社会だ。これは、一方では批判の対象になりうるだろう。が、同時にそれは、人間のそもそもの、かつては見えにくかったインフラを示唆してもいるのではないか。今日我々は、TwitterやLINEでぎこちなくも愛らしくチャットの相手になってくれる機械学習ボットにかつてなく似たものとしての自己表象を抱いてはいないか。我々は、かつてなく「自己もどき」であることを賦活されているのであり、そうした状況において、人間と事物一般とのフラットな関係が語られもしている(「オブジェクト指向存在論」や「新しい唯物論」)のではないか——仮にそう考えてみるとして、そこに、批判と肯定とを併せた議論をどのように差し向けることができるだろうか。