第11回大会報告 パネル3

第11回研究発表集会報告:パネル3:映像と言語――不可視のインフラストラクチャ|報告:原島大輔

日時:2016年7月10日(日)14:00 - 16:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館23号室

筋肉と自己──スタローン論序説
三浦哲哉(青山学院大学)

シュワルツェネッガーとアトミック・マッスル──90年代アメリカ映画における筋肉表象の変容について
入江哲朗(東京大学)

筋肉的無意識──身体における力の表象と媒質としての筋肉
畠山宗明(聖学院大学)

【コメンテーター】千葉雅也(立命館大学)
【司会】三浦哲哉(青山学院大学)

三浦哲哉氏の発表は、シルヴェスター・スタローン主演映画、とりわけ『ロッキー』と『ランボー』シリーズにおける筋肉表象の考察をつうじて《表象の筋肉》という考え方を提唱した。それはフロイト的《刺激保護》としての筋肉であり、スタローンが追究したのはまさにこの表象の筋肉として自らの肉体を造形することにほかならず、そこにこそスタローンの歴史性があることが主張された。

『ロッキー』シリーズとは、リハビリテーションの映画であり、回復と破壊のシリーズである、と三浦氏はみる。バックステージ・ミュージカルとしての『ロッキー』という視点を提供したのはポール・ラメイカーだったが、三浦氏はさらに、古典的なジャンル映画の再生そのものが、筋肉表象とともに、『ロッキー』の作劇に組み込まれていると指摘する。作品構成の多くをトレーニングシーンが占める『ロッキー』は、一方において、その特徴的な編集によって耐久性と不死性を有する理想的な身体イメージをたちあげる。疲れる前に次のトレーニングシーンに移行する断片的反復は、疲労とダメージが蓄積しない身体をつくりあげる。スローモーションとストップモーションは、肉体を不変的で理想的なモデルへと凍結する。それとともに、他方において『ロッキー』は、同時進行する破壊を並行して描写してもいる。この両極の理解なしに筋肉表象の十全な理解はない。すなわち、理想的身体の獲得がより深刻な潜在的破壊への露出でもあるという、回復と破壊の相即、あるいはカムバックとリタイアの相即こそが、スタローンの筋肉なのである。

三浦氏はこれを、フロイトの理論モデル《刺激保護》を援用しつつ、刺激保護としての筋肉として説明する。すなわちスタローンの筋肉とは、過剰な刺激から内部を保護するために燃え尽きた表層にほかならない。殴打の痛みや疲労を遮断する層として表象されるロッキーの筋肉は、もはや死んだ肉であり、まさに岩である。あるいはドゥルーズにならえば、ロッキーの筋肉は、あまりに強いものに耐えさせてくれるものとしての飲酒であり、その限度である。刺激保護としての筋肉の負の側面は、『ランボー』シリーズでより明確に表現される。丹生谷貴志はランボーに鈍さと動物性をみたが、三浦氏はそれこそがまさにスタローンの追究した主題であり、刺激保護としての筋肉の帰結であると考える。『ランボー』とは、耐久性の別名としてのランボーがトラウマにマゾヒズム的に身を委ねる映画なのであり、刺激保護としての筋肉の映画なのである。

さらに、暴力のスペクタクルの強い刺激と観客の意識との関係を考慮するならば、刺激保護としてのランボーの筋肉は、観客の意識を映像刺激から守る保護膜を寓意的に再帰的に体現してもいるのである。刺激保護としての筋肉の増大は、娯楽映画として適当に楽しむことのできる暴力表象のエスカレーションを可能にする。通俗的な娯楽映画こそが近代における知覚習慣の変容に対応しているというミリアム・ハンセンのヴァナキュラー・モダニズムの考え方を参考にするなら、大量な過剰の刺激に否応なく曝される近代化のただなかにおける変形の系譜でこそ、スタローンの作品群は評価しうるのではないか。三浦氏は、過剰な筋肉の両極性を体現したロッキーでもありランボーでもある自作自演作家スタローンを歴史的に位置付ける視点も示唆した。

入江哲朗氏の発表は、アーノルド・シュワルツェネッガーのアクション映画について主に1980年代の作品を分析し、その魅力の本質として《脳筋化された問題処理プロセス》概念が提案されるとともに、1990年代の作品論に向けた展望が提示された。

エレクシス・ボイルが指摘するように「ボディビルダーは脳みそまで筋肉でできている」(《脳筋》である)からアクション映画のヒーロー像には適切でないという通念が支配的であったなかで、ボディビルダーだったシュワルツェネッガーをアクション映画のヒーローとして成功させたその魅力の本質は何か。これを先行研究は十分に説明できていない。まず入江氏は、『007 ムーンレイカー』と『コマンドー』を比較することで、ヒーローの問題処理プロセスを2種類に分類する。すなわち、ヒーローのもつ異常に高い問題処理能力が、キャラクターのインターテクスト性(たとえばシリーズをつうじて蓄積されたキャラクターについての知識)によって観客に説得される《非脳筋的シークェンス》と、キャラクターの筋肉によって観客に説得される《脳筋的シークェンス》である。後者の要素は、まず解決策が常識的な効率性から乖離した無駄な過剰性を有する《オーヴァーソリューション》であること、そしてキャラクターの肉体が視覚的に誇張された《ハイパーボリック》であること。このように脳筋化された問題処理プロセスこそ、シュワルツェネッガーの独特な魅力にほかならない。

その特徴をより詳細に説明するために、入江氏は、サイレント時代のコメディ映画と比較する。三浦哲哉によれば、サイレント時代のコメディ映画の滑稽さとは、行動主義心理学モデルで刺激と反応に還元されて機械化された人間の動作様式の滑稽さである。そこでは予測を裏切る出力つまり誤作動が社会を混乱させる。他方、脳筋化された問題処理プロセスは、誤作動ではなくオーヴァーソリューションなのであり、その処理プロセスも機械的即時的なものではない。脳でも機械でもなく筋肉が思考しているという、人間性と機械性のバランスに滑稽さがある。

さらにその特徴は、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンならびにその一例としてのピタゴラ装置との比較で、より精密に定義される。いずれも処理プロセスの回路が過剰に壮大であることの滑稽さは共通している。ただ、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンの出力が日常的であるのに対し、脳筋化された問題処理プロセスの出力はオーヴァーソリューションなのである。また、石岡良治が指摘するように、ピタゴラ装置は回路がめったに一望できない。他方、シュワルツェネッガーの筋肉はフルショットで一望できる範囲に収まる。筋肉表象ではしばしば、部分であったはずの筋肉が持ち主の人格を凌駕するほど暴走することがあるが、脳筋的プロセスは肥大化しすぎない。この2つの特徴を、入江氏は、原子爆弾のオーヴァーソリューション性と最小部分としての原子との類比から、《アトミック・マッスル》という言葉で表現する。

入江氏は、このような脳筋化された問題処理プロセスこそがシュワルツェネッガー主演アクション映画の本質的な魅力であり、それは《ハイパーボリックな筋肉を映すことによるオーヴァースペックの提示》《ルーブ・ゴールドバーグ・マシン的な壮大だが複雑すぎない回路の存在を感じさせる演算の描写》《オーヴァーソリューション》の3つの要素からなると結論する。さらに発表では、1990年代のシュワルツェネッガー主演作について《パロディ》《アンコントローラビリティ》《ジェンダー・トラブル》という3つの論点での考察が展望された。

畠山宗明氏の発表は、映像において効果としての運動を生みだす《表象の筋肉》を、視覚的形態性と運動的触覚性の相克としてとらえる観点を提案し、とりわけ後者が前者を凌駕する領域を《筋肉的無意識》と定義することで、映像における運動をめぐる議論を更新する筋肉表象論の展望を提示した。

畠山氏はまず、『ミニオンズ』におけるミニオンたちの個体的かつ集団的な運動を例に、映像における運動には、運動に先立って被写体に存在していたものとしての運動ではない、運動をつうじて効果として産出される《表面の運動》があることを指摘する。これは、実在に結びつけられる対象の運動でもなければ、触覚性をもたない純粋な視覚性としてのクリスチャン・メッツ的な運動でも、視覚的なものに抑圧されたものによる例外的なショックとしてのトム・ガニング的な運動でもない。畠山氏は筋肉の観点から捉え返すことで運動をめぐる議論の更新を目指す。

ミニオンたちの表面の運動を観察すれば、そこでは衝突の表象を介して触覚的な質をともなう相互作用の広がりが生まれている。畠山氏はこれを《表象の筋肉》と定義する。畠山氏は、衝突の表象が表象に触覚的な質を付与する仕方に着目する。たとえば、堅いものと予測していた物質が衝突してみたら柔らかかった、という『怪盗グルーの月泥棒』の一場面では、観客にとって柔らかさという質はあらかじめ存在しているのではなく、衝突の表象によって事後的に付与されるのであり、柔らかかったので衝突したら凹んだという因果関係もまた事後的に付与される。『ブラックエンジェルズ』や『エクスペンダブルズ2』からも同様の効果が例示された。この効果を畠山氏は《拡張されたクレショフ効果》と呼ぶ。それは画面内で遂行されて因果関係を事後的に構成するが、クレショフ効果のように物語をつくりだすだけでなく、触覚的に推論される質をともなった広がりをつくりだす。

これは《実在から表象へ》ではなく《表象から表象へ》という平面上の出来事である。とりわけ身体表象は、そのような表象される実在や内部や心なしに平面上で衝突するそれぞれ自律的な部分たちの相互作用によって意味を産出する、平面上の出来事を独力でつくりだす。畠山氏は、『イワン雷帝』やボディビルダーを例に、ミハイル・ヤンポリスキー的な心的動機付けを解除した純粋な身体において、自律的な部分たちが平面上で衝突するさまに注目するよううながす。また、『グラップラー刃牙』を例に、このような身体の平面化が、身体能力の拡張を表現するためにしばしば使用されることを指摘する。

畠山氏はさらに、肉体表象におけるこうした表象の筋肉の活用を、視覚的形態性と運動的触覚性の2つのアスペクトの相克という観点から捉え返すことを提案する。ここに、両者の拮抗関係として動画や身体を理解する視点がえられる。拡張されたクレショフ効果は、前者から後者へのアスペクト転換をうながすものと換言できる。畠山氏は、ボディビルダーや『プレデター』や『グラップラー刃牙』の分析をつうじて、この考え方の有効性を例証する。とりわけ、視覚的形態性に抑圧された運動的触覚性の視覚の場への回帰は、表象的身体にデフォルメーションを引き起こし、非表象的身体の効果的質をともなった想像的領域を生みだす。この領域を、畠山氏は《筋肉的無意識》と定義した。

コメンテーターの千葉雅也氏は、三者それぞれの発表の細部の多様性の意義を十分に認めたうえで、議論のためにあえて次のように整理し問題を提起した。すなわち、いずれの発表も、主体のために効率的に力を発揮する機能的な筋肉(使用価値のある筋肉)ではなく、主体の制御を凌駕する過剰な筋肉(剰余価値としての筋肉)があらわれる場面を問題にする、という文化論の典型的図式で筋肉を考察している。たしかに筋肉は、力の直接的発露としての筋肉と、過剰で遅延的で宙吊り的で迂回的なものとしての筋肉の、この直接性と間接性がパラドックス的に短絡されてしまうトポスであるところに魅力があり、文化論的関心はその奇妙なカップリングの仕方に向けられるものである。ひねりのきいた迂回をきめてこその文化論とはいえ、しかしそのとき単純で直接的な力の発露としての筋肉という問題がどこかで見落とされていはしまいか、そう問い直すべきではないか。人文学的言説は、単純な暴力に向き合いそれを言葉にすることができるだろうかと、あらためて問われなければならないのではないか。

発表者からの応答では、まず三浦氏から、剰余としての筋肉については、筋肉表象がやはりどうしようもなくサスペンス的であることが、そして単純な暴力については、『アクトオブキリング』に言及しつつ、スタローンだけでなく、映像によって実際に遂行されてしまう暴力と関連付けながら論じる必要性が示唆された。入江氏は、身体のもうひとつの剰余としての脂肪と比較しつつ、剰余かつ機能としての筋肉が三者に通底していたという千葉氏の指摘に同意し、直接的な力の発露については、『ダークナイト』のジョーカーを例に、これを筋肉なしで表現できることに着目し、力を発揮するための筋肉がある局面までいくともはや力の発揮のために必要なくなってしまうという不思議が問いになりうることを示唆した。畠山氏からは、直接的な暴力の装置としての筋肉について、近年の映画俳優が平均的に筋肉質になっていることに着目し、誇張的なものではなく文化的無意識的なものとして筋肉を分析する観点が示唆された。さらに、畠山氏の発表における視覚的形態性と運動的触覚性の相克の議論に関連して、千葉氏は、強すぎる視覚的現前性がかえって視覚に抑圧された運動性を露呈させるパラドックスを指摘した。千葉氏によれば、これはrepresentationのreをどう理解するかの問題にかかわる。すなわち、反復としてのreと強調としてのreである。表象の筋肉/筋肉の表象が、強現前化としてのrepresentationにアプローチする手掛りのひとつになる可能性が示唆された。

会場からは次のような質問や意見があがった。まず、パネルをつうじて提示された、外部の刺激から保護する筋肉と内部の力を抑え込む筋肉の、一見すると対立する2つのイメージの関係性・年代性について。次に、ルネッサンス絵画における女性のふくよかさとの連想。それから、筋肉映画が観客の暴力を奮い立たせる作用について。最後に、筋肉映画としての『エイリアン』という観点から、エイリアンの問題処理能力について。報告者にとってはとりわけ三番目の質疑応答が千葉氏の問題提起と本パネルの争点から興味深い。筋肉の表象/表象の筋肉の境地ではたらく力の精妙な識別。非表象的な強さとしての筋肉の力は、暴力や善悪についての概念的意識的理解とは無関係あるいはその手前ないし彼方の領域、畠山氏の言葉をかりれば筋肉的無意識で作用する。それは観察者の意識のなかに表象されるというよりは観察者の行動として体現する効果、情動や感染の非物体的で非媒介的な直接的で純粋な力であり、客観的合理的に力の相互作用を言語化する学問にそれは原理的に語りえない。それをしかし言葉にしてしまうような学問。非表象的表象文化論、あるいは入江氏の言葉をかりるなら――そして筋肉としての脳を語る荒川修作氏の映像――脳筋。溝でも創でも襞でもない筋の肉の知。筋肉文化論の端緒をひらくという目的は達成できたのではないかという三浦氏の言葉通り、たいへん充実したパネルであった。

原島大輔(東京大学)

【パネル概要】

本パネルの企図は、映画をはじめとした現代の視覚文化における「筋肉の表象」の意味をあきらかにするための議論の端緒を開くことにある。

これまでの学術研究において、ボディビルをはじめとした筋肉の増強は身体の完全なコントロール/管理という規範に結びつけられ、保守的・男性的イデオロギーを強化するものとして批判的に論じられてきた。しかし、筋肉を「表象」として捉え直した時、それは、規範を強化しつつそこから逸脱していく両義的な形象としての側面を露わにする。表象としての筋肉は、一方では完全な身体という幻想を強化しつつ、他方では、その固有の可塑性によって、人工/自然、装飾/機能、外観/内面、男性/女性といったさまざまな規範的なカテゴリーを挑発し変容させ、さらに、身体的な「肉」と表象の「肉」をも交差させていくだろう。

本パネルでは主に1980年代以降の映画における肉体表象に着目することで、そのような表象としての筋肉の可能性について考察したい。とりわけ1980年代以降、主体と筋肉の有機的な結びつきは失調し、人格から切り離された筋肉の自走や増殖がしばしば表現されるようになる。こうした失調は冷戦やバブルの崩壊を経て極大化するものの、近年はより想像的な理想的イメージに包摂されつつあるように思われる。本パネルでは、こうした臨界的な状況を、さまざまな事例に即して、具体的に示していくことになるだろう。


【発表概要】

筋肉と自己──スタローン論序説
三浦哲哉(青山学院大学)

映画俳優・監督・脚本家であるシルヴェスター・スタローンの諸作品を、その「筋肉表象」を通して再解釈し、おもに80年代以降の視覚文化における位置を再考することが本発表の目的である。

スタローンの諸作品は、強い男性像への保守的回帰のシンボルとして受容されてきた半面、近年の「スタローン・スタディ」(Chris Holumlund, 2014)で注目されているように、そこでは肉体の自然や健康を取り戻すことの本質的な不可能性が露呈されており、そこから独特の問題圏が形成されている。「ロッキー」は、シリーズ第一作からすでに引退間際の高齢ボクサーであり、「ランボー」は心的外傷に苛まれる退役軍人であった。シリーズが更新されるごとに繰り返される無際限のカムバック劇は、老いや病や抑鬱状態からのあり得ないはずの克服として描かれている。これら不合理ないし奇跡をそれでも成立させるものこそが「筋肉」である。そこで「筋肉」は、描かれる主題であると同時に、奇跡を可能にするフィクションの場そのものを成立させる「基底材」でもある。

「基底材」としての筋肉それ自体の操作は、スタローンの自作自演作家という立場と深く関わっており、その創作/造形における指導的原理を成している。以上の観点からその作品群のテーマ──不死性、反復強迫、受苦/受難、ナルシシズム、笑い──を読み解き、「筋肉の時代」に固有の映像表現の最も重要な事例のひとつとして提示する。

シュワルツェネッガーとアトミック・マッスル──90年代アメリカ映画における筋肉表象の変容について
入江哲朗(東京大学)

アーノルド・シュワルツェネッガーが映画俳優としてのキャリアを本格的に歩みはじめたのは、ボディビルという領域での名声を十分に確立したあとのことである。言うなれば、スクリーンに登場する彼の肉体ははじめから「完成」されていたのであり、それは『ロッキー』(1976)でスターダムにのしあがったシルヴェスター・スタローンとの大きな違いである。シュワルツェネッガーの筋肉は、主人公がある目標のためにトレーニングを積んで強くなるという展開の説得力を損なう(なぜなら彼はすでに見るからに強そうなのだから)という意味では、映画にとって「過剰」なものとして存在していた。

本発表では、シュワルツェネッガーという俳優が(文字どおり)体現しているこの「過剰」な筋肉を、ひとまず「アトミック・マッスル」と呼ぶ。そう呼ぶ理由のひとつは、彼のデビューを後押しした時流(強い男性像へのニーズ)が冷戦という背景と不可分なものだからであるが、本発表が特に注目するのは、冷戦終結後におけるアトミック・マッスルの帰趨である。『キンダガートン・コップ』(1990)や『ラスト・アクション・ヒーロー』(1993)といった作品からは、いっけん、90年代のシュワルツェネッガーはセルフ・パロディに活路を見出したようにも思われる。しかし本発表は、アトミック・マッスルが私たちにもたらす笑いについて分析することをとおして、これらの作品がパロディという枠には収まらない重要性を持つことを論じ、シュワルツェネッガーの筋肉が90年代のアメリカ映画において切り拓いた表現論的な可能性を提示することを試みる。

筋肉的無意識──身体における力の表象と媒質としての筋肉
畠山宗明(聖学院大学)

本発表は、1980年代以降のさまざまな動画作品やマンガ表現に現れる、身体コントロールの失調/拡張を契機に生じる身体表象の変容、および、それを可能にしている筋肉表象の媒質的機能を明らかにすることを目的としている。

エイゼンシュテインをはじめとするロシアの前衛映画作家たちは、心的状態を、条件反射的な自動運動に委ねられた身体の各部をモンタージュすることで描き出そうとした。そうしたモンタージュは、機械的部分の衝突を通じて全体としての有機的自然の運動へと回帰することを目的として行われていたが、同時にそれは身体運動の原理を心的動機付けから解放し、平面性など異なった表現原理に服させることを可能にしていた。つまりそこには、全体化されざる「表面」の運動が、期せずして誕生しているのである。

このような、肉化された無意識表象を通じて身体に生じる「デフォルメ」、「表面」としての身体への移行は、1970年代から1980年代にかけて、心的逸脱の表象に精神病理学的な観点が付与されていくのと平行して、形を変えて回帰しているように思われる。

SFXによる身体の変容、カンフー映画並びにそのデジタル的な運動の拡張、さらにはアニメーションやマンガにおける超能力の表象などにおいて、筋肉表象は身体を超えた「力」を導入する「場所」としてだけでなく、力が書き込まれた身体各部をアントロポモルフィックな統合性から開放する「シフター」としても機能しているように思われる。本発表では、ミハイル・ヤンポリスキーの「身体のデフォルメ」や「デーモン」、「表面」といった概念を参照しつつ、ジャンルを超えて広がっているそのような筋肉表象の多層的な媒質性を、様々な作品に確認していきたい。