研究ノート 渡邊雄介

ジルベール・ロトランジェとフレンチ・セオリー
渡邊雄介

1970年代はフランスの作家とアメリカの作家が直接出会うことのできた時代であった。『テルケル』は、1974年にギンズバーグにインタヴューをし、76年にはブライオン・ガイシンの「カットアップ」や、リチャード・フォアマンの演出した作品を取り上げた。さらに77年にはアメリカ特集号を刊行し、バロウズ、ブローティガン、ウィリアム・ギャスらの「ポストモダン」とフローベールやジョイスの「モダニズム」を対比する記事を記載した(※1)。フランスでは当時、マース・カニングハムやジョン・ケージなど「ポストモダン」と呼ばれるアメリカの実験的な前衛芸術が興味の対象となっていた。

反対に、アメリカ側からこのような米仏の文化的交流を引き起こそうとした人物に、Semiotext(e)を率いたジルベール・ロトランジェがいる。本研究ノートでは、アメリカにて「フレンチ・セオリー」の輸入に貢献したジルベール・ロトランジェという人物に焦点を当て、あらためて「フレンチ・セオリー」や「思想の輸入」ということについて考えるきっかけとしたい。

ロトランジェの経歴は、60年代にソルボンヌで研究をしながらオリヴィエ・ビュルジュランのメゾン・デ・レットル社と共産党系の文芸誌である『レットル・フランセーズ』で働き、70年に学業を終えてアメリカへ戻ると、コロンビア大学のフランス科の専任教授となるといったものである。彼はそこで、バルト、ソレルス、ロブ=グリエや、ガタリ、ジュネット、ラカンなど、第一線のフランスの思想家、作家たちと知己を得ることになる。

さらに70年代のニューヨークで活動していた彼は、ロバート・ウィルソン、フィリップ・グラス、スティーヴ・ライヒ、キャシー・アッカ―、アート・リンゼイなどの当時のアメリカの先端を行っていたアーティストたちとも知己を得るようになっていた。

68年的なカルチャーと結びつきが強いBoundary 2という雑誌を1972年に創刊させたウィリアム・V・スパノス同様、ジルベール・ロトランジェもアメリカのカウンター・カルチャーや前衛芸術を「ポスト構造主義」と連帯させる必要があると感じていた。しかしながら、彼がスパノスと大きく異なるのは、スパノスのようにアメリカには「セオリー」がないと考えて、それをフランスから輸入しようと考えるのではなく、「セオリー」とは本来アメリカにおいて生まれたものなのだと考えるに至ったことである。「哲学」や「思想」と区別される形で、社会政治的次元から芸術的次元までを「セオリー」の名のもとに思考する文化がアメリカに生まれたのは、この時期のことである。ジルベール・ロトランジェは次のように述べている。

セオリーは既にアメリカに存在していたが、それはより実践的な形態であった。実際、Semiotext(e)によってアメリカで出版された最初のフレンチ・セオリーの本は、ジョン・ケージの本だった。フランスの哲学者-音楽学者のダニエル・シャルルは、ケージとともに英語でのインタヴュー集を作り、それは1976年に『小鳥たちのために』(For the Birds)というユーモラスなタイトルでフランスにて出版された。しかし、シャルルはオリジナルのテープをなくしてしまったので、わたしはフランス語からそれを再び翻訳してもらった。この奇妙な雑種、自身の言語のうちにいる異邦人は、完璧にアメリカのセオリーのパラドックスを具現化していた。フレンチ・セオリーの、私が好む一種のフレンチ・セオリーの最初の本はアメリカのものであった。シャルルの問いはもちろん、フランスの哲学によってされていたが、ケージの解答は、私たちを既に別の次元へ連れて行っていた。すなわち、彼らにとってセオリーであるものは、音楽にとってのノイズと同等であると。〔……〕あなたがいったん音楽的な精神でノイズに注目すれば、いかなるノイズも音楽的になる。これこそが私が「セオリー」との関係で試みたことである。(※2

このようにロトランジェはフレンチ・セオリーが当時のアメリカにおける芸術実践と密接な関係にあることを強調する。ジョン・ケージのようなポストモダニズム芸術の特徴とは、ある特定の芸術を支えている制度的枠組みの存在そのものを、何らかの方法によって表現し見えるようにすることで、芸術に対する存在論的な基盤を問いに付すところにあったが、ロトランジェが考える「セオリー」とはこのような芸術実践にも近いものであろう。

ロトランジェがSemiotext(e)を始めるときに考えていたことは、いわゆるフーコーやドゥルーズの思想のラディカルさと、アメリカのポストモダン芸術の実践のラディカルさ、そして、「リベラル」には回収できないカウンター・カルチャー的な抵抗のラディカルさを同一線上に乗せ、交錯させるということであった。

ロトランジェのこの方向性が象徴的に打ち出されたのが、1975年11月に4日間にわたって行われた「スキゾ・カルチャー」カンファレンスである。フランス側からは、ミシェル・フーコー、ジャン=フランソワ・リオタール、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリが登壇した。その他の登壇者は、ジョン・ケージ、ウィリアム・バロウズのような芸術家をはじめ、ウェザー・アンダーグラウンドのメンバーである活動家ジュディ・クラーク、TI・グレイス・アトキンソンのようなフェミニスト、精神分析医であるロナルド・D・レインなど、多方面から集まり、参加者は数百を超えたと言われている。主な論題は、精神医学と社会統制の関係や、監獄についての理論であり、貫いてあるテーマは「狂気」と「投獄」であった。このカンファレンスのパネルの組み方から推測できることに過ぎないが、ロトランジェの狙いは、フーコー、リオタール、ドゥルーズ、ガタリを一つのグループとみなし教えを聞くということではなく、フーコーとジュディ・クラーク、ドゥルーズ/ガタリとレインなど、関心を共有するもの同士を直接に話し合わせ、交流を持たせることであった。

「スキゾ・カルチャー」はコロンビア大学内の巨大な講堂で行われたが、実質的にはアカデミックなものではなく、フーコーの言葉を借りれば「最後の60年代的カウンター・カルチャーのイヴェント」(※3)だった。ロトランジェは、「68年5月の亡霊がコロンビア大学の講堂のまわりに疑いなく漂っていた」(※4)と述べているが、これは良くも悪くもそうだったようだ。TI・グレイス・アトキンソンがレインと対談するドゥルーズとガタリを「男根中心主義者」と侮蔑し水をさしたり、リンドン・ラルーシュが指導する革命組合員には、フーコーがCIAに買収されていると言いがかりをつけられたりと、混乱も相次いだようだ(※5)。そのことでロトランジェはフーコーやドゥルーズたちに激怒されたようである。

しかし、この件でロトランジェは「スキゾ・カルチャー」が失敗したとは考えていないようである。フランスとアメリカの知的土壌に連続性を構築することが彼の使命であると考えていたからであろう。しかしながら、三年後ロトランジェがフレンチ・セオリーの仕事とバロウズの仕事を直接に対峙させるため「ノヴァ・コンベンション」を立ち上げたとき、四人のフランス人は招待を断ってしまった。ここで、理論と政治的対話のうちに直接的な連続性を構築しようとするロトランジェの試みは、影をひそめてしまう。

80年代初期のロトランジェの活動で特筆すべきことは、ニューヨークの出版会にSemiotext(e)とAutonomediaという合併出版組織が登場したことである。この設立は、ブルックリンのウィリアムズバーグでアウトノミアや地元の活動家のテクストの紹介を中心にマイナーな出版活動を開始したジム・フレミングとロトランジェとの出会いによっている。ここから出版されることになるのが「フォーリン・エージェント」シリーズという「フレンチ・セオリー」の紹介本であった。ボードリヤールについて書かれた『シミュレーション』、ポール・ヴィリリオのインタヴューをまとめた『純粋戦争』、そして、ドゥルーズとガタリのテクストを抜粋編集した『オン・ザ・ライン』がはじめに出版された。「フォーリン・エージェント」シリーズについては次のように言われている。

後、1983年に「フォーリン・エージェント」という小さなセオリーの本が加えられ、それらは、黒い表紙と小さなサイズという点で同じラインに沿っている本だと認知された。──「あの理論を奪え!」。それらは若い指導力のために作られたために、価格に関してもまた盗品であった。その思想は、より厳かでないセオリーをつくることであり、それは一種のハウツー本のように読まれ得るなにかであり、己の知性を用いて考える方法、婦人の私室のための哲学であり、短くも、強烈に焦点が合わされたものであった。思考をエロティックにする方法、思考を感覚の快楽にせよ。人々はそれらを、騒音と中断に囲まれながら、地下鉄のなかで立って片手で読んだだろう。あるいは、彼らはそれをニューヨークのダウンタウンクラブに持ち寄り、ホットなパッセージを探すのにパラパラめくるのである。これらの本は、セオリーが今までに出来たことを超えて、拡大したのである。(※6

「フォーリン・エージェント」シリーズは、高祖岩三郎によれば、当時の「巷の光景の一部となっていた」ようだ(※7)。彼によれば「D/Gの名はここから巷に広まっていった。このジャーナリズムは、学者世界を超えてスクワッター運動、マイノリティ運動、ゲイ/レズビアン運動、新たな画廊シーンが交差するイースト・ヴィレッジの政治/文化と呼応し浸透していった。これがニューヨークの活動家世界とドゥルーズの出会いの始まりであった」。「リトル・ブラック・ブックス」と呼ばれたこの書籍は、大衆と大学人という二つの階層に連続性をもたらすことを目指し、一般には高額な哲学関係の翻訳書とは異なり、価格設定を低くしたため多くの購買者層を獲得することに成功したようである。しかも、これが大学などの援助を一切受けない形で行われたため、雑誌の制度からの独立性は常に保たれていた。

このようにロトランジェは、アメリカで「フレンチ・セオリー」という文化を作り上げた主要人物の一人であるが、彼のこのような活動は、T・Sエリオットが、詩が文化のなかで目立ちすぎていると述べていたことに着想を受けているようだ。すなわち、ロトランジェが目指したことは、都市生活のなかで「セオリー」が「気づかれなくなる(becoming imperceptible)」ことであった。

というわけで、わたしにとってフレンチ・セオリーがフランス的なものとして、そして理論としてさえ、「パッケージ化」されるのをやめて、アメリカ的なものになることはとても重要なことだった。アメリカ的という語によって、私は一般にこの語によって理解されるものを意味していない[……]。反対に、フレンチ・セオリーにとって、アメリカにおいてアメリカ的になることとは、ただ一つのことしか意味しない。すなわち、「気づかれなくなる(becoming imperceptible)」ことである。(※8

ロトランジェは、分断してしまった諸領域に「連続性の再構築」を施すため、科学的な意味でも哲学的な意味でもない「アメリカン(American)」な「セオリー」というあり方を展開させたのだった。しかしながら、そこで目指されたものが「連続性の再構築」だったとしても、それは例えば大衆と大学人とのあいだでの対話の活性化といったようなことが目指されていたのではなかった。「セオリー」は、しかじかの主義と主義の間に「連続性の再構築」を施すが、それによって私たちが手に入れるのは、さまざまな「~主義」、「新~」、「ポスト~」の一覧表ではなく、ケージの「非-音楽」がもはや「音楽」とは思われないように、もはや「セオリー」とは思われないようなものであり、あるがままに認識可能なものではない。それは例えば、1966年10月18日から21日の間、ボルチモアのキャンパスにて行われた「批評の言語と人間の科学」という国際シンポジウムに出席した誰もが、その当時は、何か新しいものが生まれていることに気づいていなかったということと同じである。ロトランジェの試みを見てきたわれわれは、この例に「スキゾ・カルチャー」や「フォーリン・エージェント」を加えることができるだろう。80年代以降のニューヨークで、「哲学者」であるドゥルーズやガタリに影響を受けたミュージシャン、アーティスト、活動家たちが少なからず現れていること、これこそが科学的な意味でも哲学的な意味とも異なる形で言われる、アメリカの「セオリー」のひとつの意味なのであるといえるのではないだろうか。

渡邊雄介(早稲田大学)

[脚注]

※1 フランソワ・キュセ『フレンチ・セオリー アメリカにおけるフランス現代思想』、桑田光平ほか訳、NTT出版、2010年、五二頁。

※2 Sylvére Lotringer "Doing theory", French theory in America, Routledge, 2001, p.126.

※3 Sylvére Lotringer "Doing theory", art. cit., p.140.

※4 Sylvére Lotringer ,"Introduction to Schizo-Culture", Semiotext(e) Foreign Agents series, 2013, p.10.

※5 キュセ、前掲邦訳、五三頁。

※6 Sylvére Lotringer "Doing theory", art. cit., p.128.

※7 高祖岩三郎「巷のドゥルーズ――あるいは「活動」から「運動」への途」、河出書房新社編集部編『ドゥルーズ 没後十年、入門のために』、河出書房新社、二〇〇五年、一〇三頁。

※8 Sylvére Lotringer "Doing theory", art. cit., p.128.