第10回研究発表集会報告 企画パネル「「音と聴取のアルケオロジー」再論

第10回研究発表集会報告:企画パネル「「音と聴取のアルケオロジー」再論|報告:

2015年11月7日(土) 16:00-18:00
東京大学駒場キャンパス21KOMCEE(East 2F-212)

企画パネル:「音と聴取のアルケオロジー」再論──「聴覚性」批判からの展望

福田裕大(近畿大学)
金子智太郎(東京藝術大学)
榑沼範久(横浜国立大学)

【司会】福田貴成(中部大学)

本パネルは、『表象09』の特集「音と聴取のアルケオロジー」を受けて企画されたものである。副題にあるとおり、ここでの狙いは「聴覚性(aurality)」という概念の検討を通じて、聴覚・音響文化研究の今後のあり方を批判的に展望する、という点にあった。上記特集の討議「聴覚性の過去と現在」において確認された、この概念と「聴覚(hearing)」との歴史的・文化的にねじれた関係を出発点として、背景を異にする三人の研究者からの問題提起をもとにして議論が進められた。その結果として、当初の出発点である「「聴覚性」批判」という文脈をよい意味で逸脱する議論を展開することが出来たように思う。論点の先取りになるが、そこで重要な役割を果たしたのは、上記『表象09』にも翻訳論考を掲載したカナダの音響研究者ジョナサン・スターンの仕事、とりわけこのパネルの直前に訳書の刊行された『聞こえくる過去──音響再生産の文化的起源』(中川克志・金子智太郎・谷口文和訳、インスクリプト、2015年)におけるいくつかの論点そして議論の方法である。折にふれスターンの議論を参照しながらなされたパネリスト三者三様の問題提起を、以下に確認していこう。

最初の提題者である福田裕大は、みずからの専門であるフランス文学研究とりわけシャルル・クロ研究との関連においてスターンの仕事がもたらしたインパクトを語ったうえで、彼の仕事の面白さを、聴覚的経験の歴史化、具体的な史料調査に基づく歴史的状況の把握、そしてその具体性がゆえのローカルな地域限定性に見出した。彼はこのローカル性をとりわけ強調する。福田によれば、ローカル性とは決してネガティヴに捉えられるべきものではない。それは、読者がおのおのの「ローカル」な状況において具体的な調査研究を発展させうる「空隙」や「外部」をもたらしうるという点でポジティヴに捉えうるものであり、したがって「スターンを「使う」のではなく、スターンのように調べて考えること」こそがこの著作の可能性である。そのような認識を示したうえで彼は、19世紀後半のフランスというローカルにおける「聞こえくる過去」のありようを、エティエンヌ=ジュール・マレーのグラフ的記録装置や象徴主義詩人の「自由詩」運動、そしてシャルル・アンリによる科学的美学の例を挙げながら示してみせた。既存のメディア技術的分断を乗り越えつつ彼が示してみせたのは、いわば「空隙」探求の模範演技と言うべきものであり、シャルル・クロという19世紀フランスの詩人かつ科学者の研究を長年積み重ねてきた氏の面目躍如と感じた。

続いての金子智太郎は、今回のパネルのテーマである「「聴覚性」批判」にとりわけ照準をあわせた提題を、やはりスターンの議論を参照項としつつ展開した。彼の主要な問いは「聴覚性」あるいは「聴覚文化」を論じることの意義とは何なのか、ということである。つまり──「視覚性」「視覚文化」といった先行する思考を暗に参照しながら──これらを概念化することに、単なる考察対象の拡大以上のメリットを見出せるのか。金子は、特にスターンの「視聴覚連禱」批判、すなわち歴史性を排除して視覚と聴覚との本質主義的な対比を強調する思考への批判を梃子としながら、今後の「聴覚性」の議論においてはその歴史性を見定めていくことが肝要であり(その点で視覚・聴覚の対比の存在自体を否定するものではない)、またそこから諸感覚間の関係性の構築の系譜を捉えゆくことの重要性を強調した。さらに、聴覚文化研究が本質主義批判を媒介としてフェミニズムやオリエンタリズム研究と結びつくのでは、という展望も語られたが(これは金子の翻訳によって『表象09』に掲載されたファイト・アールマンの論考を踏まえてのものである)、そうしたアナロジーがもし過度なものとなるとすればやや危険ではないか、と筆者は思う。とはいえ、サウンド・アートといういわば音楽の周縁あるいはオルタナティヴを長く研究してきた金子ならではの指摘であることは確かであり、聴覚・音響文化研究が不要な縄張り意識などに囚われず、ひろがりをもった営みとして存続してゆくためのひとつの提案として受け取ることは可能であろう。

最後の提題者は榑沼範久である。このパネルへの彼の参加を依頼したのは筆者であるが、その底意には、榑沼がハル・フォスター編『視覚論』(平凡社、2000/2007年、原書は1988年)の訳者であり、いわゆる視覚文化論の文脈から聴覚・音響文化研究の展望を批判的に検討してもらいたいという思いがあった。しかし、発表の冒頭で彼はみずからを視覚文化論の研究者と自任したことは一度もないこと、またまさに音響文化に関わる研究を残してきたことを確認したうえで、よい意味で期待を裏切る提題をおこなった。「スターンによる聴覚(hearing)/聴取(listening)の区分を更新する」というタイトルで展開されたのは、スターンが『聞こえくる過去』において──おそらくはなかば戦略的に──採用した聴覚と聴取の区分、すなわち前者を自然へ、後者を文化へと割り振る二元論的な思考の批判的検討と、その乗り越えのためのひとつの方策の提示である。スターンの聴覚/聴取の二元論とは、スターン自身の言葉によれば「いくらか人間中心の立場」からのバイアスに基づくものであり、それ自体とうぜん無謬のものではない。ではそれをどのように更新するのか。榑沼は「二つの概念の分割線を変えること」を提案し、ジェームズ・ギブソンによる聴覚システム論を参照する。「音の知覚には、聴覚〔聞こえること〕だけでなく、聴取が伴われている」とし、また空間内を行為する身体の存在を重視するギブソンの聴覚システム論においては、自然/文化という区分が採用されることはない。さらに言えば、実験空間的な限定状況を前提とする聴覚こそが人工的・文化的とも捉えられうる。こうしたギブソンの思考のうちに、榑沼はスターン的二元論を「緩める」可能性、すなわち自然と文化の相関関係を捉え直す契機を見出す。身体をも組み込んだ聴覚システムの作動とは、スターンが強調するモース流の「身体技法」すなわち「文化」をもおのずとそこに含み込むものであり、その意味でギブソンの思考はスターン流の自然と文化の截然たる分節を組み替える可能性を持つのだ。この組み替えをさらにポジティヴに展開する可能性として、インヴァリアントとしての「音響環境」を思考へと組み込むことの重要性を示唆したところで榑沼の提題は閉じられたが、今後の聴覚・音響文化研究を展望するうえで不可欠となるだろう基礎概念の再検討はたいへん有益であった。司会である筆者の進行の不手際もあり、準備された資料の多くが言及されずに終わったのを残念に思う。

このように、三者三様の問題意識が持ち寄られた本パネルは、なにか単一の「「聴覚性」批判」へと辿りつくことはなかったが、それは散漫さとして否定的に捉えられるべきものではなく、ここから展開されるであろう聴覚・音響文化研究の多様な方向を示唆したものとして理解すべきだろう。質疑も活発におこなわれたが、とりわけ大橋完太郎氏からの「視覚の優位性という共有されている前提ははたして妥当なのか」という問いは、司会をふくむ登壇者すべてにとって継続的に参照されるべきものであるように思われた。概念の実体化や硬直した二元論の隘路を周到に避けつつ聴覚・音響文化研究を発展させてゆく、そのために必要なスタートラインが再確認されたパネルであった。

福田貴成(中部大学)

【パネル概要】

今年4月に刊行された『表象09』の特集「音と聴取のアルケオロジー」では、聴覚/音響文化研究の近年の成果が紹介されるとともに、現在の文化・技術・社会状況における「聴覚性」とはいかなるものなのかが討議された。そこで確認されたのは、「聴覚」という固有の感覚における経験のみを思考の対象としても「聴覚性の現在」は掴めないのではないか、という問題意識である。折しも本年は谷口文和・中川克志・福田裕大『音響メディア史』(ナカニシヤ出版、2015年)そしてジョナサン・スターン『聞こえくる過去』(インスクリプト、2015年)など聴覚/音響文化に関わる邦語出版が相次いでいるが、これらの著作もまた、歴史に取材しながら「聴覚性」なるものの姿を多面的に検討したものと捉えることが出来るだろう。

本パネルでは、上記諸著作の狙いを著訳者らと再確認しながら、いまだ輪郭の曖昧な「聴覚性」概念の批判的検討をおこない、それを通じてこの研究分野の今後の展望を試みたい。