小特集 各国の出版事情 イタリア

イタリアにおける人文系出版雑観
岡本源太

人文主義と文献学の発祥地たるイタリアは、出版に関しても周知のごとくインキュナブラ以来の長い伝統をもつ。もちろん直接にルネサンスへと遡りはしないが(たとえばルネサンスの出版印刷業者Giunti家は現在のGiunti出版社にまでそのまま連綿と続いてきたわけではない)、人文学研究者にとってはUTET(1791年創業)やLeo S. Olschki(1886年創業)のような老舗出版社、または『Nuova Antologia』(1866年創刊)や『La Cultura』(1881年創刊)といった長寿雑誌がすぐに思い起こされるところだ。

その一方で、各都市がそれぞれ独立した個性を有するイタリアのこと、出版社も雑誌も往々にして、おのおのはっきりとした傾向を示している。悪く言えば、人脈や学派によって棲み分けがあり、出版地の周囲にしか流通しないことさえある。内輪に閉じていると言えば、そうかもしれない。けれどもそれが逆に、イタリアの人文学研究に多様な発想、意外な視点、堅固な伝統を保証しているようにも感じられる。出版される学術書の点数は、あくまで印象論ではあるものの、イタリアには日本の半分の人口しかいないことを思えば、相当のものだ ※1。なにもMondadori(1907年創業)、Feltrinelli(1954年創業)、Laterza(1901年創業)、Bompiani(1929年)、Einaudi(1933年創業)のような大手ばかりでなく、Mimesis(1987年創業)、Quodlibet(1993年創業)、Nottetempo(2002年創業)といった小規模の出版社からの新刊も絶えることがない。まるで雑誌のように学術書が次々と出版されていると言うべきか。

もともとフットワークの軽い媒体である雑誌は、「文芸共和国」と呼ばれた17・18世紀の国際的学術ネットワークを支え、20世紀前半には、イタリアでも哲学者ベネデット・クローチェとその雑誌『La Critica』(1902〜1944年)の影響力にうかがえるように、政治的かつ文化的な駆け引きの主要舞台となった。戦後も、今日まで続く『aut aut』(1951年創刊)のような思想誌もあるが、それ以上に無数の雑誌が次々と生まれては消えながら、多様化というかたちでイタリアの学術環境を活性化してきた。近年のDTPや電子出版の導入は、率直に言って、そうした流れを継承しこそすれ、変革したようには思われない。

対して、イタリアで人文学研究の状況を大きく変えつつあるのは、デジタル・アーカイヴの整備・公開のほうだろう。イタリアはヨーロッパの古典と歴史の一大中心地であって、厖大な知が古文書として眠っている。ヴァティカン教皇庁図書館蔵書のデジタル化プロジェクト「DigitaVaticana」は、NTTデータとの協業ということで日本でもニュースになったから、知っている人も多いかもしれない。ローマやフィレンツェにある国立図書館の蔵書のデジタル化も、Google社によって進められているという。そこまでの規模のものでなくとも、イタリア版青空文庫の「Progetto Manuzio」も着々とタイトル数を増やしている。かつては本文校訂を経て出版されないかぎり容易に手に取れなかった文献が、電子データというかたちではあれオンライン上で簡単に参照できるとすれば、その学術的意義は大きい。ことによると、以前は数十年がかりで調査せねばならなかった文献群を、いまや一晩で検索できてしまう。

とはいえ、それは扱える情報量が豊富になったというばかりではない。人文学者にとって研究の厳密さのために文献学的な基礎がいっそう必要になったことでもあるだろう。電子データは、もとの文献から言語情報のみを抽出してしまうきらいがある。とすれば、言語からは欠落してしまうものを補完し、言語にならないものを読解する術がなければ、実は扱える情報の多様性がかつてよりも貧困になってしまう。その術は、はたして「デジタル人文学」と呼ばれるべきものだろうか、もしくはかえって古典的な読解の技法のさらなる洗練なのだろうか。

ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの対談は、邦訳では『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』と題されていたが、イタリア語のタイトルは『書物から解放されたいなんて思わないで』というものだった。電子化の進展によってイタリアの人文学、ひいてはヨーロッパの人文学は、書物から解放されるどころか、ふたたび古典を取り戻しつつあるのかもしれない。

岡本源太(岡山大学)

[脚注]

※1 なお参考までに下記の調査報告を参照してみると、2008年時点のイタリアは、出版社数が約2,900社、新刊点数は約66,000点、対する同年の日本は、出版社数が3,979社、新刊点数は76,322点だという。
・文部科学省生涯学習政策局生涯学習推進課『平成23年度「生涯学習施策に関する調査研究」読書環境・読書活動に関する諸外国の実態調査報告書』、2012年3月
・冬狐洞隆也「出版社数と書店数の推移 1999年〜2013年」、日本著者販促センター
・日本著者販促センター「新刊点数の推移(書籍)