第9回研究発表集会報告 企画パネル2:石岡良治『視覚文化「超」講義』を読む──マンガ研究との接合面

第9回研究発表集会報告:企画パネル2:石岡良治『視覚文化「超」講義』を読む──マンガ研究との接合面|報告:星野太(東京大学)

2014年11月8日(土) 14:45-16:45
新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F275教室

企画パネル2:石岡良治『視覚文化「超」講義』を読む──マンガ研究との接合面

石岡良治(跡見学園女子大学)※遠隔参加
中田健太郎(日本大学)
三輪健太朗(学習院大学)

【司会】星野太(東京大学)

石岡良治、中田健太郎、三輪健太朗の三氏による本パネルは、石岡良治『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社、2014年)の書評パネルとして企画されたものである(*以下敬称略/石岡は遠隔参加)。とはいえ、同書において意図的に言及が控えられていた「マンガ」というジャンルにあえて光を当てた本パネルは、これまで本学会で開催されてきた同様の書評パネルとはやや方向性を異にしていたと言えよう。つまり本パネルでは、『視覚文化「超」講義』という著作そのものの書評から出発しつつも、同書においては不在であった「マンガ」をめぐる問題系へと議論を拡張することが最終的には目指されていたのである。

簡単に振り返っておけば、石岡の『視覚文化「超」講義』は、1「カルチャー/情報過多」、2「ノスタルジア/消費」、3「ナラティヴ/ヴィジュアル」、4「ホビー/遊戯性」、5「メディエーション/ファンコミュニティ」と銘打たれた五つのパートからなっている。本書で比較的多くのページが割かれている『バック・トゥー・ザ・フューチャー』三部作をはじめ、個々の作品分析も際立ってはいるものの、本書の最大の魅力が絵画、文学、映画、アニメ、ゲームをはじめとするさまざまな対象の横断性にあることは一読して明らかである。

本パネルでは、最初に中田健太郎(日本大学)が「マンガ論として読む『視覚文化「超」講義』──マンガにおける「ノスタルジー」について」と題する発表を行なった。そこでまず中田は、同書における石岡の批評倫理に——本人についての私的な回想も交えつつ──言及する。つまり、さまざまなカルチャーを分け隔てなく受容するという同書の姿勢には、今日の情報過多時代におけるひとつの「批評倫理」のあり方が見て取れる。そのことを確認した上で、中田はシュルレアリスムをめぐる諸問題を経由しつつ、同書をマンガ論として読む可能性を提起する。メディウムの純粋性を志向する傾向の強いモダニズムの批評基準において、シュルレアリスム美術はしばしばキッチュなものとして批判の対象になりやすい。それはシュルレアリスム美術において、物語性/視覚性という二つの側面が混在しており、それによってハイカルチャー/ポピュラーカルチャーという二つの次元がいともたやすく通底してしまうからだ。しかし裏返して言えば、それはシュルレアリスム美術において、この両者を連続的に考える契機が含まれていることの証左にほかならない。「ナラティヴ/ヴィジュアル」の重なりに生産的な読解の契機を見る『視覚文化「超」講義』の視座もまた、上記のシュルレアリスム美術と同じく、モダニズム的な歴史観を相対化しうる可能性を秘めたものである。そして何よりも、「ナラティヴ/ヴィジュアル」の重なりを考える上でもっとも重要なジャンルのひとつが「マンガ」であることは言を俟たない。よって、マンガ論として『視覚文化「超」講義』の読むことの可能性は、何よりも同書における「ナラティヴ/ヴィジュアル」の論じ方にこそ見いだされるだろう。

また、中田の発表においては、より具体的な分析例として「マンガにおけるノスタルジー」の問題に話が及んだことも特筆しておきたい。良く知られているように、マンガやその周辺分野では、80年代的な学園ものやキャラクター文化が「ノスタルジー」の対象としてしばしば参照される。つまり、石岡が『視覚文化「超」講義』で提唱した「ノスタルジア」の問題は、マンガというメディアそのものにも見いだされるということだ。その具体例として挙げられた春原ロビンソン『戦勇。』や、九井諒子『竜の学校は山の上』といった2010年代のマンガ作品は、80年代の日本産RPGへのノスタルジーに立脚した作品として、いずれも興味深いものであった。

つづく三輪健太朗(学習院大学)の発表は、『視覚文化「超」講義』で提起されたさまざまな問題系をあらためて取り上げ、そこから視覚文化におけるマンガの位置づけを問うものであった。たとえば、しばしばある種の擬似問題として提起される〈ハイカルチャー/ポピュラーカルチャー〉や〈アート/エンターテインメント〉のような対立に、「レギュレーション」の差異という観点を導入すること。あるいは、後者の対立に「ホビー」というカテゴリーを導入することで、〈アート&エンターテインメント/ホビー〉という見取図を手に入れること。さらにはトッド・ヘインズによるダグラス・サークの再解釈に代表されるような、異なる時代の横断性に着目すること──以上のように、ジャンルや時代を縦横無尽に「超えて」いく態度が『視覚文化「超」講義』の中心にあることをあらためて確認しつつ、三輪は以下に述べるような具体例へと話を広げた。

三輪によれば、『視覚文化「超」講義』における「ノスタルジア」の問題は浦沢直樹の『20世紀少年』などに、「ガジェット」の問題はクリス・ウェアの『ビルディング・ストーリーズ』などに見いだされる。そのような事例からも、マンガという対象を『視覚文化「超」講義』のキーワードによって論じていくことは十分に可能である。しかしそれを踏まえた上で、同時に三輪は「視覚文化としてのマンガ」という前提に対する問題提起を行なう。そもそも石岡が述べているように、仮に「すべてがメディアである」という汎媒介性の立場を取るならば、われわれが「視覚文化」と呼んでいるものは、広義の媒介性(メディエーション)から「視覚」に関わる媒介性を切り出してきたものにほかならない。三輪が指摘するように、おそらくそのような問題について考えるときにこそ、マンガを視覚文化論的に考えることとは別の解釈の可能性が浮かび上がってくる。すなわち、読者がみずからの手でページをめくっていくマンガというメディアにおいてこそ、われわれはそこに見られる──視覚的ではなく──身体的な側面を発見できるだろう。三輪はこのような身体性の問題を、マンガを「描く」という作者側の身体性にも差し向けつつ、その一例として今日マチ子『センネン画報』に石岡が見いだした「可搬性」という興味深い問題にも言及を加えた(『ユリイカ』2013年8月号)。

その後の石岡による応答は、中田・三輪の両氏によって提起された個別的な問題に加えて、マンガをめぐるさまざまな論点を列挙する形式で行われた。そのすべてをここで網羅することはできないが、とりわけそこでは、『バック・トゥー・ザ・フューチャー』におけるデロリアンのような「タイムマシンとしてのガジェット」の問題や、今日マチ子の作品における「色彩」(とりわけ「白」)の問題が示された。三者のそれぞれ濃密な発表に比して、二時間というパネルの時間は短く感じられたが、その限られた時間内でも『視覚文化「超」講義』と現在のマンガ論を接続する可能性はさまざまな次元で見いだされたように思われる。(なお、本パネルの内容については、後日あらためて別のかたちで記録が刊行される予定である。)

星野太(東京大学)

【パネル概要】

今年の六月に刊行された石岡良治『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社、2014年)は、従来の視覚文化論が陥りがちなメディアによる分類を避け、狭義の芸術とポピュラー文化を連続的・横断的に論じた快著である。そこでは、マンガという重要なジャンルにたいして(意図的に)禁欲的な立場がとられていた。しかし、近年のマンガ研究においては、異なるメディアとの比較をふまえた横断的なイメージ論が展開されつつあり、その議論は石岡の著作の問題意識と深く結びあうように思われる。そこで本パネルでは、『視覚文化「超」講義』において提示された「レギュレーション」「ノスタルジア」「ホビー」などをめぐるさまざまな議論をたどりつつ、とりわけマンガ研究におけるそのポテンシャルを見据えながら、同書のさらなる読解を試みる。