研究ノート 河田 淳

イタリア・ルネサンス美術におけるペストからの守護聖人
――その研究の可能性
河田 淳

開いているのか、開いていないのか。固く閉ざされた教会や美術館の扉の前をうろうろしながら、どこかに連絡先が書きつけられていないか探す。ペストからの守護聖人を表したフレスコ画や板絵、ステンダルドと呼ばれる幟を探すために現地に到着するとたいてい、この作業から始めることになる。執筆者は現在、フィレンツェ大学の中世史家アンナ・ベンヴェヌーティ教授から指導を受けながらペストからの守護聖人像の調査に取り組んでおり、イタリア北中部の街や村を頻繁に訪れている。

すべての場所がアクセスしやすいとは限らない。開いている日時について事前にわかればいいのだが実際に行ってみないとわからないことがしばしば。現地に着いた後は駅前にある観光インフォメーションよりも目的地周辺の商店で聞いた方が確実である。運がよければ、さらにそこから人づてに教会の管理者までたどり着くことができることもある。何もわからない場合は日や時間を改めて、もう一度訪れてみるしかない。目的の場所に入れたとしても作品の取材ができるかは別の問題で、可能であれば画家名や作品名、設置場所や大きさ、銘、光の当たり方、由来以外にも加筆や切り落とし、修復の有無などを記録している。これまで見てきた作品の多くは良好とは言いがたい保存状態だったが、翻って礼拝や行列のなかで「使いこまれた」といえる状態だった。

作品の多くは現在ではあまり知られていない画家が描いたものであるため、美的には価値が高くないと判断され、これまでの美術史研究において考察の対象となることは少なかった。しかし、デイヴィッド・フリードバーグやハンス・ベルティング、ピーター・バーグらが着目する視覚イメージの歴史人類学という枠組みにおいてなら、こうした作品群の再評価が可能になる。日本でも水野千依が大著『イメージの地層』で、異教的な慣習や民間信仰を源泉としたイメージがルネサンス文化においても一定の地位や機能をもっていたことを明らかにした。

こうした動向を踏まえ、執筆者は以下の点を中心に研究を進めている。14世紀から16世紀半ばのイタリアで見られるペストからの守護聖人のイメージは、いかなる文化や社会、政治、宗教的なコンテクストのなかで形作られたのか。そのイメージを元にどのような聖人像が制作され、用いられたのか。そして、そのイメージはいかに変化していったのか。

文芸や絵画、彫刻においても様々な技法が生み出され、華やかで煌びやかにみえるイタリア・ルネサンスもつねにペストの影に脅かされており、人々はペストを回避する「力」をもつものとしてある聖人像を民間宗教的に信仰していたのだった。ペストからの守護聖人像を探ることは、ルネサンスに生きた人々の心性をより多角的に考察することにもつながるだろう。

ペストと美術の関係をいかに読み解くか

まずはペストと美術作品という根本的なテーマに立ち戻ってみよう。中世美術史家ミラード・ミースが『ペスト後のイタリア絵画――14世紀中頃のフィレンツェとシエナの芸術・宗教・社会』(1951年) ※1 でこのテーマを論じてから、およそ60年。ペストを機に民衆に強い宗教性が喚起された結果、作品描写が平面的で儀礼的、没個性的なものへと変化したというミースの見解※2 は、現在ではそれ自体としての有効性を失っているといえる。エルンスト・ゴンブリッチ※3 が喝破したように人々が抱いていた感情が鑑賞者にとってわかりやすい形で表されているとは限らないし、ファン・オス※4 が指摘したように研究者の美的嗜好が解釈に読み込まれる危険性も多分に残るからである。ジョルジュ・ディディ=ユベルマン※5 は、ペストがトラウマとして人々の記憶に強く刻まれていた大惨事であるにしても、それは「正確に表象されえない」特徴をもっていることをミースは看過していたと述べている。しかし、こうした反論※6 を受けてもなお、ミースの議論が美術史研究における根本的な問題を浮き彫りにする意義深いものであったことに変わりはない。すなわち、このパンデミックな病は美術作品に何かしらの爪痕を残したのか、そうだとしたら私たちはその痕跡をどのようにして読み取ることが可能なのかという問いである。

行き詰ったかのように見えるこのテーマに対し、美術史家ルイス・マーシャルはミースのような様式論からは距離を取り、別の視点からこの問題に一石を投じようとしている。マーシャルによれば、ペストが流行していた当時、人々が聖人像をして身を守ろうとしていたことを考えるなら、その「心性」はミースの指摘したような「悲観的な精神」とは異なる。人々は施療院をつくり、慈善行為をし、告解や悔悛行列をおこなうことで、神の怒りであるペストから逃れようとしていた。ペストからの守護聖人へ祈りをささげることもまた対策の一つであり、行き詰った現状を打開しようという「積極的な精神」であったという※7

このような作品制作の動機から導きだされたマーシャルの見解は一理あるものの、ミースの議論を反転させたかのような印象がぬぐえず、人々の心性をポジティブ/ネガティブと二項対立的に読み解く危険性をはらむものである。人々の心性は時により複雑に絡み合っているものであっただろうし、作品の背景にあるイメージの源泉や聖人像の形成の経緯、聖人像の社会的機能に着目すべきである。聖人像に「ペスト除け」の機能があると根拠づけていた論理にこそ目を向けるべきであろう。

ペストからの守護聖人のイコノロジー

『イリアス』冒頭でも記されているように、古典古代では突然の死をもたらす疫病は神罰とみなされ、天から降り注ぐ矢として記されていた※8 。ユダヤ・キリスト教の文脈でも神罰たる疫病の象徴は刃のある武器とされており、1347年以来、ペストが18世紀までおよそ二年から二十年の周期で猛威を振うなかで※9 、この病もまた神罰の矢として表わされるようになったのだった。

ペストからの守護聖人としては、聖母やセバスティアヌス、ロクスが信仰を集めていた。セバスティアヌス像については石坂尚武が体系的な研究が進めている※10 。ここでは聖母とロクスを取り上げ、ペストからの守護聖人像を表した作品が持つ特徴について述べたい。

初期キリスト教時代から厚く信仰されてきたマリアがペストからの守護聖人として形づくられていった経緯を明らかにするために、これまで執筆者は《慈悲の聖母madonna della misericordia》図像の変化を追ってきた※11 。《慈悲の聖母》図像は元来、外からの脅威に対して人々に安全な避難所を与える仲裁者としての姿を表したもので、聖母が足元にひざまずく人びとをマントで包みこむ形をとるものであった。しかし、ペストが流行した後には、聖母が人々を天から降り注ぐ神の矢からマントで守りつつ、神へ執りなすものとして、この図像は作り替えられていった。

その一例として、ベネデット・ボンフィーリ※12 によって1464年に制作された幟旗(図1)をみてみよう。この作品は、1464年7月にペルージャの街でペストが流行した際、同地のサン・フランチェスコ・アル・プラート教会を拠点にしていた信徒会が注文したものである。

まず目に入るのは画面中央に位置する、一際大きなマリアである。マリアはマントを広げ、そのなかに多くの信徒たちを受け入れている。信徒はマリアの左右に男女にわかれて整然と並び、祈りを捧げる姿で表わされている。その上部では、右脇腹から血をしたたらせたキリストが人々にめがけて矢を放っているが、マリアの右肩に二本、左肩に一本の折れた矢が確認できることから、その矢が人びとへ届くことがないとわかる。キリストの左右にはそれぞれ天使が一人ずつおり、画面左側の天使は鞘から剣を抜き、右側の天使は剣を鞘へとおさめている。画面下部には、暗雲立ち込め、穏やかならぬペルージャの街が描かれている。街はペストの擬人像によって脅威にさらされ、画面左側の城門からは一家が、右側の城門からも槍を持った青年二人が街を後にしようとしており、城壁の外には土気色の顔色の犠牲者たちが物言わずに横たわっている。しかし、ラファエルの名が光輪に刻まれている天使が、今まさにペストの擬人像を打ち倒そうとしている。こうした表現からは、神の怒りが正当ではあるものの将来的にマリアのとりなしによってこの街が救われることが暗示されている。

この作品がペスト終息を祈願する、もしくは感謝する行列で掲げられることで、マリアこそがペストから自分たちを救ってくれる存在だという考えを人々が固めていったことは想像に難くない。マントの内側に整然と並ぶ信徒たちは、マリアの慈悲にかなう理想的な信徒像としてとして見るものの目に映っただろう。人々の生はマリアの慈悲のうちへと囲い込まれていたのである。

一方のロクスは、ペストが流行した後にその信仰が形づくられていった聖人で、ペスト患者をはじめとする病人や巡礼者、墓掘り人夫を守護するとされていた。その最大の特徴は、ロクス自身がペストの患者かつ治療者であるという点にある。ロクス信仰の拡大と軌を一にする14世紀後半から15世紀にかけて、イタリアでは各地で施療院が組織され、世俗中心の慈善行為が称揚されるようになった。ペストが流行するなかで慈善活動を行っていた信徒会にとって、ロクスは信徒たちがみずからを投影する像として機能したのである。

作品上では、ロクスはゲートルを下げ、服の裾をめくりあげて、ペスト痕を強調することで「患者」としての側面を強調している(図2)。ペスト痕がどちらの足に描かれるのかという点は明確に定められていることはなく、画面上の配置に応じて、執りなす対象である神と観る人々へとよりアピールしやすい足に表わされている。他者があまり目にすることのない太ももにある傷をあえて見せるというこの身振りは、観者に対する親密さの表れでもある。この親密さの表れを身振りで表わすということは《慈悲の聖母》図像においても、マントの内側に信徒たちを受け入れるという点にみられる。ペストからの守護聖人像を表した作品では、聖人と観者との距離が特別近いものであるという雰囲気をつくりだすことも重要だったといえるのである。

聖母やセバスティアヌス、ロクス以外にも、ごく一部の団体で一定期間だけペストからの守護聖人とされたものたちがいたことも忘れてはならない。今後は、アウグスティヌス会士であったトレンティーノのニコラウス(図3)に焦点を当て、ペストが流行する以前にこの世を去ったこの聖人がどのようなストラテジーのもとペストからの守護聖人とされたのかを探っていく必要がある。こうしたペストからの守護聖人像の生成変化をたどることは、人々がこの病をいかに捉えていたのかということを明らかにすることにもつながるだろう。

河田淳(京都大学、フィレンツェ大学)

[脚注]

※1 M. Meiss, Painting in Florence and Siena after the Black Death, Princeton, 1951. ミラード・ミース『ペスト後のイタリア絵画――14世紀中頃のフィレンツェとシエナの芸術・宗教・社会』中森義宗訳、中央大学出版部、1978年。

※2 同掲書、1978年、120-121頁。

※3 E. H. Gombrich, "The impact of the Black Death", Journal of Aesthetics and Art Critivism, XI, 1953, pp. 415ff. [現在はId., Reflection on the history of art, Oxford 1987, pp. 42-45に所収]

※4 H. van Os, "The Black Death and sienese painting: a problem of interpretation", Art History, Sept. 1981, pp. 237-249.

※5 G. Didi-Huberman, «Feux d’images: Un malaise dans la representation au XIVe siècle», in M. Meiss, La peinture à Florence et à Sienne après la peste noire, traduit par D. Leu Bourg, Préface de G. Didi-Huberman, Paris, 1994, pp. IX-IL.

※6 これらの議論は、岡田温司「第3章 ペストと美術――14世紀のトラウマとその徴候」『ミメーシスを超えて:美術史の無意識を問う』勁草書房、2000年に詳しい。

※7 Marshall, Louise. "Manipulating the Sacred: Image and plague in Renaissance Italy", Renaissance Quarterly, Vol.47, No.3, 1994, pp. 485-532.

※8 ホメロス『イリアス』第一歌や『聖書』「民数記」22編23節、「詩篇」18編15節、35編3節などを参照のこと

※9 ペストの流行に関しては以下を参照のこと。E. Carpentier, «Autour de la peste noire: Famines et épidémies dans l’histoire du XIVe siècle», Annales ESC, 1962, no 6, pp. 1062-1092: Robert S. Gottfried, The Black Death: Natural and Human Disaster in Medieval Europe, London, 1983, 9: Smuel K. Corn, Jr., The Cult of Remembrance and the Black Death: Six Renaissance Cities in Central Italy, Baltimore &London, 1992, 5.

※10 セバスティアヌスについては石坂尚武氏の論文に詳しい。石坂尚武「西欧の聖人崇拝のあり方と疫病の守護聖人セバスティアヌス」『説話・伝承学』説話・伝承学会、16、52-73頁、2008年など

※11 拙稿「ペスト流行期の慈悲 : <慈悲の聖母>のイコノロジー」『人間・環境学』、京都大学大学院人間・環境学研究科、20、27-37頁、2011年

※12 ベネデット・ボンフィーリ(c. 1420–1496)はドメニコ・ヴェネツィアーノをはじめ、ベアト・アンジェリコやジェンティーレ・ダ・ファブリアーノなどから影響を受けたとされている。ヴァチカン宮殿の装飾事業にも関わったが、おもに生地であるペルージャで活躍し、地域の団体から数多くの注文を受けていた。

図1 ベネデット・ボンフィーリ≪サン・フランチェスコ・アル・プラートの幟旗≫1464年、290cm x 180cm、板にテンペラ、サン・ベルナルディーノ礼拝堂、ペルージャ

図2 バルトロメオ・デッラ・ガッタ≪アレッツォの街に罰を下すキリストに執り成しの祈りを捧げるロクス≫1470年代、板にテンペラ、185cm x 74cm、国立中近世博物館、アレッツォ

図3 ビッチ・ディ・ロレンツォ≪エンポリの街をペストから救うトレンティーノのニコラウス≫1445年、板にテンペラ、150cm x 64cm、参事会教会付属美術館、エンポリ