第8回大会報告 企画パネル

企画パネル:加藤有子『ブルーノ・シュルツ――目から手へ』(第4回学会賞受賞作)を読む|報告:岡本源太

2013年6月30日(日) 14:00-16:00
関西大学千里山キャンパス第1学舎3号館:C303教室

企画パネル:加藤有子『ブルーノ・シュルツ――目から手へ』(第4回学会賞受賞作)を読む

阿部賢一(立教大学)
加藤有子(東京大学)
西成彦(立命館大学)
【司会】松浦寿夫(東京外国語大学)

今回の企画パネルでは、第4回学会賞受賞作の加藤有子『ブルーノ・シュルツ――目から手へ』の合評がおこなわれた。20世紀前半のポーランドのドロホビチ(現ウクライナ)に生きたブルーノ・シュルツ(1892−1942)は、「僕」(ユーゼフ)とその父たる生地商ヤクブを中心にした短編小説群、および矮躯の男性が若々しい女性の足下に傅くマゾヒズム的な場面が描かれた絵画作品群を残している。このたびの受賞作のなかで加藤有子氏は、作品内のモチーフをシュルツ自身の性癖に還元してしまうことも、逆に作品を現実と隔絶してしまうことも周到に斥けながら、作品の制作と受容に自覚的に向き合った理知的で戦略的なシュルツ像を新たに提示した。そのうえで本パネルでは――資本主義経済をまえにした父の物語、あるいは自己表象の鏡像モデルから表記モデルへの変化などの興味深い問題提起もおこなわれたとはいえ――、シュルツ作品でなによりも主題化されている欲望やセクシュアリティが、あらためて問われたと言えるだろう。

登壇者の阿部賢一氏は、シュルツ文学における視覚の苦痛や剥奪というモチーフの頻出を指摘し、また西成彦氏はシュルツ絵画おける窃視的な欲望の執拗な上演に着目する。作者や読者/観者を巻き込んでしまうような、見ることの力と無力。司会の松浦寿夫氏も示唆したように、ポルノグラフィックな欲望喚起を生み出すのはまさに形式的な操作にほかならないとすれば、シュルツ作品における自己言及的な形式や祖型の反復は、戦略的な自己演出という次元を踏み越えてしまうものでもあるにちがいない。

ジャック・ラカンを引き合いに出すまでもなく、欲望の原因と対象にはつねに齟齬があるにもかかわらず誤認されるのなら、形式と欲望の拗れた繋がりは、ジクムント・フロイトの読者であったシュルツにとっていかなるものだったのだろうか。あるいはシュルツの読者/観者にとっては。他作品の模倣や摂取、あるいは映画・活人画・建築などの他の芸術媒体に向けた関心も含め、形式的な操作が欲望と取り結ぶ関係についてあらためて問題意識を向けさせるパネルであったように思う。

岡本源太(岡山大学)