PRE・face

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ニューメディア時代のメディウム
堀潤之

2009年頃から翻訳に取りかかっていたレフ・マノヴィッチの『ニューメディアの言語』(Lev Manovich, The Language of New Media, Cambridge, Mass.: MIT Press, 2001)が、ようやくこの9月にみすず書房から刊行された。この本には原書の刊行直後から関心を持っており、マノヴィッチの言う「データベース映画」をゴダールの『映画史』と結びつけようとしたこともあった。懇意の編集者に日本語訳の相談を持ちかけたこともあったがその頃はさまざまな事情で実らず、なんとかマノヴィッチの「リアリティ・メディア──DV、特殊 効果、ウェブカム」という別の論考を紹介する機会を得たくらいで(『InterCommunication』50号、Autumn 2004、80-93頁)、その後、しばらくニューメディア研究からは離れていたのだが、みすず書房が版権を取って、めぐりめぐって結局わたしが翻訳を手がけることになったのである。おりしも、ヨコハマ国際映像祭2009でマノヴィッチ氏を招聘し、久保田晃弘氏と北野圭介氏とのパネル・セッション《ハイブリッド・メディアとは何か?――ソフトウェア時代の映像表現》を企画するという機会にも恵まれたのだが、その時点からすでに4年に近い歳月が経ってしまったことを思うと、おのれの仕事の遅さを呪うしかない。

ニューメディア研究の礎を築いたと言ってもいい本書の内容については、多言を要しないだろう。映画研究では、本書でなされる「デジタル映画」の定義――「デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである」――はもはや常識と言ってもいいし、写真史家のジェフリー・バッチェン(“Electricity Made Visible”)も、『映像論序説』の北野圭介も、映画理論家のD・N・ロドウィック(The Virtual Life of Film)も、哲学者のマーク・B・N・ハンセン(New Philosophy for New Media)やアレクサンダー・ギャロウェイ(Interface Effect)も、マノヴィッチに批評的に応答しながらみずからの議論を練り上げているので、それに応じてマノヴィッチの議論の内容も人口に膾炙しているはずだ。これだけ多くの論者がマノヴィッチを叩き台としているのは、本書が特定のわかりやすい理論的立場に基づいているのではなく、ふんだんな具体例に則した厚みのある記述を積み上げていくという性質を持ち、さらなる議論を触発するような細部に充ちているからだろう。あとは、この邦訳によって本書がより広範囲にわたる読者の手に届き、日本でもデジタル映像メディアをめぐる議論がより深められ、さらに別の観点からの議論が生まれていくことを願うばかりだ。

さて、この初夏に関西大学で催された第7回大会のシンポジウム「映像のポストメディウム的条件」にも触発されて、ここで少しばかり検討してみたいのは、マノヴィッチのニューメディア論が「メディア」ないし「媒体(メディウム)」という概念をどうとらえているのかということだ。まず、「ニューメディア」と総称されるものは何であれ、根本的にはデジタルデータから成り立っている(マノヴィッチのいう「数字による表象」の原則)。したがって、どんな外観を取っていようと、それは究極的にはすべてデータの羅列(データベース)にすぎない。マノヴィッチの言葉を借りれば、「ニューメディアはメディアに似ているかもしれないが、それは表面上そうであるにすぎ」ず、両者のあいだには根本的な断絶があるのである(邦訳96頁)。その意味で、「ニューメディア」においては、もはや「メディア」は存在しないとさえ言える。「メディア」と名指されるいかなる外延も、デジタル・データベースの海の中で、ソフトウェアの制御によって定められた仮初めの状態にすぎないのだから。こうした発想からは、既存のメディア論の枠組みを超えて、コンピュータ・サイエンスの助けを借りた「ソフトウェア・スタディーズ」に移行すべきだという主張が導き出される。実際、マノヴィッチは、新著『ソフトウェアが指揮を執る』(Software Takes Command, Bloomsbury Academic, 2013)で、まさしく、情報化社会のあらゆる作用をそもそも可能にしている「ソフトウェア」というレイヤーに注目するという方向性に向かっている。

マノヴィッチには、「ポスト・メディアの美学」と題された文章がある(Lev Manovich, “Post-Media Aesthetics,” 2001)。この文章で、彼は、媒体(メディウム)ごとに個別の美学や構造があるという20世紀的な考え方と手を切って、すべてをデータ、ないし情報の流れとしてとらえることを提唱する。その観点からすれば、文化の分析とは、「情報の振る舞い」を追跡すること、すなわち、ある文化的情報がどのように作り手から受け手に流れていき、そこにどのようにソフトウェアが介在しているかをたどるという作業となる。ここまでは、ニューメディアにおける「数字による表象」という原則からほぼ自動的に導き出される議論であると言ってよい。見逃せないのは、マノヴィッチがそうした見方を過去の芸術にも遡及的に適応すべきだと考えていることだ(「私たちはジョットとエイゼンシュテインを単に初期ルネサンスの画家とかモダニストの映画作家と呼ぶだけでなく、重要な情報デザイナーと呼ぶこともできる」)。つまり、過去のあらゆる芸術作品は、その媒体(メディウム)が何であるかにかかわらず、何らかのかたちで組織化・構造化された情報にすぎないということになる。この発想の行き着く先には、マノヴィッチが「カルチュラル・アナリティクス」と称する、ビッグ・データの分析によって、芸術史のある時期の一定の文化的パターンを見出そうとする現在進行中の試みがある。しかし、過去の芸術作品が単なる「データ」に還元されてしまうとしたら、そうした分析の面白味も半減してしまうだろう。

デジタル時代のパースペクティヴを過去の媒体(メディウム)に遡及的に当てはめるという身振りは、すでに『ニューメディアの言語』で、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929)という特異な「データセット」のうちに、現代のコンピュータ・メディアの主要な「言語」があらかた出揃っているという主張に顔を覗かせていた。こうした発想にとりわけ激しく反撥したのは、美術史家のロザリンド・クラウスらの率いる『オクトーバー』誌である。同誌は100号の序文で、刊行されて間もない『ニューメディアの言語』のプロローグに『カメラを持った男』が使われていることに冷ややかな関心を示し、マノヴィッチの名前を明示的に挙げることなく、ニューメディアの唱道者たちが「映画と写真は――そのインデックス的、アーカイヴ的な特性も含めて――、データベースという超‐アーカイヴ(über-archive)の中でコンピュータと同化していくという道筋の予備的な段階にすぎないと言いつのっている」ことに疑いのまなざしを向けている。つまり、ここでは、デジタル化によって映画や写真が単なるデータに一元化されるという見通しが批判されているのだ。「そのような目的論によっては、映画と写真にとってきわめて重要だったことのほとんどが拭い去られてしまうし、現代の芸術的実践で大いに批評的にみえるもののほとんどは、ちょうどそのような消去に反抗しているのだ」、と(“Introduction,” October 100, Spring 2002)。

だが、マノヴィッチもすべてをデータに還元して事足れりとしているわけではない。彼が新著『ソフトウェアが指揮を執る』で提示する「ハイブリッド・メディア」の概念は、過去の媒体のデータへの一元的な解消にあらがう視点を提供してくれる。マノヴィッチによれば、過去の各々の媒体に独自に備わっていた技法や慣習は、いまやソフトウェア環境に実装されるようになった。だからこそ、デジタルデータをたとえば「映画」や「写真」というメディア・フォーマットに合わせて出力できるわけだが、その段階でのソフトウェア制御の仕方を変えれば、各媒体の構造や言語の次元といった深い水準にまでおよぶようなかたちでメディアの組み替えが行われ、その結果、コンピュータ上ではじめて存在するような、いまだ発明されていない、新種の「ハイブリッド・メディア」が誕生するのだという。もちろん、そのような「ハイブリッド・メディア」とて、データの集合体にすぎないことに変わりはない。しかし、媒体(メディウム)の歴史性がソフトウェアに織り込まれ、さらにそこから生み出される新しいメディアにも谺していくというヴィジョンには、ニューメディア時代にふさわしい想像力で改めてメディウムを考える可能性が孕まれているように思えるのである。

堀潤之


※マノヴィッチの「ポスト・メディアの美学」は、以下のURLからダウンロードできる。http://manovich.net/DOCS/Post_media_aesthetics1.doc

※この文章は、『ニューメディアの言語』の訳者あとがきと部分的に重複していることをお断りする。