研究ノート 佐藤 真理恵

翻訳という螺旋――マウリツィオ・ベッティーニ著『ウェルテレ(Vertere)』に寄せて
佐藤 真理恵

前号でシエナ大学マウリツィオ・ベッティーニ教授の講演会の報告を掲載したが、今回は、この5月に出版された同氏の新刊である『ウェルテレ』を紹介したい。かつて執筆者はシエナ大学古代世界・人類学研究所(Centro AMA)に留学中、研究所のエスプレッソマシーン前でベッティーニと立ち話をしながら翻訳の話題が飛び出すこともしばしばだったが、翻訳をテーマに一冊の本が企図されていたとは、当時の執筆者には考えもつかぬことだった。とはいえ、ベッティーニが以前からとりわけ古代世界における「翻訳」に関心を寄せていたことは、2000年に出版された『ヘルメスの耳』などにも見て取れる。こうした関心の結晶ともいえる本書は、古典文献、言語学や人類学等の興味深いエッセンスが混淆し、芳醇な香り漂う一冊である。

本書はまず、民族や文化によって多様な姿をとる、翻訳なるものの概念を俯瞰することから始まる。たとえば、インドの諸言語で「翻訳」を指す語はそれぞれ、「執拗なまでに丹念に反復する」、「変形しつつ元のままの美を保つ」、「影」、「変形ないし幻像」等を意味するという。これらの概念は、西洋近代的な翻訳の中核にあるオリジナルへの忠実さに対する配慮とは袂を分かつものだ。ベッティーニの言葉を借りれば、「オリジナリティの重要性を逆撫でする概念」である。また、アラビア語でいう「翻訳」とは、特定の発話内容を「解体」し「再び語る」行為から成り立っているという。このような翻訳概念の帯びる性質は、おそらく口承文化および聖典の伝承と切り離せないものであるように執筆者には感じられた。あるいは中国語の一例では、翻訳は刺繍の裏面に譬えられる。原典を別の視点から見たもの、すなわち、原典と同じものではあるが、同時に、原典ほど完全な姿をしてはいないものというわけだ。これらは一例に過ぎないが、いずれの場合も、われわれの共通理解――原典と翻訳は同一かつ均質であるべき(そうあってほしい)という――の再考を促す興味い事例である。

こうした翻訳概念の小旅行を経て、古代ローマ喜劇における翻訳者/仲介者あるいは異邦人の表象、また古代世界の翻訳、解釈、註解をめぐる航路を辿りながら、著者は軽やかに舵を切ってゆく。なかでも興味深かったのは、古代より度々登場する沈黙の取引(silent trade)というモティーフとそこで交わされる「翻訳」をめぐる考察である。執筆者はベッティーニが招聘したイスラエル大学の教授による古代の貿易についての講演会に参加したことがあるが、その際にもこの沈黙の取引に関連するようなテクストが引用されていた。恥ずかしながらその時にはこの主題が見事に翻訳と結びつくとは想像だにしなかった。ここで著者は、(言語を介する)翻訳の不在という局面から、等価のものへの置き換え=交換という翻訳の本質を導き出す。こうした、古典学と人類学を鮮やかに結びつけてみせるあたりも本書の大きな魅力といえるだろう。

また、執筆者自身の研究にとって参照しておかねばならないのが、古典文献の翻訳という項目である。各言語における多様な翻訳概念によって炙り出された、オリジナルとの完全なる一致の不可能性という翻訳の側面は先にみたとおりだが、ここでも著者は、古代ギリシア・ローマ人たちの翻訳――正確には、その翻訳が案出される基盤となった文化的パラダイム――もまた、近代人によって植民地化されたものだと診断している。ギリシア・ローマは、西洋の文化的祖先として、少なくとも西洋の歴史において長らく規範とされ、西洋と切り離すことのできぬものとみなされてきたが、これら古典文献のテクストとその翻訳との関係もまた、多かれ少なかれ表裏一体であるという近代の無意識にメスが入れられる。つまり翻訳をめぐる西洋の近代的考察は、西洋の古代と近代のあいだに横たわる差異をしばしば消去し、両者の差異を浮き彫りにする代わりに古代のパラダイムを近代的なパラダイムのしるしのもとである意味強引に同化してきたということが明るみに出される。留学中、ラテン語文献講読のゼミで、初見でラテン語からイタリア語に淀みなく逐語訳をほどこしてゆく他の学生たちに引き換え牛の歩みでイタリア語訳を進める執筆者に、ベッティーニが「これが古典語の遠さだよ」と励まし(?)の言葉をかけてくれたことが、ふと思い起こされた。当時は皮肉を言われたのだと赤面したが、楽観的に解釈すれば、執筆者は、幸か不幸か字義通り消去しきれぬ古代と近代の亀裂を体験していたともいえるかもしれない。

つづく本書の終盤では、「完全なる翻訳」が考察されている。人間が神について語る古典古代とは反対に神が人間について語るというキリスト教における御言葉の性質に起因する、聖書の翻訳者たちにみられるような原典に対する忠実さや正確さへの腐心、あるいは曲解や誤謬にまつわる不安などが描き出されており、ここにも先にみたような近代のオリジナル信仰の一端が垣間見えるような気がした。マルセル・ドゥティエンヌならば、「同一性というウィルス」とでも名付けただろうか。翻訳からイメージへと題された最終章では、キリストの顔をめぐる議論なども持ち出され、言葉とイメージのあいだの翻訳論が模索されている。

なお、本書のタイトルにも付されているvertere(翻訳する/変化する)という概念は、言表のみならずその発信者自身までもがみずからのアイデンティティを変えなにか別のものに転身する/させられるという翻訳の機能を提示しているという。執筆者にはまた、渦/螺旋のなかでの眩暈を覚えるような戯れ、あるいは翻訳/転身というダイナミックな行為の謂いのようにも思われた。

最後に、翻訳/解釈をめぐるもうひとつの著作も紹介しておきたい。先述のCentroAMAの研究者二名によって刊行された、『アンドレア・グアルナの文法戦争』である。この本は、1511年にイタリアのクレモナで出版された、文筆家・人文主義者アンドレア・グアルナの筆による特異なラテン語教本Bellum Grammaticaleの注釈付きイタリア語訳である。不思議なことにこの書物は、本国イタリアにおいてはこれまでほとんど知られてこなかったものの、出版以来ヨーロッパ中で人気を博し、広範に流布していたという来歴をもつ(さながら『ハリー・ポッター』のごときベストセラーであったらしい。エリザベス一世もご所望だったとか)。著者の一人で、イタリア語訳および膨大かつ仔細な解説を執筆したスヴェトラーナ・ハウタラがフィンランドの母校オウル大学で原典のマイクロフィルムを発見したことに端を発するという本著の出版経緯からも、この書物がいかに広範囲にわたって読者を得ていたかがうかがえよう。

先に、「特異な」ラテン語教本と述べたが、その理由は、上記の流通状況のみならず、その内容が古今東西数多存在する古典語教習本とはずいぶん異なる体裁をとっているという点にある。グアルナは、細かい文法の説明や格変化の規則を解説するのではなく、戦争の寓意を用いながら各々の品詞を戦争絵巻の登場人物として舞台に上げており、一見お伽噺のような構成を用いている。具体的な話の筋としては、「文法 Grammatica」という戦場を舞台に、名詞の王「詩 Poesia」と動詞の王「(私は)愛する Amo」がコミカルに議論を戦わせる様子が、古典文学の伝統たる対話篇の形式をとって展開される。余談だが、この書がものされた16世紀中葉という時代、イタリアは近隣諸国の戦場であり、複数の国に占領され分裂していた。こうした背景もあってか、グアルナは文法という戦場=イタリアにおける諸品詞の覇権争いという軍事メタファーを用い、紙面の上でも戦争を繰り広げた。ただしその「戦争」には、あくまでも自分主義的なユーモラスな雰囲気が立ちこめているのだが。このように、本書は古典語教本という枠組みを逸脱してはいるものの、同時にまた実用的な機能も持ち合わせており、皮肉や冗談を交えて平明にラテン語の各品詞の兵士たちを紹介しつつも随所にプラトンやギリシア悲劇あるいはラテン語の格言などを引用するなど、ラテン語の枠組みと古典教養を習得する意匠が巧みに仕掛けられている。こうした試みには、当時流行していた寓意や、古来より探求されてきた記憶術との関連も指摘できるだろう。

ちなみに、ここで展開されるストーリーは、劇場で上演されもしたという。実際、先ごろ、ついに本国イタリアでも、ヴェローナのliceo classicoの学生たちが動詞、名詞、代名詞などの配役ごとに武装し、賑やかなラテン語文法戦争に興じたというニュースも執筆者の耳に飛び込んできた。こうした実践に鑑みても、グアルナの草案による「文法戦争」は、当時すでに死語となりつつあった古典語を現代の文脈に接ぎ木し、古典との活き活きとした対話を再開する機会を与えてくれるものであるように思われる。

近年、ヨーロッパでは古典学や文献学がふたたび脚光を浴びており、ユニークな研究が数多く試みられている。これらの研究が拠り所とする、「翻訳」のドキュメントそのものとしての文献をメタ‐フラシスする行為は、テクストを一歩一歩辿り同じ軌跡を描きながらも、もとの地点に戻ることのない、次なる可能性に開かれた螺旋(vertigo)といえるだろう。

佐藤真理恵(京都大学)

マウリツィオ・ベッティーニ『ウェルテレ――古代文化における翻訳の人類学』エイナウディ、2012年.
Maurizio Bettini,Vertere: Un’antropologia della traduzione nella cultura antica, Torino: Einaudi, 2012.

マウリツィオ・ベッティーニ『ヘルメスの耳――人類学および古典文学研究』エイナウディ、2000年.
Maurizio Bettini,Le orecchie di Hermes: Studi di antropologia e letterature classiche, Torino: Einaudi, 2000.

『アンドレア・グアルナの文法戦争(1511)――古くて新しいラテン語教授法』ドナテッラ・プリーガ+スヴェトラーナ・ハウタラ編訳、ETS出版、2011年.
La guerra grammaticale di Andrea Guarna (1511): Un’antica novità per la didattica del latino, ed. e trad.di Donatella Puliga e Svetlana Hautala, Pisa: Edizioni ETS, 2011.