第5回研究発表集会報告 パネル4

パネル4

2011年7月3日(日) 14:00-16:00
京都大学総合人間学部棟

パネル4:中欧における想像された「歴史」──ユーゴスラヴィア、ハンガリー、チェコの国家と芸術

「歴史」を語るのは誰か── クルスト・ヘゲドゥシチの絵画/素描作品を巡るクロアチア知識人達の言説
門間卓也(東京大学)

持て余された「グロテスク」──冷戦期ハンガリーにおけるバルトーク《中国の不思議な役人》への評価
岡本佳子(東京大学)

明るいプラハのために──ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』試論
杉戸勇気(東京大学)

【コメンテーター】 百瀬亮司(大阪大学)
【司会】 岡本佳子(東京大学)

※参加者の都合により、当初の予定からコメンテーターと司会が変更となりました。

1989年の体制転換以降、中欧における文化研究は飛躍的に進展している。同一の大学内の学生らによって当該地域の芸術を対象としたパネルが組まれたということも一つの現れとしてみなすことができるかもしれない。本パネルは戦間期ユーゴスラヴィア絵画、冷戦期のハンガリー音楽、体制転換後のチェコ文学を事例に、20世紀における国家とりわけ「歴史」の表象という観点から検証を試みるものである。この地域の芸術は西欧諸国やソ連から影響を受けつつ、それらと差異化を図る形でみずからの道を模索し続けてきた。国内にとどまった作家や作品をめぐり、どのように国家の「歴史」が受容され/新たに語りつがれているのかを探るのがパネルの目的である。

以上のような趣旨が司会の岡本から説明されたあと、門間卓也氏による「歴史を語るのは誰か――クルスト・ヘゲドゥシチの絵画/素描作品を巡るクロアチア知識人たちの言説」の発表が行われた。クルスト・ヘゲドゥシチは戦間期クロアチアの芸術家集団「大地」で活躍した画家である。農村や農民が素材として扱われていることから、彼はクロアチア農民党のイデオロギーを支える芸術家としてこれまで安易に語られてきたと門間氏は指摘する。確かに「大地」やヘゲドゥシチ自身には「われわれ」や「共同体」のための芸術創造という問題意識があったものの、その表現方法は農民を英雄視して描くことではなく、個人の表現を基盤としながら広く大衆に訴えようとするものであった。1933年の「ポドラヴィナのモティーフ集」には単に農民だけではなく、牢獄での個人的体験やルポルタージュに基づく作品も収録されている。この個人的な表現こそがヘゲドゥシチが置いた農民党イデオロギーとの「距離」なのではないかと結論付けられた。

続いて岡本佳子による「持て余された「グロテスク」――冷戦期ハンガリーにおけるバルトーク《中国の不思議な役人》への評価」の発表が行われた。パントマイム《中国の不思議な役人》は上演に際して、最も物議を醸したバルトーク作品のひとつである。この作品は祖国ハンガリーにおいても幾度となく上演禁止や妨害の憂き目に遭ってきた。とはいえその主たる原因はリアリズム的な舞台設定や性的表現であり、音楽そのものというよりは台本や舞台上演にとくに非難が集まっていた。しかし1953年からの冷戦の雪解けによってその評価に変化が見られ、1956年に企画された上演に際してはそれまで妨害がバルトークの苦難の道として語られるようになる。そこで目指されるのは外国の上演とは異なる、祖国ハンガリーでしかできない「正統な上演」であった。この時期に美術、振付、音楽といった一つの舞台作品を構成する様々な要素がバルトークへの箔付として集約されているのではないかという、彼の国民的作曲家としての側面が提示された。

最後に杉戸勇気氏による発表「明るいプラハのために――ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』試論」が行われた。本作品は1993年、つまりチェコのビロード革命(1989年)直後に書かれたアイヴァスの出世作である。杉戸氏はまず本作品を当時のプラハとの関連で解釈した。まずチェコ小説とプラハの街自体が持つ「変身」や「中間状態」が本作品にも表現されていること、20世紀半ばまでのプラハを舞台にした文学に見られる「散歩者の伝統」に対してビロード革命以後の本作品では積極的な違いがあること、さらに1989年を境界に「もうひとつの」街のイメージが、正常化時代に夢見られた明るいプラハではなくノスタルジーとして変化していることが述べられた。しかし杉戸氏はそれらを指摘したあと、それらの読みを「古い」解釈として規定する。そして本作品が現実と虚構世界の境界を問題にしていることから、最終的にはビロード革命やプラハといった歴史的事象からの解釈だけではなく、現代社会の文脈における読みも行える可能性を示唆した。

それぞれの発表のあと、百瀬亮司氏から質疑、コメントが寄せられた。個別の質問としてはとりわけ歴史的事象との直接的な関連性について多く触れられた。さらに全体的に向けて以下のようなコメントがなされた。本パネルで取り上げられた国はすべて旧ハプスブルク領という共通性がありつつも、これらの国を含める当該地域は「中欧」という名称を外からの呼称として引き受けるだけでなく他国との差異化をはかるために自ら積極的に用いてきた側面もあるように思える。このような歴史的・政治的経緯によって、この地域の文化や芸術はとかく政治との絡みで語られやすく、さらに彼ら自身の過去を振り返ろうとするノスタルジー的な仕草が特徴的である。これらはそれぞれの言語によって共同体意識を育んできたこととも密接に関連しているのではないか。一方で歴史学分野においては中欧を国家/ネイションとの関連で語るのはやや常套句となっており、より広い視野から見た相対化や新たな視点を探る必要についてコメントがなされた。

引き続いてパネル参加者やフロアによる質問や議論が行われたが、報告者の印象に残ったことは、個別の事例だけではなくこの地域を一定の枠組みとしてとらえることの意義についてであった。ヨーロッパが統合へ向かうなかであえて「中欧」「中東欧」「東欧」といった呼称によって語られ続ける動力とは何かを考える契機となったこと、また地域を軸にして様々な分野の研究者(歴史学、音楽学、美術史、文学)が集まり、中欧へのアプローチの差異や接点を探ることができたことは一定の成果であったと思う。

最後に、当日の急な変更にもかかわらずコメンテーターをお引き受けいただいた百瀬亮司氏に心より御礼申し上げる。

岡本佳子(東京大学)

【パネル概要】

1989年の体制転換による民主化ののち、中欧――東欧、中東欧など、呼称が定まらずともなお一定の枠組みをもって語られる地域――における文化研究は飛躍的に進展している。近年では亡命作家やマイノリティによる地域横断的な創作活動にも注目が集まっており、当該地域で国境にとらわれず自由に芸術が生みだされてきたことが示されてきた。

しかし一方で中欧は、ナショナリズムの興る19世紀、戦間期、東西冷戦、そして体制転換を経るなかで、西欧諸国やソ連から影響を受けつつ、つねにそれらとの差異化を図る形でみずからの道を模索し続けてきた。このことから、20世紀もあえて国内にとどまり続けた/とどめられた芸術家や作品が無数に存在するのも事実である。

ここで国内作家たちがみずからのアイデンティティの源泉として依拠するのが国家の「歴史」である。彼らの芸術作品は政治的イデオロギーと分かちがたく結びつきながら、それぞれの「歴史」を受容し、新たに語りつぐ。この点で、R.オーキーの「歴史はこの地域ではなかなか死に絶えない」(『東欧近代史』)という指摘は芸術の分野でもまた有効なのである。

20世紀中欧の諸芸術はどのような「歴史」を想像しているのか。戦間期ユーゴスラヴィアの絵画、冷戦期のハンガリーの音楽、体制転換後のチェコの文学という、国家内部にとどまる芸術作品の具体的な検証作業を梃子にしながら、本パネルにて考察を行なうこととしたい。(パネル構成:岡本佳子)


【発表概要】

「歴史」を語るのは誰か── クルスト・ヘゲドゥシチの絵画/素描作品を巡るクロアチア知識人達の言説
門間卓也(東京大学)

ユーゴスラヴィア王国において国王独裁制開始と同時に設立されたクロアチア人の芸術家集団「大地 Zemlja」の活動綱領とは「「われわれ」の表現を発見し鮮明にする」ことであった。中心人物である画家クルスト・ヘゲドゥシチにとって「「われわれ」の表現」とは、自身が幼少期を過ごした農村地帯とそこで暮らす農民達の姿であった。

しかし1932年の作品《洪水》にみられる農村への神話的モティーフの投射は、主要民族政党の農民党のイデオローグから、農村/農民の現実的問題を捨象した「マルクス主義」だと批判される。1933年の素描集《ポドラヴィナのモティーフ集 Podravski Motivi》はそれに応える形で農村/農民が内包する「野蛮さ」「暴力性」という問題を作品の主題に据えたといえる。しかしそのイメージは彼が官憲によって投獄された際に描いた牢獄の様子を起源とするものだった。こうしたヘゲドゥシチの絵画/素描作品にみられる政治的姿勢は、批評家の間に賛否両論を巻き起こすが、それは同時に彼ら自身の政治的立場を明確化するものだったといえる。

本発表では主に1930年代のヘゲドゥシチ自身の言説や彼の絵画/素描作品に関する批評を素材として、「われわれ」という言葉に現された主体が、ユーゴスラヴィア王国内の複数のイデオロギーの中でどう定義されたか分析する。その過程で、大戦間期クロアチア知識人がいかに農民党の語る伝統的農村/農民文化を基盤とした「歴史」から距離をとって集団的表象の問題軸を模索していたのか、さらにその渦中で知識人たる役割をどのように追及していたのかを明らかにする。

持て余された「グロテスク」──冷戦期ハンガリーにおけるバルトーク《中国の不思議な役人》への評価
岡本佳子(東京大学)

ハンガリーの作曲家バルトーク・ベーラの評価は、受容する側の政治的イデオロギーに強く左右されてきたと指摘されている。作風の多様さに加え、1945年すなわち冷戦前に亡命先のアメリカで早世したためである。先行研究によれば、冷戦期は東西陣営で評価が異なっていたことはもちろん、東側であるソ連やハンガリーでも多くのジレンマを抱えながら受容されていたことが明らかになっている。とりわけ彼の祖国ハンガリーにおいては、ソ連による内政干渉によって彼の評価が二転三転していった。

このような中でハンガリーの体制側から「退廃芸術」として糾弾の的となったのがパントマイム《中国の不思議な役人》(1918-24年)である。この作品はバルトークの代表作であるが、前衛的傾向と劇作家レンジェル・メニヘールトによる性的な内容によってスキャンダルを巻き起こし、民衆的な音楽とされた《オーケストラのための協奏曲》の対極に位置づけられた。作曲者死後のハンガリー初演ののちに上演、放送禁止となり、「偉大な作曲家」の「汚点」のように文字通り持て余されたのである。しかしその扱いはスターリン死後、ソ連の文化政策とは一線を画そうとするひとつの原動力ともなった。

本発表では《中国の不思議な役人》成立史とそれに伴う反応、1948年のソ連の党決議による前衛音楽への攻撃、上演禁止処分といった歴史的事件を扱いながら、バルトーク受容の一部を明らかにする。

明るいプラハのために──ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』試論
杉戸勇気(東京大学)

本発表はチェコの作家ミハル・アイヴァスが1993年に出版した長編小説『もうひとつの街』を取りあげる。これまでこの作品はプラハの文学にうけ継がれた「歩く人」の系譜に連なるものとして、あるいはボルヘスの小説に似たいわゆるパラレル・ワールドものとして単に理解されてきた。

発表ではまず、アンジェロ・マリア・リペリーノらが整理したプラハの「歩く人」のイメージに言及しながら主人公=語り手の「歩き」が従来の定義におさまらないものであることを指摘する。つぎに、この未知の「歩き」をもつ新時代の主人公が捜し歩く「もうひとつの街」が、ビロード革命以前の過去に明るい未来として表象された「もうひとつの世界」と皮肉にも密接な関係をもつことを政治的・歴史的文脈から述べる。具体的には正常化の時代にヴァーツラフ・ハヴェルが声明文の中に書き記した「もうひとつの世界」への言及や地下シーンで回覧された文芸誌『窓』の表紙絵に描かれた「もうひとつの世界」のイメージと比較しながら検討する。

ビロード革命直後という不安定な時期に著されたこの作品は、過去の記憶によって素材を与えられながらもそこから抜け出ようという混乱したプロセスの只中にあり、小説の現在である明るいプラハを素朴に表象することの困難さを湛えていると云える。本発表では、ビロード革命を軸に社会主義時代の記憶の観点から作品を再検討し、作品の歴史的重層性とあたらしい時代の幕あけを告げるその兆候的側面を明らかにしたい。