2020年8月10日(月)
14:00 - 16:30 研究発表[4日目午後]

・エッセイ映画作家としてのヨリス・イヴェンス──1950年代叙情的エッセイ映画時代の作品にみられる主観性/東志保(大阪大学)
・高嶺剛のドキュメンタリー映画における「復帰」へのいらだち/松田潤(一橋大学)
・水俣ドキュメンタリーの働きかけ──「記録」によるマイナーシネマ的な主体感形成/洞ヶ瀨真人(中部大学)
・ "The Technologies of the Self: Rethinking Japan’s ‘Self Documentary’ since the 2000s”/馬然(名古屋大学)
【司会】洞ヶ瀨真人(中部大学)

映画研究者マイケル・レノフが指摘するように、「主観性に対する抑圧は根強く、思想的に追い立てられてきたのがドキュメンタリー史での実状だった―それでも主観性がドキュメンタリーに属するものから消えてしまったということは決してなかった」。このパネルでは、現代のドキュメンタリー映画における主観性の問題を改めて議論の俎上にあげることを主目的とし、グローバル文脈での歴史系譜と地政学を共に注視しながら、映画研究、映像研究、文化研究が重なり合う場に浮上する新たな理論的視座に焦点をあてたい。

東は、オランダの映画作家ヨリス・イヴェンスを中心に、1950年代から60年代のエッセイ的な映像制作を論じる。イヴェンスの主観的な映像制作をヨーロッパ前衛映画の歴史に接続するその観点は新しい試みである。松田は、1972年の「沖縄返還」の文脈下にある高嶺剛の二本の初期作品を取り上げる。時間性の観点から高嶺の風景への取り組みを捉える松田の議論は注目に値するだろう。水俣病のドキュメンタリーを考察する洞ヶ瀨の議論は、被害者側の主観性を表現しようとする試みに着目する。主観の問題を被写体となる当事者や環境、観客を横断する視座で捉える観点が注目点である。馬は2000年以降の日本の「セルフドキュメンタリー」に着目する。新世紀に向けた技術的・社会的な「自己」の組み込みに着目するその議論では、松江哲明や小田香作品における身体と性の問題が焦点となる。

エッセイ映画作家としてのヨリス・イヴェンス──1950年代叙情的エッセイ映画時代の作品にみられる主観性
東志保(大阪大学)

エッセイ映画という用語は、1920~30年代のドキュメンタリー映画の興隆を受け、ハンス・リヒターによって提唱されたと言われている。その後、この用語は、アレクサンドル・アストリュックやアンドレ・バザンによって、戦後の新しい映画の動向を指し示すものとして再び取り上げられるようになった。このような、エッセイ映画の歴史的な文脈は、1920年代の前衛映画運動のなかからドキュメンタリー映画制作を開始し、その後も戦後の映画の新しい表現を貪欲に吸収しながら作品を発表し続けたヨリス・イヴェンスの軌跡とも重なるものである。しかし、イヴェンス研究の第一人者、トーマス・ウォーが指摘するように、イヴェンスはエッセイ映画の作家として十分に認識されていない。たとえば、時代的にエッセイ映画との強い関連性がみられるはずの1950~60年代のイヴェンスの作品がエッセイ映画の例として扱われることはほとんどなかった。そこで、本発表では、ウォーが「叙情的エッセイ映画」と呼ぶ、1950~60年代のイヴェンスのいくつかの作品を取り上げ、エッセイ映画作家としてのイヴェンスという一面に光を当ててみたい。そして、初期の前衛映画の時代からイヴェンスが重視していた主観性が、いかにエッセイ映画の語りによってアップデートされたのか、検討する。

高嶺剛のドキュメンタリー映画における「復帰」へのいらだち
松田潤(一橋大学)

本発表では、施政権返還前後の沖縄を舞台に撮影された高嶺剛の初期ドキュメンタリー作品を対象にする。1960年代末期、「核抜き・本土並み」を目指した祖国復帰運動の要求を決定的に裏切る形で沖縄の施政権返還が実現されることが明らかになっていた。高嶺は『オキナワンドリームショー』(1974年)で「日本復帰」前後の沖縄の「風景の死臭」を嗅ぎ取り、風景の特権化を排してすべての風景をスローモーションの中で「等価性」のもとに配置し直す作業を行なった後、次作の『オキナワン チルダイ』(1979年)では、「日本復帰」に象徴される「時計の時間とオキナワンタイムのせめぎ合いを風刺をこめて」描き出している。両作に通底しているのは、高嶺の「復帰へのいらだち」である。それは「復帰」という物語へ飲み込まれていく中で風景に意味が与えられ、「沖縄的なもの」が称揚されたり、逆に原日本のイメージが発見されたりするような、風景の序列化や特権化へのいらだちであり、またチルダイという独特の時間感覚が敷き均されてしまうことへの抵抗感でもある。本発表は、高嶺の初期作品に風景の特権化や時間の均質化に抗う契機を探求し、「復帰」批判を行ったことの意義を分析する。その際、ジョナス・メカス作品の影響を確認した上で、映画における非物語的なもの、「難民」化していく人々、夥しく登場する動物や物、説明を排した風景などに着目し、「日本復帰」という主体化=従属化から逃れゆく非主体的なものたちの共同性について考察する。

水俣ドキュメンタリーの働きかけ──「記録」によるマイナーシネマ的な主体感形成
洞ヶ瀨真人(中部大学)

本発表では、「水俣病」とされたメチル水銀中毒公害についてのドキュメンタリーにみられる、被害者の苦境を伝える映像技法について議論する。

水俣病が露呈させた問題は、毒物を流した加害企業と被害を受けた周辺住民・自然環境の表面的な関係性以上に根深い。被害者補償の訴えは、企業に支えられる労働者市民には営利活動を妨げ生活を脅かすものに見えるため、大多数を占めるその市民と少数の被害者間の諍いも生み、対立関係を錯綜させた(高峯2017)。また、その訴えは日本経済の根幹企業の障害ともなるため、高度成長期の世論の価値観からも乖離した(小林2015)。こうした公害病を囲む厳しい環境から「不可避的に促された語り」(Marran 2017)となるためか、被害者の苦境を訴えるドキュメンタリーの多くには、単なる告発ではなく、G・ジェノスコ(2018)がガタリ思想のなかで着目した、映像などの非シニフィアン記号の効果によって精神病を患う少数者の感覚を一般民衆の主体感にも生じさせる「マイナーシネマ」的描写が先駆的に見られる。

発表では次の作品の試みに着目し、それが「民衆のなかにマイナー主義的な生成」を促す力といかに重なるか検討したい。胎児性患者の鼓動が語りかける『111』(1969)、株主総会の騒乱を音声で増幅した『水俣・患者さんとその世界』(1971)、被害者の暮らしの美しさを描いた『阿賀に生きる』(1991)などを参照する予定である。

The Technologies of the Self: Rethinking Japan’s ‘Self Documentary’ since the 2000s
馬然(名古屋大学)

When Japanese postwar documentary was seeing its beginning of an end for a golden time in the 1970s, the first-person ‘private film’ (puraibeto firumu) burst onto the scene with its new working mode, aesthetics, and politics—Hara Kazuo and Suzuki Shirōyasu stood out as two of its most important pioneers (Nornes). This project highlights Japan’s vernacular mode of ‘self documentary’ (serufu dokyumentari, short as serudokyu) since the 2000s and considers it one contemporary development of the ‘private film’. However the personal and the private may characterise documentary-making in Japan nowadays, many ‘serudokyu’ are considered solipsistic and socially-naïve, which may partially explain why many of these films are not attracting much academic or critical attention home and abroad. While contemporary ‘serudokyu’ has been thinly adorned with theories of identity politics and rarely engaged with practices of empowerment, I suggest we could extend our critical horizon and grasp the ‘serudokyu’ by looking at the technosocial assembling of the ‘self’ into the new millennium, which arguably intersects with the multifarious articulations of the ‘self’ in Japanese popular culture within the digitalized, transmedia environment. Specifically, foregrounding works by filmmakers such as Matsue Tetsuaki and Oda Kaori, this study focuses on the issues of body and sexuality, and is particularly interested in interrogating the politics and aesthetics apropos the production and circulation of erotic and queer feelings in the everyday.

参加方法:
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