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研究発表パネルC

近代の上演

発言者:新田啓子(一橋大学) / 森山直人(京都造形芸術大学) / 吉田寛(国立音楽大学)
コメンテーター:尼ヶ崎彬(学習院女子大学) 司会:内野儀(東京大学)
2005年11月20日(日) 10:00-12:00 18号館4階コラボレーションルーム 3

 パネルCは、学習院女子大学の尼ヶ崎彬氏をコメンテーターに迎え、内野儀氏の司会のもとで進められた。

 本パネルのタイトル「近代の上演」には、「近代における上演芸術」という通常の意味のほかに、「さまざまな表象行為の実践の効果として実現される近代性」、すなわち「上演される近代」という意味が重ね合わされている。このように二重化された上演概念を通じて、3人の発表者はそれぞれの専門とする領域における「近代」を論じた。アメリカにおけるボードビル(新田氏)、日本におけるアングラ演劇(森山氏)、ドイツにおける芸術音楽(吉田氏、以上発表順)と、各自の分析対象は多様であったが、そこでは共通して、芸術ジャンルとアインデンティティの政治との間の緊密な関係性が近代固有の現象として問題化されたと言えよう。


 各発表ののちに、コメンテーターの尼ヶ崎氏との間でおこなわれたやりとりの概要は、以下のようなものであった。


新田氏に対するコメント:
ボールドウィンが、アメリカの黒人にはアイデンティティが、その拠り所となるべき文化がない、との認識を述べていたが、ブラック・レヴォリューションの時期における黒人自身による自己表象=上演はいかに変化したのか。白人の鏡像としての自己認識は変容したのか。

新田氏からの応答:
ブラックネスを称揚することは黒人の尊厳回復に確かに有効であったが、その一方で肌の色を人間的価値の指標としないような黒人の自己表象の可能性は、ゾラ・ニール・ハーストンの1926年の戯曲、あるいはラングストン・ヒューズの詩作におけるように、問い直され、模索されてきた。


森山氏に対するコメント:
新劇にとって、芸術的自律性は、左翼的政治運動の内部で獲得されるべき目標であり、自明ではなかった。その新劇に対抗するアングラ演劇には、二重の奇形性が見出されないか。ブレヒトの異化作用は、新劇とアングラ演劇の二項対立を乗り越える契機として位置づけられないか。

森山氏からの応答:
花田清輝が指摘するように、ブレヒトの紹介者であった千田是也の職人性、芸術に対する信頼には、新劇に特徴的な芸術性と政治性の奇妙な同居が見出される。ブレヒトは、指摘の通り古典的感性に対する反省としてのバロックとして、異化効果を表面的に受容した新劇と、新劇の作家としてのブレヒトに警戒的であったアングラ演劇とを、つなぐ概念的鍵となりうる。


吉田氏に対するコメント:
ヴァーグナーにとっての幻想のドイツは、台本の中にではなく、音楽の中にいかに表れるのか。ドイツ性の構築の過程において、ユダヤ性がきわめて重要な意味を持ったと思われるが、それはヴァーグナーにおいてもあてはまるのか。

吉田氏からの応答:
ユダヤ性は確かにドイツ性の概念規定に必要なものだった。ヴァーグナーが楽劇をドイツ的なものと考えた背景には、器楽奏者にはユダヤ人が多かった事実もある。その一方に純粋音楽こそドイツ的であるとする、拮抗する主張も存在した。表象不可能な芸術としての音楽の内部においては、ドイツ性の表象は論じることができず、それゆえに政治化されうるのだろう。



「近代の上演」

 本パネルは、〈上演〉という観点を通じてモダニティを再考する試みである。セジウィックらが論じたように、「パフォーマンス」と「パフォーマティブ」の概念は、理論的出自を異にしつつも、両者がともに内包する反復性の契機によって本質的に結びついていると見なすことができる。私たちは、こうしたパフォーマンス/パフォーマティブの両次元を含む概念をひとまず〈上演〉と呼び、これによって、狭義の上演芸術のみならず、近代における文化表象一般に内包される上演性の契機を問題化したい。そこでは、近代特有の「文化の政治」、とりわけ、性・人種・ナショナリティといったアイデンティティ・カテゴリーの構築における〈上演〉の作用が共通して問われることになるだろう。〈上演〉という包括的な枠組みのもと、領域横断的な討議の場を成立させ、モダニティと文化をめぐる研究の新たな展開の可能性を示すことが、本パネルの目標である。


新田啓子「モダニズムとcolor struck——黒人女性表象の常套化を辿って」

  本発表では、20世紀前半に特筆すべき活動を記した女優/大衆(劇)作家Mae Westを中心に、そして彼女の周辺にいた表現者たち──Bert Williams, Zora Neale Hurston, Ethel Waters──の影響を踏まえつつ、黒人女性表象が常套化された経緯を考察する。この作業が辿るのは、テクストから演劇、そして映画へと展開する「上演」媒体の変遷に対応し、同じく特殊な変化を遂げた文化権力の現れを記すケースであるが、それはまた、ここで扱う1920〜30年代の「混血表象」への不安をも明らかにする。


森山直人「〈アングラ演劇〉を再考する——戦後日本演劇におけるバロック性をめぐって」

 1960年代後半以降の〈アングラ第一世代〉の活動が、戦後日本の現代演劇の歴史において最も豊かな一時期を形成したことは確かだが、モダニズム、ナショナリズム、フェミニズム等の議論の今日的な地平からみたとき、批判的に検討すべき余地が多く残されていることも確かである。本発表は、〈アングラ〉の到達した地平を、ベンヤミン的な「バロック」の概念から検討することを通じて、「近代日本」という歴史的時空の演劇的表象=上演空間の裂け目の再検証を目的とする。


吉田寛「可聴化されたネイション──音楽と《ドイツ的なもの」

 近代のドイツにおいて「ネイション」(あるいはフォルク)は、音楽という聴覚的で非言語的な芸術を媒介にして想像された理念的構築物であった。ヨーロッパのなかの「遅れてきた国民」であったドイツが政治的、経済的、軍事的に自らを「先進国化」する過程で、かたや「音楽の国」というドイツの文化的表象が生まれたのは偶然ではなかった。しかし理念は常に「行き過ぎ」る。音楽がいかに「ドイツ的なもの」の理念を表象=代弁し、なおかつその現実化を困難にしてきたのか、本発表ではそれをヴァーグナーを例にして考察する。