日時:2014年11月8日(土)
場所:新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F274教室
14:45-16:45

・片岡佑介(一橋大学)「敗北した男たちの邂逅――黒木和雄『原子力戦争』における佐藤慶と岡田英次」
・福田安佐子(京都大学)「ゾンビにおけるセクシャリティ――ポストヒューマニズムとの関連から――」
・滝浪佑紀(東京大学)「小津安二郎映画における〈演出〉の美学――1930年代中盤の作品を中心に」
司会:中村秀之(立教大学)

片岡佑介(一橋大学)「敗北した男たちの邂逅――黒木和雄『原子力戦争』における佐藤慶と岡田英次」

本発表では、黒木和雄『原子力戦争』(1978)における敗北した男の表象を、1950年代の原爆映画を参照しつつ検討する。
新藤兼人『原爆の子』(1952)や関川秀雄『ひろしま』(1953)等では、女教師や母親を演じる女性登場人物が、マリア像や白いブラウスに象徴される無垢なイメージで現れる。彼女たちのオフの語りや童謡の歌声は、「母の声」(カジャ・シルヴァーマン)や身体なき声である「声の存在(アクスメートル)」(ミシェル・シオン)として表象され、しばしば戦前の穏やかな日常への思慕を喚起させる。他方、元復員兵である岡田英次演じる『ひろしま』の男性教師は、聴く人物として観客の視聴点を担う反面、生徒との合唱の声が消去されている。
これに対し、原発の利権を巡る犯罪映画『原子力戦争』では、50年代の無垢な女性像に代わり、ファム・ファタールの役を担う黒衣の未亡人が、声なき身体である「沈黙の人物」(シオン)として亡霊のように出現する。加えて本作には、彼女の導きで権力者に闘争を挑み破滅する、原田芳雄演じるアウトローの強い男性が白いスーツ姿で現れる一方、原田と共闘しつつも最終的に撤退する弱い男性として佐藤慶演じる新聞記者が登場する。
安保闘争に挫折したこの弱い男性が、原子力研究の権威で先の未亡人の愛人役でもある岡田英次と作中唯一対面する人物であり、とりわけ見る人物でもあることに着目し、核を主題とした映画における負けた男の邂逅を明らかにする。


福田安佐子(京都大学)「ゾンビにおけるセクシャリティ――ポストヒューマニズムとの関連から――」

現代のゾンビ映画では、意識や言語能力を持つ例外的なゾンビや、絶望的な状況を打破する可能性を秘めたゾンビにおいて、セクシャリティがしばしば強調して描かれる。ゾンビ映画における女性性に関する先行研究としては、1932年の「ホワイトゾンビ」にゾンビ=奴隷=女性といったポスト・コロニアリズムの影響をみるものや、1968年のジョージ・A・ロメロ監督の「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」と90年のリメイク版とを比較し、脅えるだけであったヒロインが戦う女性へと変化したことを、80年代の女性の社会進出に重ね合わせるものなど、ジェンダーや社会構造の変化がゾンビ映画に反映しているとするものがあげられる。しかし、生殖活動が不必要な、腐乱したゾンビの肉体において、執拗なほど女性性を強調する理由は明らかにされない。
本発表では、アンドロイドやロボットのセクシュアリティに関するポストヒューマニズムの議論のなかにゾンビを位置づけ、ポストヒューマンとしてのゾンビがポストヒューマニズムにおけるセクシュアリティの問題を考える上で重要な役割を持つと考える。以上のような議論を通じて、ポストヒューマニズムにおけるゾンビのセクシャリティを描き出し、ゾンビの現代的意味を捉え直す端緒とする。


滝浪佑紀(東京大学)「小津安二郎映画における〈演出〉の美学――1930年代中盤の作品を中心に」

小津安二郎は、常に変わらぬ主題を厳格にスタイル化された手法で表現する映画作家だと見なされてきた。しかし、彼の作品を時系列順に詳しく辿ってみると、小津は一本一本の作品で新しいことを試みていたということがわかる。こうした傾向は、小津が「巨匠」としての名声をいまだ確立させていなかった戦前期の作品に顕著だと言えるだろう。筆者は既出の論文で、小津は1933年まで、映画の〈動き〉という論点をめぐって、彼の尊敬するハリウッド映画の監督――とりわけエルンスト・ルビッチ――を模倣することで、自身の美学を練り上げていったことを明らかにした。そこでの論点は、不安定なまでに動的な状態にある映画メディウムを、いかにその動的な状態のままに保つのかという〈編集〉の美学に関わっていた。それに対して、小津は1934年以降、より長回しとロングショットに基づいた〈演出〉を発展させていくことになる。
本発表は、『浮草物語』や『東京の宿』といった1930年代半ばの小津作品の分析および、インタビューにおける小津自身の発言や批評家・岸松雄の評言への参照を通じて、小津の〈演出〉の美学の含意を考察する。本発表ではとりわけ、こうした小津の〈演出〉の美学と、(1)映像と音の同期が最重要な問題となり、長回しというスタイルと相性の良いトーキー美学、(2)1930年代中盤を通じて、多用されるようになった「風景」のロングショットの問題との関連性を探る。