7月6日(日)14:00-16:00
駒場キャンパス18号館4Fコラボレーションルーム1

・「神のごとき」芸術家――ヴァザーリによるミケランジェロの記念をめぐって/古川萌(京都大学)
・「子ども」のような芸術家――ジョルジュ・バタイユにおけるカフカと至高性/井岡詩子(京都大学)
・「無心」の藝術家――柳宗悦と民画/古舘遼(東京大学)
【コメンテーター】柳澤田実(関西学院大学)
【司会】杉山博昭(早稲田大学)


パネル概要

「芸術家」の表象は、政治的、社会的な思惑や美的な要請、個人の理想といった、さまざまな要因から形成されてきた。ナタリー・エニックの研究を引くまでもなく、今日的な意味での「芸術家」という語の成立自体、そのような恣意的にして戦略的なイメージ操作のもとにある。17世紀後半から18世紀にかけて、絵画や彫刻の「機械的技芸」から「自由技芸」への昇格を目指した制作者らによる一連の活動は、詩人や画家、彫刻家を包括する「芸術家」という概念を創出し、彼らの仕事を霊感に基づいて創造された作品として価値づけた。以来われわれは、「芸術家」という夢を見続けてきた。その作品とは別に神話や伝説に彩られた人格や逸話もまた、ひとびとを魅了してやまないものとなったのである。
本パネルではかかる「芸術家」の表象を、地域や時代の枠組みを越えて提示する。さまざまな逸話を通して制作者たちの魅力を伝えたヴァザーリから見たミケランジェロの死(古川)や、現代における芸術の重要性を標榜したバタイユによるカフカ論(井岡)、そして、いわゆる美術の括りからは取りこぼされた絵画を「民画」という概念によって掬いだした柳宗悦の評論(古舘)を読み解き、「芸術家」をめぐる議論の多様性とその射程を明らかにすることを試みる。これらを通して、いわば商品化された「芸術家」がつぎつぎと消費されてゆく現代の情況にたいして、新しい観点を提供することも可能となるだろう。

「神のごとき」芸術家――ヴァザーリによるミケランジェロの記念をめぐって/古川萌(京都大学)

ルネサンス期イタリアの芸術家ミケランジェロ・ブオナローティ(1475−1564)は、1564年2月18日に亡くなった。すでに彼はジョルジョ・ヴァザーリ(1511−1574)の『芸術家列伝』第一版(1550)に収録された伝記によってその名声を確たるものにしており、フィレンツェでは壮麗な葬儀と大規模な墓碑がミケランジェロのために用意された。ヴァザーリ率いるアカデミア・デル・ディセーニョが中心となり、人文主義者ヴィンチェンツィオ・ボルギーニの指導とフィレンツェ公コジモ一世・デ・メディチの援助のもと、ミケランジェロを記念する式典が執行されたのだ。
しかし、葬儀や埋葬にかかわったこれらの人びとが、それぞれ別様にミケランジェロの死を意味づけていたことは重要である。すなわち、葬儀や墓碑建立の場ではこれら複数の意味づけが共存していたのであり、ミケランジェロ記念の発案者であったヴァザーリの当初の意図は、さまざまな人物の要望や制約により薄められてしまっていたのではないだろうか。
したがって本発表では、ミケランジェロの葬儀と墓碑の建立に至る過程に着目し、ヴァザーリがミケランジェロという芸術家に負わせようとしたイメージについて考察を試みる。ヴァザーリの記述や書簡を主な手がかりに、各関係者のミケランジェロ記念への関わり方やその背景を検討することにより、ヴァザーリがミケランジェロ記念において望んだ芸術家像と、その顛末を提示したい。


「子ども」のような芸術家――ジョルジュ・バタイユにおけるカフカと至高性/井岡詩子(京都大学)

本発表の目的は、ジョルジュ・バタイユ(1897−1962年)の思想における「至高な芸術家」のすがたを、彼のカフカ論を通して明らかにすることにある。
最終的に『文学と悪』(1957年)に収められることとなったバタイユのカフカ論は、『至高性』(1953年頃執筆)に収録される計画であったと考えられる。実際バタイユは『至高性』において、ニーチェをコミュニスムに唯一対峙し得る人物として描き出したのち、そのつぎに語られるべきは芸術家カフカだと告げているのである。しかし結局その部分は執筆されぬまま、『至高性』は未完のまま遺された。ニーチェとカフカを引き較べたとき、その相違はコミュニスムとの関係性にある。ニーチェがコミュニスムに対峙するのにたいし、カフカはその内部にあって服従しつつ反抗する芸術家であるのだ。本発表では、ニーチェの示した「革命的行動」を「唯一おとなの」行動とバタイユが規定し、またカフカの態度を「子ども」のそれとしている点に着目することで、両者の差異を明らかにする。それによって、「子ども」らしい生を具えた者としての「至高な芸術家」のすがたが浮き彫りになるだろう。とはいえ、この場合バタイユが認める「子ども」らしさは必然的に死や没落を孕む。有用性の原則をもとに発展した時代として現代を解釈するバタイユにとって、本質的にその原則と相容れることの不可能な芸術を生みだす者は「落伍した存在」とならざるを得ないのである。


「無心」の藝術家――柳宗悦と民画/古舘遼(東京大学)

日本民藝運動を主導した柳宗悦(1889—1961)は、いわゆる「下手物」(げてもの)などの工藝品のみならず、作者不詳で価値が低いと見なされた絵画も精力的に収集した。銘(あるいは署名)が無く、しばしば稚拙であるために、美術の文脈で価値が認められなかった絵画を「民画」(民衆的絵画)と総称し、積極的に評価しようとしたのであった。大津絵はその代表例であるが、「素朴」という形容と共に人気を高め、展覧会や、関連書籍等で触れる機会も多い。しかし、民画という概念、あるいは思想において柳が指向したことを探る研究は少なく、民画は未だに美術・工藝のいずれの分野でも辺境に置かれている観がある。
本発表では柳の大津絵論を整理し、柳が「自然人」として賞賛した棟方志功(1903—75)の「板画」(はんが)を併せて参照する。そこから、民藝品の制作において柳が理想としていた「無心」という在り方が、絵画の評価においても核となっていたことが明らかとなる。作者の個性をしりぞけ、専門的な教育を受けていない無名の作り手を称揚する態度は、かつて柳が同人として活動していた『白樺』の藝術家観と矛盾するものであり、個人的でナイーヴな考えであるなどとして、批判も多い。本発表では、「無心」という概念に依拠しながら、無名の民衆から個人作家に至るまで、柳が共通の理想とした藝術家像を提示し、それが今日においても一定の有効性を持ちうることを実証したい。